第17話


 校舎をこんなに全力疾走したのは初めてかもしれない。今日が卒業式で良かった。校舎には人がほどんどおらず、教師たちも出歩いていないので、注意を受ける心配もない。
 ただし、状況は最悪を極めている。西谷くんの「けしかけた」発言はまさにその通り、私の想像する限りで一番起きてほしくない事態のトリガーを引いてしまったらしい。全く、なにが大船に乗ったつもりでいろよ、だ。私の不安は見事的中してしまった。西谷くんは心配だから自分もついて行くと言ってきたが、余計に拗れそうだからやめてと強く言って置いてきた。もちろん西谷くんを面倒事に巻き込みたくない気持ちから出た言葉だが、それくらい言わなきゃ西谷くんは譲らなそうだったので、強い拒絶を示すことで無理やり納得させることに成功した。

 どのみち、彼氏とは今夜で決着をつけるつもりだった。それが少し早まっただけと思えば良い。もうその覚悟はできている。
 でも、そこに影山くんが居るとなれば、話は全く変わってくる。やっぱりこの恋は最後まで上手くいかない運命らしい。

 息も絶え絶えで一年生の教室前の廊下にたどり着くと、やはり、見知った人影が二つあった。二人の距離が異様に近い。背を向けられているので正確にはわからないが、どちらかが胸倉を掴んでいるようにも見えなくはない。
 呼吸はまだ浅いままだ。脇目も振らず走ったせいで髪はぐちゃぐちゃ。心臓の鼓動がドクドクドクと早まり、緊張感を一段と高めている。一心不乱にここまできて、何をどうするかも決めていない。それでも、考えるより先に声が出た。

「ねえまって!!」

 甲高く廊下に響き渡る。勢いよく振り返った彼氏と先に目が合った。カッと見開かれた目は明らかに興奮をあらわにしている。彼の手に胸倉を掴まれている影山くんは、私に気づくと頭を下げて軽く会釈した。その様子があまりにも冷静すぎて、逆に私の方が驚いてしまう。二人がどういった経緯で鉢合わせて、何を話したのかはわからない。でも、私が取るべき行動はたった一つだ。

「お願い、影山くんには何もしないでっ!」

 クタクタの足を引き摺りながら、なんとか彼氏の腕を掴んだ。とはいえ、私の力なんかじゃびくともしない。彼氏は私じゃなくずっと影山くんを睨んでいて、今にも殴りかかりそうな雰囲気だ。最悪、私は殴られてもいい。でも、影山くんは絶対に怪我をしちゃだめだ。大会を控えた大事な選手の身体を、こんなことで傷つけるわけにはいかない。

「なまえ!どけよ!コイツまじで一発殴る」
「どかない!気に入らないなら私を殴ればいい!」

 とにかく必死だった。一気に頭に血が昇って、涙が溢れそうになる。

「大事なひとなの!!」

 周りには誰もいない。彼を止められるのは私しかいない。私がいくら叫んでも、彼の手は影山くんを掴んだまま離れてくれない。私は咄嗟に、背の高い二人の間に身体を滑り込ませて、影山くんを背で庇うように立った。彼氏の腕を両手で掴んで、お願いだからと上目で請う。

「……コイツが大事?彼氏の俺にそれを言うのかテメーは」

 ずっと影山くんを睨んでいた彼の視線が私の方におりてくる。瞳孔が開き、怒りを抑えられないといった様子だ。影山くんの胸倉を掴んでいた手がぶらりと垂れて、私の頭の上にのる。
 殴られてもいい、なんて言ったものの。いざ真正面から怒りを向けられると、途端に恐ろしくなり身体が震えた。ひゅ、と息を呑んで後ずさると、背に影山くんの身体が触れた。

 その瞬間。身体ごと腕を後ろに引かれて、白いシャツの背が目の前に現れる。影山くんは私を彼から隠すように前に立ち、再び彼と睨み合った。
 
「みょうじさんが怖がってます」
「……あ?俺はそいつの彼氏だぞ。どうしたって別に」
「自分の大切な人を怖がらせるような人、彼氏とは呼びません」

 影山くんは淡々と告げる。今にも殴りかかってきそうな相手に、どうしてこうも冷静でいられるのか。私の方がよっぽど焦っている。彼氏は本当に、一度切れると歯止めの効かない人だ。誰にだって容赦しない。私が身をもって知っている。
 西谷くんじゃなくても、やっぱり誰かを連れてきた方が良かったか、と一瞬思う。でもこれ以上誰かを巻き込むのは嫌だ。矛盾した思いばかりで頭が混乱する。穏便に、はもう無理かもしれない。どうしたら私は影山くんを護れるだろうか。

「もう一度いいます。みょうじさんと別れてください」

 は、と目を開く。その言葉を聞いて、私がいない間に彼と影山くんに何があったのはだいたい察しがついた。
 西谷くんから、影山くんに私が彼氏と別れるつもりでいることを告げてしまったと聞いていた。だから多分、影山くんが先手を打ったのだ。
 休日練のあの日。彼氏に傷つけられたことを影山くんに知られてしまった。私に何も言わずにこんな行動を取ったのは、きっと──。

「だからてめえに言われる筋合い──」
「……っ、別れて!」

 彼の手に力が込められたのを見て、私は叫んでいた。その瞬間、彼の纏う空気が変わる。思わずそばにある影山くんの袖をぎゅうと握りしめてしまう。
 彼が目つきを鋭くして私を見ている。正直、すごく怖い。こんなに乱暴な形で告げることになるとは思わなかったけど、もう誤魔化しがきかないところまで来てしまっている。

