西野夕とわたしとあの日


 連日、雨が降り続いていた。
 高校一年の夏。初めてのインターハイを終え、敗北の悔しさもさることながら、あっさりと引退していく三年生の姿を見送った寂しさが、ほんのりと薄れつつある中。みょうじなまえはとぼとぼと重い足取りで、体育館へ続く渡り廊下を歩いていた。

 今から部活に向かうというのに、なまえはまだ制服のままだ。なにせ今日はやることがない。正確には、やらせてもらえない。何故なら、体育館の使用許可が下りなかったから。
 烏野高校バレー部が強豪校と呼ばれた時代は、もはや過去の栄光と化している。それをひしひしと感じるのは、何も他校からの冷めた視線だけではない。同じ学校内の他の部活と比べて冷遇されているのは、誰が見ても明らかだ。先輩たちはこれでもまだ去年よりはマシだと言うから、一年生は誰も文句を言えずにいる。ただ、なまえはそんな状況を良しと思わない人間のひとりで、マネージャーの自分に何かできることはないかといつも駆け回っていた。

 そして今日。なまえはついに行動に出た。いつもなら放課後は真っ先に部活に向かうところを、二年生の教室に立ち寄った。それはとある人物に会うためだ。この夏のインターハイで見事に宮城県代表の座を掴み取り、全国でベスト8という好成績を叩き出した烏野高校バスケ部、その時期キャプテンの元へ。
 なまえは深々と頭を下げた。少しの時間でもいいから、バレー部に体育館を譲って欲しいと。なにせここ数日の雨続きで、ロクな練習が出来ていない。部員たちの士気も上がらず、新主将である澤村大地もさすがに参ってきている。なまえはそういった雰囲気にとくに敏感だった。マネージャーとしてやるべき仕事もついに無くなってきている。だから、これは最後の手段だ。こんなことで彼を頼るのは間違っていると思ったが、なまえの持ち得る手札はそれしかなかった。
 そして、あえなく撃沈した。彼はなまえの申し出を聞き入れてくれることはなく、おまけに酷い言葉でなまえのことを罵ったのだ。彼にとってはなまえの事をからかうつもりでいった言葉も、切羽詰まっていたなまえには冗談に受け取れないものばかりだった。ただ、自分が無理を言っている自覚は元よりあったので、何も言い返さなかった。そんな経緯があった故、半泣き状態でしぶしぶ戻ってきたというわけだ。

 部員は各自、筋トレでも行なっているだろうか。この雨では外で動くこともできないし、出来ることはかなり限られてくる。なまえなんか最近は、備品整理か部室の片付けしかしていない。今日は何をしようかと探して、とりあえず未練がましく体育館を訪れていた。もう何日もボールに触れていない気がする。選手でもないくせに、と言われそうだが、なまえにとってバレーのない日常というのはひどく味気のないものだ。例え自分がコートに立たなくても、頑張っている部員の姿を見ているだけで、その心は踊る。

 今年の烏野は何か変わるかもしれない、と三年の引退式の際に前主将が言っていた。「落ちた強豪、飛べない烏。」そんな不名誉な呼び名で野次られる時代は、もうこれで最後だと。
 残された一年生と二年生は、その言葉をどう受け止めただろうか。少なくともなまえは、今のメンバーならきっとそうなれると信じている。だからこそ、次の春高では必ず結果を出して見せると皆奮闘している。

 ただ、どれだけ前向きになろうともやはり現実は厳しいものだ。何事も結果が全てだと突きつけられる。結局、自分には何もできなかった。自分が勝手にやって勝手に落ち込んでいるだけだけど、部員に合わせる顔がない。はぁ、と大きくため息を溢す。
 ネガティブが加速していよいよ立ち止まってしまいそうになったとき、後ろの方から「あっ!!」っと大きな声が響いた。男子にしては高く聞き覚えのある声に、ビク!と肩を揺らす。目に溜まっていた涙をカーディガンの袖でごしごしと拭い、平常心を装いながらくるりと振り返る。

