第16話


 教室の前にあの人を呼び出した。
 三月某日。今日はいよいよ三年生の卒業式だ。在校生は休みで、教室内に生徒の姿はない。そのせいか、校舎全体が独特の空気に包まれている。普段は見ることのない光景だ。まるで映画やドラマの撮影のような、作られた空間のようにも感じる。

「おい、お前」

 がらんとした廊下に、男の声が響いた。
 意識的に低められたのであろう声色。あたりに漂うビリビリとした殺気。少し色褪せた制服に、卒業生の証が襟元に飾られている。自分の方へつかつかと歩み寄ってくるその足先から、その人の顔に目を向けた。明らかな敵意むき出しの表情にも、怯むつもりはない。言いたいことはたった一つだ。余計な感情や言葉は無用。この勝負に、時間をかける必要もない。


「単刀直入に言います。別れてください」



***




 三年生はいまごろ最後のホームルームを終えた頃だろうか。バレー部の一、二年は昼過ぎに第二体育館に集合し、追い出し試合の準備を行う段取りになっている。

 私はというと、集合時間の少し前から部室に引きこもり、大地さん、潔子さん、旭さん、スガさん宛に送る手紙を一心不乱に書いていた。一昨日の夜から書き始めたのだが、いよいよ間に合わず当日まで持ち越してしまった。四人それぞれに伝えたいことがありすぎて、考えがまとまらないのだ。下書きを終えて読み返したら、内容が意味不明すぎてまた書き直し。あまりの文才の無さに落ち込む。そんなことを何度か繰り返していた。
 今は潔子さん宛の手紙を仕上げているのだが、下書き通りに書いている内にまた伝えたい言葉が増えて、増えて、増えまくる。それはもう便箋五枚に達していた。時間も時間だし、さすがにそろそろ切り上げなければならない。締めの一文はどうしようか。結局これに一番悩む。

 そして、今日はもう一つ重大なミッションがある。せっかく晴れやかな卒業の日に、正直かなり憂鬱な気分だ。願くは、何事もなく。穏便に。それだけを祈っていた。昨日は不安で眠れるはずもなく、メイクではカバー仕切れないほどクマが酷い。写真も沢山撮りたいのに、コンディションは最悪である。


「……あっ、なまえ先輩、おはようございます!」
「あ、仁花ちゃん!おはよ」

 そうこうしているうちに、仁花ちゃんが部室へとやってきた。なんとか最後まで書き終えた手紙を封筒に入れ、机に広げていた筆記用具を片づける。

「……あれ? なまえ先輩、なんか顔色が」
「あー、これ、昨日遅くまで書いてて」

 四枚の封筒をちらつかせると、仁花ちゃんはなるほど、と苦笑した。寝不足の原因は手紙だけではないが、仁花ちゃんに余計な心配をかけるわけにもいくまい。

「わたしも一ヶ月前から書いてて、一昨日ようやく書き終わりました」
「さすが仁花ちゃん」

 頭のいい子はちゃんと逆算できる。仁花ちゃんの計画性を私も見習わなくちゃいけない。

「あ、そういえば二年生の先輩たちさっき見かけて、もう体育館の方へ向かってました!」
「あ、ほんとに? 私もそろそろ行こうかな」
「はい!私も荷物置いたらすぐ行きます。とりあえず先に制服で写真撮っちゃうんですよね!」
「うん。三年生はそのあと一旦クラスに戻るみたいだから、追い出しまではいつもの練習メニューやるって」
「了解しました!」

 びし、と敬礼をする仁花ちゃんの明るい声と元気な笑顔を見て、心に抱えていた寂しさと不安が少し解消された気がした。
 手紙はいったん鞄にしまい、ロッカーに吊るしていたブレザーを腕に抱える。仁花ちゃんにまたあとで、と声を掛けて、ひと足先に部室を出た。


 部室の扉を開けた瞬間、少し冷たい風が肌に触れた。桜はまだ咲いていないが、確かに春の匂いがする。青い空の下を歩いていくと、昼前の強い陽の光が目に差し込んで、思わず目を眇めた。陰鬱な気分でいるのが勿体無いくらい、今日は明るい日だ。
 良き別れの日で、あれば良い。






