馬鹿騒ぎ
68 貴女に還る命を見たの*
今から80年前…1850年くらいかね。そう、わたしがまだ十代で学校に通っていた頃のことさ。今とじゃあ比べものにならないくらい不便な暮らしでねぇ。用を足した後も水は詰まるし、掻き出すにも水がなくては上手くいかない。それで、母のいいつけで、よく下の用水路まで水を汲みに行ったもんだ。今ほど流れは急じゃあなかったから子供のわたしの仕事だったわけだ。それで、いつもみたいに母に言われて水を汲みに地下に降りたんだ。そうしたら、階段の途中に何かがいる。鉄くさい匂いと土の匂いに驚いて慌てて近づいた。蝋燭のわずかな明かりで照らしてみると真っ黒に汚れた人間だった。現代よりも治安の悪い時代だ、誰かが血を流して倒れているのはおかしい話じゃない。ただひとつおかしいと思ったのは、その姿がやけに華奢でいて、丸みを帯びた体つきをしていたことだった。倒れている人がいたとしても、それは大概にして男だったからねぇ。マフィア同士の諍いやチンピラ共の喧嘩なんてそんなもの。だから女性が血まみれで倒れていることに驚き、愕然としたもんさ。

急いで元来た階段を上って家に戻って母を呼んだ。驚いた母も女性の姿を目にすると、即座に毛布を持ってきてそれで包んで持ち上げた。「わたしがこの人を運ぶから、そこに落ちている靴を持ってきなさい」母の言う通りに無造作に落ちていたこれも血まみれの靴を布でくるんで持つ。するとどうだい、布の中で何かが蠢くような感触があった。ねずみ?まさか、こんな血まみれの靴の中にねずみが入り込むだろうか。怖いもの見たさと単純な興味でくるんでいた布をめくってみたらさあ大変。靴の中で真っ赤な肉の塊がぶるぶる震えているんだ。血なまぐさいマフィアとやりとりしている家系でもあったし、婚約者もマフィアのボスの倅だったからそういったものに慣れていたつもりでも、あれはおぞましかったねぇ。あまりのおぞましさに動けないでいると、ぶるぶる震えていた靴から滴り落ちていた血が階段を滑るように登りはじめた。恐怖に駆られて情けない声で母を呼ぶと、様子を見に来た母も絶句していたよ。母から見れば、真っ赤な血が自分に向かって登ってきていたんだからねえ。そうして、茫然と立ち尽くした母がはじかれたように部屋の中を振り向いた。そして呟いた。


「不死者だ…!」


そう呟いた母は、自分の足元で蠢く赤黒い液体を両手に掬い部屋の中へ戻っていった。そして、部屋の中からわたしに、急いで靴を、いや、足を持ってくるように声を荒げた。尚も登り続ける液体に恐れおののきながらも、階段の端を駆け上がり、部屋の中へ入る。そして目に飛び込んできたのはボロボロで、体のところどころに穴の空いたわたしぐらいの女の子だった。母は、ボロボロの女の子の周りの血液を掬っては穴の空いたところへ落としていた。立ちすくむしかできないわたしを一瞥し、わたしの持っている足を奪って、女の子の足首へ持って行った。まず、血が動いていることも肉塊が震えていることも理解できない上に、普通ならば即死であろう状態で胸が上下していること、母が助けようとしていることがあの時は何よりも受け入れがたかったねぇ。