「なまえーッッ!お前、どこいってたんだよ! 放課後急いで教室出てったろ?」
「あ……西谷くん」

 同じクラスのバレー部員、西谷夕だ。
 外で何かやっていたのか、特徴的なツンツン頭が雨に濡れてしんなりと下がっている。

「……ねえ、早く身体ふかないと風邪ひいちゃうよ?」
「ヘーキヘーキ!大地さんに頼まれて体育館裏の倉庫で探し物しててさ!……つーかお前どうした? なんか元気ねえじゃん」

 ぐ、と顔を覗き込むように西谷に接近されて、なまえはぎくりと身体をすくませた。……が、泣いていたことには気づかれなかったらしい。外はあたり一面に真っ黒な雨雲が広がっており、薄暗い渡り廊下にいたことが幸いしたようだ。

「っ、大丈夫!それより、探し物って?」
「……ああ、ブロック板! 今使ってるやつ板が割れかけててよ。修理終わるまで昔の使えっかなって」
「昔のブロック板……?そんなのあったかな」
「だろー? 探したけど中々見つかんなくてよ、一応体育館の中の倉庫も見とこうと思って」

 すぐに話題を切り替えたためか、西谷は不思議そうな顔をするもそれ以上追求はしてこなかった。西谷の言う体育館裏の倉庫はなまえも行ったことがあるが、バレー部の使うような備品は置いていなかったと記憶している。体育館内の倉庫についても、先輩マネージャーの清水と先週整理をしたばかりだ。

「うーん……ないと思うけど、一応行ってみようか」
「おー。つーかなまえまだ制服のままじゃん。いつもほぼ一番乗りで来るのに今日はおせーしよ」
「た、たまたま! 用事があって」
「ふーん。ま、いーけど」

 適当に誤魔化しながら、なまえは体育館の入口へ向かう西谷の後をついていった。

 天井の波板を叩く雨の音は徐々に大きくなり、廊下の真ん中を歩かなければ地面を跳ね返った雨で足元が濡れてしまうほどの大雨になっていた。少し遠くの方で雷の唸る音が聞こえてくる。山の天気は変わりやすいというが、これは帰りまで止みそうにない。どのみちジャージに着替えてそのまま帰った方が良さそうだな、とか。明日も外練でグラウンド使えなかったらやだな、とか。なまえの悩みは尽きそうもない。
 そんな自分とは対照的に、いつ何時でも元気一杯な西谷が、なまえは少し羨ましく感じていた。大雨強風高波とかでテンションが上がりそうなタイプに見える。ただ、うるさくてちょっと馬鹿っぽいくせに、バレーをしている時は人並外れた集中力を見せるのだから、西谷夕という男は侮れない。なまえは一年生の男子の中で一番仲が良いのは西谷だと思ってるし、明るく気取らない性格も一緒にいて心地が良い。ただ、お調子者で少し短気なところがあるから、その点はマネージャーとして注視しておかなきゃいけないところだなあ、とその背を見ながら思う。

 高校一年生の男の子にしてはやっぱり少し華奢だけど、すごく頼りになることを知っている。夏のインターハイで唯一、一年生でレギュラー入りを果たしたという実力の持ち主だ。ただ単に上手いというだけじゃない。モチベーションの保ち方も、筋トレなどの練習にも一切手を抜かないストイックさも、目を見張るものがある。頑張っている人は、すごくキラキラしている。ひどく抽象的な表現ではあるが、そういうひとを見ていると、なまえはたまらず胸が疼くのだ。

「……練習、はやくやりたいね」
「あ? ……あー…まあ、そうだよなー」

 早く、彼がバレーをしている姿を見たい。皆がバレーをしている姿を見たい。
 だから。やっぱりもう一度だけ、あの人にお願いしてみよう。なまえが固く決意した。その時だ。

 ──ガラガラガラッ。と錆びついた音を立てながら、体育館の鉄扉が開く。西谷が手をかける直前で、中から誰かがその扉を開けたのだ。

「………あ? 何、お前ら一年?」

 背が高くて、ガタイの良い。見るからに上級生だとわかる男が、なまえと西谷を見下ろした。なまえは一瞬惚けたが、見覚えのあるロゴが入ったTシャツに「あっ」と声を上げる。この人は、確か彼氏と仲が良いバスケ部の先輩だ。写真で何度か見たことがある。
 向こう側もほぼ同じタイミングで思い当たることがあったようで、ぬ、と背を屈めてなまえの顔を無遠慮にジロジロと眺めた。