「あ、みょうじ先輩!おはざーす!」

 体育館に向かう途中、日向くん、月島くん、山口くんに出会った。ちょうど部室から降りて来たらしい。この三人の組み合わせは珍しい。日向くんは大抵、部室に行くにも体育館に行くにも、影山くんと二人で競走しているイメージだ。今日に限っては影山くんの姿が見えない。彼は遅刻をするタイプではないので、もう体育館にいるのだろうか。

「……影山なら、なんか用事があるって教室の方行きましたよ」

 月島くんが、私の心を読んだらしい。
 ええ、と怪訝な顔で見上げれば、同じく怪訝な顔で返された。

「すっごいわかりやすいんで。アイツも、みょうじさんも」
「……はい、なんかすみません」

 何のことを言われているのかすぐにわかった。名前を出すのも嫌だ、という顔をしている。月島くんと影山くんは相変わらず犬猿の仲だから、影山くんと私の最近のアレやコレが煩わしいのだろう。お騒がせしてすみません、という感じだ。お互い口には出さないけれど。月島くんは誰よりも大人だ。嫌味の一つや二つ、いや、三つぐらいなら寛大な心で受け止められる。

「早くアイツの手綱握ってくださいよ。あと躾もちゃんとお願いしますね」
「……影山くんは犬かなんかですか」
「先輩にはよく懐いてるし。あんま変わんないでしょ」

 山口くんがぶは!と吹き出した。日向くんは「影山はどっちかっつーと、犬より狼じゃね?凶暴だし」となにやら的外れなことを言っている。月島くんの言葉は直接的ではないのに、本質がありありと見えた。嫌味に混えて背中を押されている。多分気のせいじゃない。
 返す言葉が見つからず口籠る。月島くんはにやりと口角を上げた。アイツをおちょくる材料が増えた、とでもいいたげな顔だ。

「おーいお前ら!もう先輩たちきてっぞ!」
「……え!ごめん、すぐいく!」

 体育館の中から、田中くんが顔を出して叫んだ。
 予定よりも早く三年生が集まってくれたらしい。私たちは急いで体育館の中へ向かう。部員に囲まれている四人の先輩たちの姿を目にした瞬間、じわ、と涙が滲んだ。情緒不安定が祟り、早くも泣きそうである。私たちに気がついた大地さんが「お!」と手を上げた。もう、四人の輪に無理やり突っ込んで全員まとめてハグしたい気分だ。勿論そんな無茶はしないけど。

「つーかなまえ、お前またひっでー顔してんな!今度は何だ!」
「うるさいな!ただの寝不足!……ていうかすみません、皆さんお待たせして」
「いやいや。俺らが早く来ただけだから。それよりみょうじ、忙しくてもちゃんと寝ろよ。試合も近いんだし」
「ぜんぜん大丈夫です!今日だけです!」

 田中くんに早速ひっでー顔をイジられたが、これでも以前よりはマシである。大地さんはさすがに優しく心配してくれたので、元気に返事をする。私こそ大地さんの犬と称されるべきかもしれない。めちゃくちゃ懐いてる。これから学校で会うこともなくなってしまうなんて信じたくない。この寂しさはしばらく引きずることだろう。

「つーか影山は?アイツが遅いの珍しいな」

 田中くんの言葉にハッとする。さっきまでその話をしていたのに、先輩たちに夢中ですっかり忘れていた。三年生は部活以外でもそれぞれ他に過ごしたい人たちがいるはずだ。皆さんの時間を無駄には出来ない。

「影山くんなんか教室に用事があったみたいで! 私すぐ呼んで来ます」
「……っ、おい待てなまえ!俺もいく!」

 写真を撮るためだけに持ってきていたブレザーを体育館の隅に置く。それから急いで外へ出ようとすると、西谷くんがなぜか慌てた様子で私を引き留めた。

「え、何で?いいよひとりで」
「…………いや、もしかしたら俺、けしかけちまったかもしれねえ」

 けしかける?
 西谷くんは、何やらばつの悪そうな顔をしている。西谷くんが影山くんをけしかける、というのは。……想像したくもないが、思い当たることといえば、一つしかない。顔がどんどん青褪めていくのがわかる。

「ちなみに聞くけど、なにをですか」
「たぶん、お前が想像してること」

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