第3話


 縁下くんの号令とともに今日の練習が終わった。
 ぞろぞろと集まり円になってストレッチを始める部員たちの声をBGMに、舞台の隅に腰をかけ足先をぷらぷらと浮かせながら、膝の上で日誌を広げた。
 潔子さんから引き継いだ大切な活動日誌だ。潔子さんがマネージャーになった日から、一日足りとも欠かさず記録されてる。このノートでもう三冊目だ。少し前のページまで戻ると、意外と丸っこく癖のある字で、丁寧に部員達の日々の努力が綴られている。練習メニューや各部員たちのコンディション。たまにお茶目なコメントが残されていたりして、読んでいるだけで笑みが溢れてくる。これはただの記録でも思い出でもない。明日へと繋ぐための、大切な一頁だ。

 潔子さんの書き方を真似ながら、まずは出来るだけ詳細に練習内容を書き記す。これがマネージャーの一日最後のお仕事だ。三年生が引退し、主将が大地さんから縁下くんに代替わりして一ヶ月ほどが過ぎた。練習メニューは引き続き烏養コーチが組んで下さったものをこなし、あとはそれぞれ必要な部分を自主練という形で補っている。練習内容自体は三年生がいた時とさほど変わらない。でも、一、二年だけの部活の雰囲気にはまだまだ慣れなかった。新主将となった縁下くんにも、まだどこか緊張感のようなものが伺える。
 こういう時こそ、マネージャーの私がしっかり支えてあげてほしいと潔子さんから言われていた。マネージャーにはマネージャーにしか出来ない役割がある。選手と同じコートには立てないけれど、コートの外から選手ひとりひとりの様子を見ることができる。身体のケアやメンタルケアも、大事な仕事の一つだ。

 そんな大層なこと私にこなせるのかと言われれば、正直あまり自信がない。でも、弱音なんか吐いていられない。頼れる潔子さんはもういないのだから。今まで以上に気配り目配りを意識して部活に励んでいる。私と仁花ちゃん、まだ二人で潔子さん一人分くらいの力だろう。新しい環境で部員たちと一緒に、私たちマネージャーも成長していかなければならない。

 日誌をパラパラと捲りながらすっかり物思いに耽っていた。
 春高での敗戦が記憶に新しいなか、部員たちの部活に対する姿勢やモチベーションは高まっていく一方だ。落ち込んでいる暇なんてない。前よりもっと強くなる事だけを考えて、みんな前へと進んでいる。振り向くことも、立ち止まることもなく、今はただひたすらに走り続けている。
 負けて死ぬほど悔しかった。大地さん、旭さん、スガさん、潔子さんたち三年生がいたあのチームで、死ぬほど勝ちたかった。皆でもっと上へ行きたかった。先輩たちと、まだバレーがしたかった。身体の水分全部なくなってしまうんじゃないかってくらい、私はたくさん泣いた。

 ここにいる部員もマネージャーも、次こそは勝ちを獲りたいと願ってやまない。その分、練習にも気合いが入る。むしろ入りすぎてしまって、オーバーワーク気味の部員もいる。とくに日向くん、山口くんあたりは、最近昼休みも返上して練習をしていると聞く。部活中以外のこともあるから、烏養コーチには日頃から部員たちのことを良く見ておいて欲しいと言われているのだ。その二人はどうしているかなと、コートの方にちらりと視線を向けた。

 瞬間。
 ぱち、と視界に黒が瞬いた。

「みょうじさん。この後少しだけ、ボール出しお願いしてもいいっすか」

 コートを見るより先に。
 すぐ目の前に影山くんがいた。

「………え、と」

 影山くんは、舞台の下から私を見ていた。
 全然、まったくもって、声をかけられるまで気が付かなかった。目線がぴたりとかち合っている。全ての意識が影山くんの方に持っていかれて、握っていたボールペンを舞台下に落としてしまう。

「これ」
「え、……あ、ありがとう」
「みょうじさん。トス練、お願いします」

 拾ってくれたボールペンを受け取りながら、念を押すような影山くんの言葉を心の中で復唱する。トス練、トス練……ああ、トス練を頼まれてしまったんだ。部活中、極力意識しないようにしていた存在に、真っ向から。

「とすれん、」
「あ、すんません。もし用事あるなら、谷地さんに頼むっすけど」
「う、あ、……あの」

 私、挙動不審にもほどがある。
 でも、意識するなという方が無理な話だ。本音を言ってしまうと、仁花ちゃんに頼むという選択肢があるなら最初からそうしてもらいたかった。用事があるかないかと問われたら、あるわけがない。部活が終わればいつもまっすぐ家に帰るだけだから。
 自主練のお手伝いは、普段なら絶対に断らない。でも、今の気持ち的には断りたい。断ってしまいたい。だけど、嘘をつくのは絶対に良くない。真面目に努力してる子に対して嘘をついて自分だけ帰るなんて、そんなの絶対にあり得ない。

「帰り、送るんで。お願いします」

 ぺこ、と頭を下げられた。わかってやっているのだろうか。そんな風にお願いされたら、私はもう終わりだ。影山くんの後方から無数の視線が飛んでくる。それが誰のものかなんて確認しなくてもわかる。本当にやめてほしい、こっち見ないでほしい。まるで公開処刑だ。