「……ああ! お前、なまえだろ。主将の彼女の」

 ──わあ、やだな。となまえはなんとなく思った。初対面なのに呼び捨てだし。にやにやと弛む相手の表情に、あまり良いものを感じない。どうやらそれは西谷も同じだったようで、怪訝に眉を寄せている。

「……すみません、その。わたし」
「へー!この子が? けっこー可愛いじゃん。つーか1年捕まえるとかアイツやばいな。どうやったん!」
「てか、何しにきたの? なんか用事? それともイチャつきにきた?」

 まあ、とにかくチャラいの一言に尽きる。外見的にも想像はつくが、バレー部にはまずいないタイプの人種だ。一人ならまだしも、二人、三人とどんどん人が集まってくる。こういう人種は仲間で集まると特にタチが悪い。なまえはまだ発言さえしていないのに、いきなりからかわれっぱなしだ。
 体育館の中の倉庫を見たいだけなのに、まさかこんな事態になるなんて。自分はともかく、西谷に申し訳ない。とりあえずこの場を収めるのは無理そうなので、せめて彼だけでもとなまえは西谷の腕を後ろへ引いた。

「……西谷くん、ごめん、先に行っ」
「つーかさっき、体育館貸してーってアイツに泣きついたらしいな? すげー健気でカワイー」
「え、まじ? でも今日って確かミーティングだけだろ?」
「意地悪したいんだって。泣き顔が可愛いくて唆るから」
「っは! 嘘だろ。アイツまじでグズすぎね? なまえちゃんかわいそ」

 げらげらと笑いながら好き放題に喋るバスケ部員たちに、なまえはまた鼻先がツンと痛くなった。……ああ、やっぱり。何となく、そんなことだろうとは思っていたけれど。なまえ自身は彼に本気の思いを伝えたつもりだったのに、そこまで軽く受け取られているとは思わなかった。それはとても悲しかったし、何より不甲斐ない。やっぱり「ただのマネージャーの癖に」と言われたのは、彼の本心だったのだろうか。
 いまさら何を言われても別にいいけど、皆の前で泣くのはやだな。西谷くんに見られたくないな。なまえは、ただそれだけの感情しか沸かなかった。怒りより先に、悔しさが勝る。自分がもっとよく出来たマネージャーで、上手い言葉で彼を説得できていたら。そんな風に考えていた。

 だから、西谷がなまえの身体を庇うように前に出ていたなんて、全く気がついていなかった。気付くのが、遅れてしまった。


「……おい。てめーらなんだか知らねえが、うちのマネージャー馬鹿にすんじゃねえよ」


 うるさい雨音も、不愉快な笑い声も。全て薙ぎ払うような、強く凛とした声だった。
 なまえは唖然とした。そんなまさか、まずい。今の発言のどれかが、西谷の逆鱗に触れてしまったらしい。

「………あ? 何お前、バレー部?」
「まじ? こんな小せえやつがバレーできんのかよ」
「どうせお前もマネージャーとかだろ? つーか一年の癖にタメきいてんじゃねえよ」

 その場にいる全員の雰囲気が、がらりと変わった。先ほどよりももっと嫌な空気だ。チャラいし、おまけにガラも悪い。しかも先輩だし、ガタイの良いバスケ部だし、複数に囲まれてるし。西谷が圧倒的に不利な状況なのに、彼は臆さないどころかどんどん怒りを増幅させているように見える。──当たり前だ。今の発言は、流石に無視できない。

 思わず身を乗り出していた。自分のことは何を言われても許せるが、関係のない西谷のことまで悪く言われるのはどうしても納得できない。正義感とかではなく、ただ嫌だった。西谷が自分を庇ってくれたから、余計に。
 あと、このままでは良くないことが起きる気がする。その前に、止めなくては。

