第7話


 ビクッと身体が揺れた。
 夢の中で受けた衝撃に脳が錯覚を起こして、無意識に身体を動かしてしまう。これをジャーキング現象というらしい。
 まさに今。あの日の記憶が私の身体に衝撃を起こした。そして、同時にぱちくりと目が開いた。ついでに、机の上にあったノートもペンも教科書も何もかもが床に落っこちているのが見えた。

「……っく、はっ、くく」
「…………百合、笑うな」

 斜め前で肩を揺らして笑う彼女の背中を指で弾く。こほん、とわざとらしい咳払いをする先生の視線をひしひしと感じて、私はハッと背を正した。

「先生、ごめんなさい。わたしウッカリ寝てました」
「……素直でよろしい。ならば、次の問題はみょうじさんに解いてもらいますから、ウッカリしてないでちゃんと起きていて下さいね」

 笑顔から溢れる無言の圧力。さすが武田先生だ。ただ、持久走からの現代文は流石に堪える。眠気も疲れもマックス状態で、しかも、悪夢にうなされてしまった。いそいそと立ち上がり、床に落ちたものを拾い上げる。まっさらなノートが寝起きの目に眩しい。
 私がもたもたしている間にも、板書は次々と進んでいく。細々とした丁寧な書き込みが相変わらず武田先生らしい。ただ、この情報量じゃ今からノートを取ったところで間に合わなそうだ。中途半端なところから写すより、潔く諦めて縁下くんあたりに見せてもらう方が良いだろう。坂ノ下の肉まんでなんとか手を打ちたいところだ。

 それはそうと、さっきまで見ていたあの日の夢。こんなに都合よく出てくるなんてまさか、西谷くんの呪いだろうか。
 あのときの衝撃は、まだ何となく覚えている。彼氏は咄嗟に拳を私から避けようとしたけど、完全には間に合わなくて、私のヒョロっこい身体はいとも簡単に吹っ飛んでいった。挙句、体育館の鉄扉にぶち当たった。
 派手な音が鳴った。流石に、あの場にいた全員が動揺した。頭を強く打った衝撃で私はしばらくその場に蹲って、彼が周りにいた部員たちに声を掛けてから先生を呼びに行ったのを薄らと覚えている。西谷くんは泣きそうな声でずっと声をかけてくれていて、なかなか部活に帰って来ない西谷くんを心配した大地さんや潔子さんが体育館まで様子を見に来たりして、結局ものすごい大惨事になった。
 それでも、喧嘩をした当人たちは何の処分も受けなかった。私が頑なに、先生たちの前で自分の過失を主張したからだ。彼は私の意志を汲んでくれたのかその場ではずっと黙っていてくれたけど、西谷くんは最後まで反論していた。西谷くんが人一倍正義感の強い人間であることはわかっていたが、私は譲らなかった。

 後々、西谷くんから事情をきいたらしい大地さんは、主将命令として独自の処分を下した。西谷くんはそれでも自分を責めていたけど、あの時は私の彼氏に対する憤りのほうが強かったと思う。多分、あの場で私に謝罪の一言もなかったのが、相当気に食わなかったのだろう。私としてはまあ、勝手に飛び込んだのは自分だしなあ。という感じで、許す許さないの問題ではないと考えていた。あっけらかんとした態度の私に、西谷くんはやっと口をつぐんだ。でも、やっぱり納得はしていないようだった。二人が学校から何の処分も受けなかったので、私としては、この事件は丸く収まったもの考えている。

 でも、西谷くんは今でもあの日のことを忘れていないらしい。どうしたものかな、と悩む。別に彼氏と和解してくれとは思わないけど、それが原因でまた西谷くんとギクシャクするのは嫌だ。あの日の後も、しばらくしてやっと元の雰囲気に戻れたのだ。彼氏も後で普通に謝ってくれたし、結局大した怪我もなかった。遺恨なんてない。

 だから、あの日のことを理由に私が彼氏と別れるなんてことは、絶対にない。西谷くんに何を言われようとも、どんな手を使ってこようとも、私の気持ちが揺らぐことはない。そう、思っていたのだけれど。

