第4話


 さて、これは事件だ。
 部活後。家に帰りご飯を食べ、さっさとお風呂に入りベッドに転がる。変わらない毎日のルーティンをこなしつつも、頭の中では同じ光景がぐるぐると回っていた。私の心はまだ、あの場所にとらわれている。刻印みたいに焼きついた衝動。手のひらから込み上げる熱が、忘れられない。

 結局流されて、影山くんのトスを打った。
 走って、踏み切って、飛んで。腕を振り下ろした瞬間、ボールが指先に吸い付くみたいな感覚。ドンピシャな位置にボール側面が触れる。一瞬で床に叩きつけられたそれは、今まで聞いたこともないほどの爽快な音がした。
 単純に、感動した。影山くんはやっぱり最高峰のセッターだ。こんなにすごいトスを皆はいつも打っている。コートの外で見ていただけではわからなかった確かな感覚が、身体の中にじんじんと広がっていく。
 あの瞬間、手のひらがすごく熱かった。気分が高揚して、頬が火照った。よくわからないけど、泣いてしまいそうだった。たった一本のスパイクで息を上げてすっかり逆上せてしまった私に、「ナイスキー」と影山くんが満足気に笑った。

 体育館の後片付けを終え、電気を消して鍵を閉めた。他の部員は全員先に帰っていたようで(絶対に謀られた)影山くんと二人で通学路の坂を下りた。いつもは部活の話しかしないけど、今日は珍しく影山くんの方から話題をふってきた。それは、私の中学時代の話だった。
 なんの脈絡もなく突然「何でバレーやめたんですか」と影山くんに聞かれて、私は言葉に詰まった。別に勿体ぶるほど大した理由ではないが、少し言い辛い。私が微妙な反応をしているのに気付いたのか、影山くんもやや気まずそうな顔をしていた。でも、彼に悪気はなく、単純な興味で聞いてきたんだろうなということはわかっていた。だから責める気は微塵もない。それに、せっかく影山くんの方から話題をくれたのだし、この機会を逃せば一生話すこともなさそうだから、むしろ今話すべきだと判断した。

 ぽつり、ほつりと始まった私の情けない話を、影山くんは口を挟むことなく静かに聞いていた。

 地元の中学がたまたま女子バレーの強豪校だった。私は小学校のクラブでやっていたバレーを中学でも続けるつもりだったから、入る部活に迷いはなかった。バレーは楽しいから好き。ボールが飛び交うのを目で追うのも、手のひらでボールに触れているのも、とにかく楽しくて仕方がなかった。
 でも、結局私はそれだけだった。体格も才能もセンスも人より劣っている。加えて精神も未熟だったから、周りが強ければ強いほど「バレーが楽しい」という気持ちがビリビリと剥がされていった。毎日の練習が辛くて、皆についていくことも出来なくて、部活の終わりに毎日泣いてばかりいた。ある日「アンタ向いてないんじゃない」と怖い先輩にトドメを刺された。そのままあっけなく、私のバレー人生は死んでしまった。

 強ければ楽しい。強ければ自由。
 まさにその言葉通りで、その逆も然り。

 バレーが嫌いになったわけじゃない。でも、自分でプレーをするのは怖くなった。このまま続けていたら、辛うじて残っていた「バレーが好き」という核の部分まで、壊れてしまいそうだったから。そうなる前に辞めてよかったんだと思う。だから、あの先輩のことを恨んでいるわけじゃない。それに、私が烏野高校バレー部のマネージャーとして今ここに立てているのは、あの日の判断があってこそだ。


 "じゃあそのまま。みょうじさんは、バレーをずっと好きでいてください"


 話し終えた私に、影山くんはそれだけ言った。
 自ら進んで話すような内容じゃなかったけれど、嘘を吐いて見栄を張ったってしょうがない。だから全部正直に話した。私の過去を知って、彼がどう感じたのかはわからない。でも、その時の影山くんが、私にトスを上げてくれた時と全く同じ表情をしていたことに、少しだけホッとした。

 今日、影山くんのトスを打ったことで、再確認させられた。
 息苦しいまでの興奮。バレーを好きな気持ちが、ぐんぐんと揺さぶられる。心の芯が熱くなって、張り裂けてしまいそうだ。
 影山くんは強い。強くて自由。私に足りなかったものすべてを持っている。だから、彼のバレーをずっと見ていたくなるんだろう。
 
 布団を被ってからもドキドキが一生収まらなくて、眠れる気がしない。
 あの指先から放たれたトスに、感情ぜんぶ、奪われたみたいだ。




***





「お前、なんで連絡無視すんの」

 ふわふわ夢見心地があっというまに現実に引き戻されていく。二限終わりの休み時間。教室にずかずかと足を踏み入れて、私の席の前で立ち止まった人影。ひとつ年上の先輩であり、私の彼氏だ。不機嫌を隠さない瞳が、容赦なくこちらを見下ろしている。
 ぐー、ぱーと開いては閉じてを繰り返して眺めていた手のひらを、さっと膝の上に戻す。

「……っあ、ごめんね。きのう、結構遅くまで居残り練習してて」
「お前マネージャーのくせに何を居残る必要があんの」
「後輩の練習、付き合ってて、その」
「……ふーん。ま、別にいーけど」