「もちろん、つきあうよ」

 ひく、と口元が震えた。
 たぶん上手く笑えてない。とりあえずこのあとは、私と影山くんを眺めながら息を殺して笑っている連中に、一喝入れてやろうと思う。


***



 コート上に等間隔で置かれたペットボトル。山なりに出したボールを影山くんの指先が捉えて、正確な位置にトスを送り出す。「空中で止まるトス」の応用編。より正確なボールコントロールを磨くため、影山くんは日々この練習に明け暮れている。まさしくセッターの鏡といえよう。
 こういった特殊な練習は、女子バレー部の練習終わりに体育館を借りるなどして、いつも使っている第二体育館とは別の場所で行っている。私たち以外にひとはおらず、ボールが床を叩く音、床とシューズの擦れる音、影山くんの細かい息遣いだけが、夜の静かな体育館内に響いている。

「すんません、もう一本」

 影山くんの声に、こくりと頷く。慎重に、慎重に、両手からボールを送り出す。仁花ちゃんとも同じ練習をしている姿を見たことがあるけど、彼女はものすごく小心者の割に意外と普通にやってみせるなあ、と感心したのを覚えている。
 なんたってこの、見惚れてしまうほど美しく繊細な技術を持つセッターが、トスを上げるためのボールを投げる重要な役割だ。特別難しいことをやっているわけではないけれど、私はものすごく緊張してしまう。こうやっていちいち手を震わせている私なんかより、仁花ちゃんの方がよっぽどちゃんとした練習相手になるんじゃないかって思う。私が失敗して投げたへなちょこボールさえ全て綺麗に上げてみせる影山くんは、無心にボールだけを追っている。

 緊張はする。けれど、影山くんのこの練習を見るのは大好きだ。空中で息を止めたようにぴたりと止まるその軌道も、吸い込まれるように的の上に落ちていくボールも、芸術的ですごく面白い。
 ボールに触れる指先は、まるで大切なものを扱うかの如く繊細だ。バレーが大好きで、ずっとボールに触れていたい。嬉しい、楽しい、幸せ。そんな感情が詰まっているのが、影山くんのバレーだ。


 いいなあ。羨ましい。
 いつからか彼のバレーを見ていて、そんなことを思うようになっていた。好きなことを極められるその貪欲さ。愛情。辛く厳しい練習に耐えられなくて、中途半端にバレーを辞めてしまった私には、足りなかったもの。

「……みょうじさん、あの」
「わ! ご、ごめん、ぼーっとして」

 はっ、と籠から急いでボールを取る。すっかり見惚れてしまっていたことに気づいて、恥ずかしくなった。できる限り影山くんの方を見ないようにしながら両手に収まるボールに意識を向ける。

 しかし、影山くんはトスの構えをとらず、なぜかこちらに歩み寄って来た。え、え、と狼狽える私に、影山くんが至って真面目なトーンで言う。

「あの。……良かったら、打ちませんか」

 へ?と間抜けな声が出た。
 私が持っているボールに、影山くんの両手が添えられる。

「打つ?」
「俺のトス、打ってみませんか」
「……へ、?!」

 そのあまりにも突飛な発言に、
 空いた口が塞がらなかった。

「みょうじさん、昔バレーやってたって聞きました」
「……ち、中学の途中まで、だよ」
「スパイク、打ってるとこ見てみたいです」
「なぜ?!」

 おかしい。影山くんの自主練のお手伝いをしていただけの私が、なぜスパイクを打つという話になっているのか。影山くんの頭の中で一体どんな考えが繰り広げられたのか。何故その発想に至ったのか。ますます影山くんのことがわからなくなる。

「一回だけで良いんで。お願いします」
「……いやいや、むりだよ。絶対空ぶるし打てないよ」
「……俺ならみょうじさんが打ちやすいトス上げられます。打てないなんて言わせません。絶対気持ち良く打たせて見せます!」
「なんでそんなに燃えてるの?! 」

 これはまずい。私の「打てない」発言が影山くんのプライドを刺激してしまったようだ。お願いの姿勢がもはや脅迫染みてきている。もし仮に私が打てたとしても、パワーのかけらもないしょぼしょぼスパイクだ。かろうじてコートの中には落ちるだろうが、そんなものを見て一体何になるというのか。影山くんの真意がわからず、首を傾げる他ない。
 首を横に振り続ける私にめげることなく、影山くんは冷静に言葉を続ける。

「みょうじさんがバレー好きなの、見ててすげぇわかります。だから、やってる時の顔も見たいって、ただそれだけです」

 ただそれだけ。
 影山くんはそう言ったけど、言われた私が恥ずかしくなる様な言葉だった。じわじわと熱を帯びていく頬をとにかく隠したくて、持っていたボールを顔の前に持っていく。そんなに真っ直ぐな目で、私を見ないで欲しい。
 彼の気持ちを知ってしまったせいだ。言葉ひとつで、いちいち心が揺れてしょうがない。

「だからみょうじさん。俺のトス、打ってください」

 誰もが認める最高峰のセッターが、自分にトスを上げたいと言うのだ。嫌だなんて言ったらきっと、ばちが当たるに違いない。

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