「……では、みょうじさん。解答できましたか?」
「…………あ」

 にっこり。武田先生が綺麗に笑う。
 全て見通した目に、返す言葉もない。



***




「みょうじって真面目そうで実はそんなに真面目じゃないよな」
「……うっ」

 はい、とノートを渡すとともに添えられた辛口コメントに、反論の余地はなかった。しかし、それをいうなら縁下くんこそ、聖人君子に見えて実はおっかない人だったりする。まあ、快くノートを貸してもらえた身でそんなことは言えないが。

「バレーに対してはあんなに真面目なのになあ。スコアシートの書き込みやべえもん。あれ結構頼りにしてる部員多いしさ」
「熱意がね、まあ、違うからね、勉強とは」
「でも、みょうじは大学いきたいとこあるんだろ?」
「え、そんな話したっけ」
「したした。ほら、馬鹿四人の赤点事件のとき、二年だけで集まって勉強しただろ?」

 馬鹿四人。めっちゃはっきり言った。やはり縁下くんは見かけによらずかなり肝の据わった人間だ。あと、私もそこまで頭の良い人種ではないので、実を言うとその時はあまり余裕がなかった。大学の話をしたことも忘れているくらいだ。
 行きたいところ。まあ、あるにはある。が、まだまだ先の事のようなことがしているので、焦りとかはあまり無い。でも、言われてみればもう二年生の二月というところまできていて、暖かくなる頃には私たちも三年生だ。もちろん進路の話も出てくるし、勉強にもいよいよ本腰を入れなければならなくなる。

「ま、なんだかんだで効率よくやりそうだな。みょうじは」
「……だといいけど。春高まで絶対残りたいし」
「ああそれ、アイツらも言ってたわ」
「アイツらって?」
「西谷と田中」

 成る程。いや、もはやあの二人に関してはいなくなるイメージすら湧かないというのが本音だ。
 
「あの二人は……うん、どうなるかなぁ」
「何とかならなくてもやるだろ、アイツらなら」
「確かに。根拠はないけど何とかなりそう」
「……俺にとっちゃ、みょうじもそんな感じするよ」
「え"……つまりあの二人と同類ってこと?」

 にこ、と爽やかな笑みが返ってくる。
 縁下くん、やはり主将になってから凄みが増したな。良い傾向だと思う。実際、あのツワモノ揃いの一年生たちもしっかり纏めてくれているし。烏野の大黒柱である大地さんが居なくなってどうなることやらと心配していたけど、とんだ取り越し苦労だった。

「それにみょうじには、影山もいるしな」

 前触れなくさらりと出てきた。またその名前が。おっとついにきたな、と思った。あからさまに眉を顰めた私に対して、縁下くんがアハハと空笑いする。

「だってさ、本当にお似合いだと思うよ。二人」
「……いちおう聞くけど、どのへんが」
「生粋のバレー馬鹿」

 うん。
 その言い草、やっぱり縁下くんだ。

 まあ否定はしない。ただ、それでお似合いというのは筋違いだと思う。ここ数日でいったい何人からその話をされただろうか。バレー部総出で私と影山くんの恋路を見守る気か。誰か全く興味ありませんって人……月島くんとか、月島くんとか、月島くんくらいしか思い浮かばない。彼は元よりおふざけには参加しないタイプなので、どっちにしろあまり変わりないが。山口くんは結構そういうの興味深々って感じだし、仁花ちゃんも悪気なく影山くんをプッシュしてきそうだし。日向くんはもう、影山飛雄の名を聞けば何にでも全力で飛び込むような子だから。
 ……だめだ。既に影山派閥がものすごいことになっている。

「おふざけなしにさ。春高で影山の試合、もっかい見たいだろ」
「……それは、影山くんに限らずなんだけど」
「でもみょうじ、影山のプレーは極端に記録少ないじゃん」
「…………え?」

 思わず、縁下くんに借りたノートを落としかけた。何でもない風を装って、かなり衝撃的なことを言われた気がする。しっかりと根拠を示された。そんな、まさか、ありえない。無意識にそんな事、やっていたのだとしたら。

「いつも見惚れすぎ。新主将の観察眼、舐めてもらっちゃ困るよ」

 ここにきて、新たな爆弾を落とされた。やはり、縁下主将は侮れない。

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