「っ、あの!西谷くんは関係ないです!だからっ……」
「オイ。お前ら何やってんだ」

 ぽん。と、後ろからふいに頭に乗せられた手の感触に、口から出かけた言葉が引っ込んだ。聞き馴染みのある声の正体に振り返ろうとも、次の瞬間にはグイと肩を引き寄せられて、動けなくなる。

「何、お前まだ諦めてなかったの」
「あ……」

 彼だ。なまえが今、絶対に会いたくなかった人物がそこにいる。肩に絡む腕はやけに親密感があって、まるで誰かに二人の関係を見せつけているようだ。ちら、と西谷に視線を送ると、まさに今飛びかからんばかりの表情でいるそれと目があって、なまえはハッとする。やばい。西谷くんが、本気で、怒っている。
 
「……まあ、お前がこっち手伝うってんなら、貸してやってもいーけど?」
「……え?」
「体育館。バレー部の練習に使わせてやるよ。なまえがバスケ部で働いてくれんなら」

 そのたった一言で、見ていた景色が一変したような、そんな感覚だった。なまえにとってその申し出は、まさに願ってもない話だ。こっちで働く、というのはバスケ部の雑用をやれ、という意味で間違い無いだろう。正直、みんなの練習を見られなくなるのは残念でならないが、バレー部は自分がいなくても先輩の清水がいる。なまえが絶対必要、なんてことはまずない。それに、何より必要な設備が整っている体育館での練習は、部員たちのモチベーション回復につながるはずだ。絶対必須のもの。むしろ何を迷うことがあるのだろうという気持ちで、なまえは「うん!」と笑顔で頷きかけた、その瞬間。

「っざけんな! 誰がてめーらなんかにやるかよ!」

 ぴん、と張り詰めていた糸が切れたみたいな衝撃と、手のひらに伝わるジンジンとした熱。西谷が思い切りなまえの手を引いて、その身体を取り返したのだ。なまえは「え、」と目を見開いた。しかし、この展開に動揺しているのはなまえ一人らしく、向かい合った二人はバチバチと火花を散らしている。

「……あのな? カッコつけてるとこ悪ぃけどさ。そいつ、元々俺のなんだけど」
「なまえは、誰のでもねえよ」
「さっきから口の聞き方がなってねえな?……てめぇ西谷夕だろ?なまえといんのよく見るわ」
「だからなんだ」
「俺の女に気安くしてんじゃねえって話だよ。テメェみたいなクソチビ相手にされるわけねえだろ」
「はぁ? 嫉妬とかクソみっともねえ。むしろてめぇなんかになまえはもったいねぇよ」
「……んだとこらクソガキ」

 まさかこれって修羅場? なんて、悠長に構えている場合じゃない。希望が見えたと思った瞬間、絶望の淵に立たされている。男の子同士の喧嘩なんて初めて見るし、しかもその原因は自分にあるということで、ますます気が気でない。周りの部員は止めようとする様子もなく、むしろ面白いものでも見ているかのようにニヤニヤと笑っている。

 言い合っている内はまだいい。でも、もし互いに手が出てしまったら?

 考えられる最悪を想像し、なまえの顔はみるみる内に血の気が引いていく。怪我をして、もし練習に影響が出たら。部活中の喧嘩沙汰なんて、あの教頭がただで済ませてくれるはずはない。良くて部活動停止、悪くて停学処分だ。彼と西谷のどちらも、そんなことになってほしくは無い。ならば、なまえが行動を起こそうとするのは当然のことだった。

「……あ、待って、お願い、二人とも、落ち着いて」
「なまえ、どいてろ。このガキ一発殴んねえと気が済まねえ」
「上等だ!」

 ぐん、と二人の距離が縮まる。彼は脅しで言ってるんじゃ無い。なりふりかまわず、西谷を殴る気だ。なまえにはそれがわかっていた。ならば、最悪の事態を避けなければ。二人が怪我をせずに済む方法。二人が処分を受けずに済む方法。この短時間に考えられた方法は、たったひとつしかない。
 彼がぐん、と腕を上げる。固く握り締められた拳を見た瞬間、もう、心は決まっていた。

「だめ!!!」

 ただの一歩も迷うことなく。なまえは二人の間に飛び出した。

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