「ねえ、どうして、血が、もう死んじゃうんじゃ、」
「ラリサ、この子は死なない。……いや、死ねない。前に話したことがあっただろう、これが『不死者』だ」

死なないとわかってはいても、娘のわたしと同じくらいの女の子が血まみれでぐちゃぐちゃの姿をしていることが辛かったのか、母は泣きながら血を掬い続けていたね。後から聞いた話だが、一刻でも早く体に近づければ治るのも早いと思ってやっていたらしい。当たらずとも遠からず、といったところだろうね。わたしは震える体で、お湯を沸かして、きれいなタオルを用意した。母のようには、十代の頃のわたしゃできなかったねえ。血だけじゃなく、泥にもまみれていたが血が蠢いて戻っていく様を見ると迂闊に風呂に入れることはできずにいた。だから、お湯で絞ったタオルで髪と顔を拭いた。さっきまで、右目の上が紫色に腫れ上がっていたのに拭いているうちに真っ白な大理石のような肌に変わっていってね、顔は元々怪我が少なかったのかすぐにきれいに元通りさ。髪もプラチナブロンドが見えてきて、きちんと洗い流せばきっとふわふわの上質な髪だとすぐに気付いたよ。それを見て、母が尚更痛ましげに彼女の足を早くくっつけようと躍起になっていた。骨も折っていたらしく、腫れ上がった腕がべきべきと嫌な音をひとしきり鳴らしたかと思えば、すぐさま静かになってね。ただ、中で筋肉の修正でもしているのか、服の下でもこもこと皮膚が波打っていた。まるで虫が這っているようだと思ったよ。それを見て、もしかすると、と思い、包帯で彼女の先のない足首と靴の中にある足先を無理やりくっつけて、包帯でぐるぐる巻きにした。血は包帯の隙間からも戻っていくらしく、巻いている最中にも染み込むことなくするすると隙間に入っていったんだ。足はきっと、さっきみたいにべきべき戻っていくと仮定して、このまま床に寝かせておくわけにはいかなかったから、母と共にベッドに運んだ。

ベッドに運び終えた辺りで既に胴体の傷は癒えていたみたいで、服に開いた穴からは白い肌が丸見えだった。母は「失礼するよ」そう一言、意識のない女の子に声を掛けてから血の匂いがもうしない泥まみれの服を脱がせたんだ。そして二人して息を飲んだね……さっきまであんなに動いていた赤も、ぐちゃぐちゃの傷跡もそこにはひとつも存在しなかった。包帯でぐるぐる巻きにした足首だって、さっきまで足先が不自然な向きに倒れかけていたのに気づけば正常な位置に戻っているんだ。まるで魔法のようだと思ったよ。とりあえず、バスローブを着せてやってわたしのベッドに横にしておいたさ。


夜になって、女の子の様子を見に部屋に行ってみるとね、人形のようにこちらを見据える女の子が暗闇の中でベッドに腰かけていた。

「……だ、だいじょうぶなの、あなた、」

情けないほど声は震えていたと思う。母にいくら不死者の存在を知らされていたって、本当にいるのだとこの目で見たって、あれはどうしようもなく化け物そのものだと思ってしまったんだからねぇ。


「これ、あなたの?」


わたしの問いかけに頷いてから、ぴらりとローブの裾を翻して見せた。わたしはまたしても震えた声で肯定した。

「そう…汚かったでしょうに。それに、気味の悪い所を見せてしまったようですね」


女の子の言葉にすぐに答えることはできなかった。化け物だと思ってしまった反面、月夜で照らされたその姿が童話の中のお姫様みたいでねぇ…。不気味さは残っていたけれど、その妖しさに二の句が継げなかったもんさ。

「…だいじょうぶ、あ、安心して…ここは情報屋だから…あなたのような存在も知ってる、から。害もない、から」

しどろもどろになりながら言葉を探っていると、わたしの戻りが遅いと母が不思議に思って部屋にやって来て、女の子の姿を見た途端においおい泣きながら抱きしめた。

それから女の子――リアと少しの間一緒に暮らすことになったんだ。心配した母が引き止めたからね。わたしにはまだ恐れが残っていて、すぐに打ち解けるまではいかなかったがね。助けてもらった例だと言って、不死者の情報をある程度教えてもらった。リアが不死になった船のこと。損傷した肉体は元に戻るけれど、一度に広範囲の部位を損傷した時は戻るペースが遅いこと。修復にも慣れがあって、何度も怪我をしたところはすぐに治ってしまうこと。わたしや母なんかよりももっともっと長い時間を生きてきたこと……たくさんのことを聞いたよ。



「ねえリア、どうしてあの時あんなに傷だらけだったの?」
「探し物をしていたんです」
「探し物?」
「すぐに答えに辿り着こうとして罰が当たったんですよ」


何を探しているのか、答えをはぐらかされてなんだかんだと80年付き合ってきてねぇ。今更、何を探しているのか聞けずじまいさ。どうやら、答えは見つかったようだけれど、探し物は見つかっていないようでね。深く掘り下げようとすると、あのお得意の笑顔でたしなめられるんだ。見た目じゃあ、とっくのとうにわたしの方が老いているのに、あの子のひらりとかわす術(すべ)はいつになっても真似できないねえ。



_68/83
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