「……わたしと、別れて下さい」

 無様に声が震えた。でも、今度はちゃんと言えた。告白をしたときよりも、別れを告げる時の方がずっと緊張している。おかしな話だ。彼が言葉を発するのを待っている時間は永遠にも感じられた。
 私一人じゃ、やっぱり無理だったかもしれない。影山くんがそばにいてくれて、ようやく立っていられるくらいの重圧だ。

「……なまえさあ、もしかしてコイツが好きなの?」

 無表情でしばらく黙っていた彼が、口端を上げて言葉を発した。その顔に浮かぶのは、まぎれもなく嘲笑だった。

「っ、え」
「お前、後輩の練習付き合うって俺の誘い断ったりしてたもんな?……それコイツと一緒にいたいからだろ」

 唖然として言葉を返せない私に、彼は次々と言葉を続けた。

「影山飛雄だろ?知ってるぜ。全国行って一気に有名人だもんな。俺ん時もそうだったけど、なまえってほんとミーハー」
「ちがう!そ、そんなんじゃ」
「あーもーいいって。なんか一気に冷めたわ」

 彼は心底呆れたようにため息をつく。ミーハーという言葉が胸を突いた。俺の時も、というのは、彼は私がミーハー心で告白をしたと思っているのだろうか。想定外のことをいくつも言われて、頭がパニックになる。
 私、彼のことをそんな風に思ったことない。ちゃんと好きで、好きだから尽くして、一緒に居た。彼には何も伝わっていなかったのだろうか。あまりにも悲しくて、ぎゅ、と心臓が痛くなる。呼吸が早くなって、鼻先がツンと痺れて、自分が泣いていることに気がついた。

「ちがう、わたし」
「いいよ。別れてやるよ。つーかてめーみたいな身体しか魅力ねえ女、こっちから願い下げだわ」

 ああ、傷付くって、多分こういう感じのことを言うんだ。ずっと好きだった人との最後がこんな風になるなんて、ちっとも考えてなかった。本当は、もう少しだけ優しい終わりを期待していた。自分の甘すぎる考えに嫌気がさす。辛くて、恥ずかしくて、消えてしまいたい。彼は私のこと、本当の意味で好きになってくれたわけじゃなかったんだ。

 彼が私と影山くんの横を通り抜けていく。酷い余韻を残して、彼は私の元を去っていく。ああ、恋の終わりってこんなにも呆気ないものだっけ。残された胸の痛みがジクジクと容赦なく広がっていく。廊下に落ちた涙の粒が黒くおおきく滲んで、惨めさに拍車がかかる。
 ああ。影山くんに、こんなダサいとこ見られたくなかった。


「…………今なんつった?」


 低められた声には、たしかな怒りが満ちていた。影山くんが振り向いて、遠ざかっていく彼の背を睨む。影山くんの声に、彼は反応しない。もう興味が失せたと言うように、軽い足取りで去っていく。
 ぎり、と拳を握りしめて、影山くんは今にも飛び出しそうだった。影山くんがこうも激昂するのは珍しい。でも、私は怯まなかった。今の影山くんの怒りは、私に対する優しい想いから生まれたものだ。これ以上、負の感情を背負ってほしくない。ずっと掴んだままでいた影山くんの袖を引き寄せて、目線をこちらに向けさせる。

「影山くん!……いいの、お願い。もういいから」
「でも、アイツ、許せねえこと」
「もうあの人にかかわらなくていい!だから、わたしと一緒に、ここにいて」

 穏便、とは違うかもしれないが、なんにせよ影山くんに怪我がなかったのは幸いだ。それだけでもう十分だ。

「……すみません。きっと俺が煽ったせいであんなこと」
「ううん。違うよ。……たぶん、あれが本音だったんだと思うから」

 自分で言ってて情けない。ああもはっきり言われれば、自然と諦めもつく。余韻はあるけど未練は一つもなかった。これで良かった。ちゃんと終わることができた。

「ごめんね、影山くん」

 影山くんがいなければ、私と彼はずっとこのままだったかもしれない。導いてくれたのは影山くんで、支えてくれたのは周りのみんなだ。
 すっきりした、とまでは言えない。流石にまだ心がざわついている。これまでも何度か別れを経験してきたけど、別れ際にあんなことを言われたのは初めてだ。もしかしたらその前の彼氏も、なんて考えたりする。

「なに言っていいか、あんまわかんねえすけど」

 すっかり気落ちしている私に気付いたのか、影山くんも少し気まずそうにしているのがわかった。私だってもし逆の立場だったら困る。
 影山くんが体をこちらに向けた。ずっと握ってしまっていた袖を離そうとして、逆に手を掴まれた。反射的に顔を上げると、もう何度も見たその表情が、私を真っ直ぐに見下ろしていた。

「俺は、絶対みょうじさんのこと泣かせたりしません」

 わからない、といいつつ。いつも自信満々に言ってくれる。影山くんの気持ちはずっとブレない。こちらが恥ずかしくなるくらい真っ直ぐで、避けようがない。
 
「俺は、アイツよりも絶対みょうじさんが好きです」

 最初に告白された時にも言われたことだ。あの時はまるで信じられなかった。あの影山くんが、私のことを好きなんて。
 でも、今はもう違う。

「……影山くん、ありがとう」

 影山くんの告白を、やっと正面から受け止められる時がきた。何があっても変わらず、ずっと、追いかけてくれる。私を一途に愛してくれるひと。もう十分すぎるほどにわかった。
 それでも私はまだ、影山くんに「ありがとう」以外の言葉を伝えることはできないでいた。

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