 そう、私はすっかり忘れていた。
 昨日、部活が終わった頃に彼氏から電話がきていたことだ。帰り道にかけ直そうと思っていたのに、影山くんと帰りも一緒だったから、そんな隙がなかった。最寄りのバス停まで送ってもらって別れた後もずっと、上げてもらったトスと影山くんのことで私は頭がいっぱいだった。
 今まで一度もそんなこと無かったから、彼氏に怒られて自分が一番びっくりしている。あわててブレザーのポケットからスマホを出し、履歴を確認する。あれ以降は特に連絡もなかったから、多分、急ぎの用事とかではなかったっぽい。
 でも、やっぱり無視は良くない。私が百パーセント悪いし、彼が機嫌を悪くしても仕方がない。スマホから顔を上げ、ごめんなさいと素直に謝れば、彼の手のひらが頭に乗った。髪を掻き乱されているのか撫でられているのか良くわからない強さで、わしわしと頭に触れられる。

「お前、次の休み予定は?」
「う……次のおやすみ、たぶん、学期末までない、と思う」
「あ? 試合もねーのに?」
「だってインハイまであっというまだし、三月にも県の大会があるし」
「ふーん。さすが全国いったバレー部さんはちげーな。マネも休みなしか」

「さすが」という言葉に、称賛の意味は込められていないとわかった。彼は三年だし、部活はとっくに引退している。元バスケ部のエースと呼ばれていた人だ。烏野はバスケ部も強いけど、去年の夏のインターハイでは予選決勝リーグで敗退し、本戦には出場を逃している。私も部活で大事な時期だったし、応援には行けていない。
 でも、負けてしまった悔しさはわかる。私たちだってそうだったから。でも彼は「マネージャーと部員は違うだろ」と言って、私の部活の話を聞いてくれることも一切なかった。

 思えばそこから、彼との関係が本格的にぎくしゃくし始めたような気がする。その時は何も言えなかったけど、マネージャーの役割を軽視するような発言は心を酷くざわつかせた。

「ま、てきとーにがんばれよ」

 彼はそれだけ言い残して、ふらりと去っていった。ああ、あんまり怒られなくてよかった、と内心ホッとする。彼は短気だし言葉が強いから、時々すごく怖い時がある。でも、今のは連絡を返さなかったことを心配して様子を見に来てくれただけだと思う。優しいところもちゃんとあるひとだから。

「……ねえ、なまえ、大丈夫?」

 彼と私の様子を伺っていたのか、親友の百合がすっと寄ってきて、くしゃくしゃに乱された髪を直してくれた。大丈夫もなにも、普通に話していただけだ。どうしてそんな心配するの? と聞いたら、「なまえが虐められているように見えるから」と言われた。きっと私がおどおどしていたから、そんな風に見えたのだ。

「いつも思うけどさぁ。アンタの彼氏かっこいいけど、ちょっと怖くない? 」
「……うーん。いつもはふつうに優しいよ」
「えー? 派手な女の先輩たちと一緒にいるの良く見るしさぁ……なまえそーゆーの平気なの?」
「……んー別に。正直、彼の友達のことってあんまり良く知らないんだよね。みーんな先輩だし。わたしバレー部の先輩としか仲良くないし」
「アンタ、そんなんでいいの?」
「ま、まあ、あのひとはもう進路決まってるし、きっといっぱい遊びたいんだよ。高校最後だもん」

 百合の言いたいことは、なんとなくわかる。バレー部の三年生は私の彼氏を知っていて、実際、同じようなことを言われたことが何度かあった。潔子さんが同じクラスで、大地さんは部活動の代表集会で彼と話したことがあると言っていたけど、私と彼が付き合っていると知ったときは、ふたりとも心底驚いた顔をしていた。その時の反応を察するに、彼氏はまあ、三年生の間でもあんまり評判の良いひとではないらしい。
 タイプが違う、と言われるのは自分でもなんとなくわかる。でも、私の恋愛遍歴を知っている人たちは逆に「あーなるほどね」と頷くのだ。好きになったのは私からだし、告白をしたのも私からだ。一目惚れしやすく、それでいて盲目になりやすい。典型的なダメンズ好き。……とか、それって相手に失礼じゃんと思うことまで言われたりする。認めたくは無いが、みんながそういうならそうなのかもしれない。
 とはいえ、彼のことをとやかく言われてもあまり気にならなかった。恋愛って二人の問題だし。私が好きならそれで良い。好きな人と一緒にいたいという気持ち以外、私には関係ない。


「……てか!アンタ最近一年の子に告られたらしいじゃん!あの噂の影山クンに」


 がらりとテンションを変えた百合が、前の椅子から身を乗り出してきた。驚いて椅子から落っこちるかと思った。

「な、な、なな、なぜそれを?!」
「ノヤくんたちがこの前話してんの聞いちゃってさー!親友権限で教えてもらったの。あたし影山クンのことあんまちゃんと見たことないからさー!一回ちゃんと見に行きたい!」

 ふんふんと鼻息荒く肩を揺さぶられて、頭が揺れる。西谷くん、一体なんてことをしてくれているんだ。バレー部だけならまだしも、学年中にいいふらす気なのだろうか。万が一、彼氏の耳にでも入ったらどうしてくれるおつもりなのか。今日の部活終わりに問い詰めてやる。……いや、それよりも。

「見にいきたいって……だめだよ」
「いーじゃん! 彼氏いる子に熱烈告白かますなんて、少女漫画みたいでウケるね」
「全然ウケない!茶化しちゃだめ!」

 まったく。どうしてみんな人の恋事がそんなに気になるのだろう。その気持ちが全然わからない。だって、二人の中に誰かが入ってくるなんて。突然現れた第三者によって、掻き乱されるなんて。そんなのは絶対、ダメなのに。

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