第13話


 土曜日の保健室は部活動をしている生徒のために鍵は解放されているものの、先生は配置されていない。万が一部員が怪我をした際は、顧問の先生かマネージャーか処置をするのが基本だ。私がマネージャーになってからは、試合中の怪我は何度かあっても、部活中に手当が必要な件というのはほとんどなかったので、保健室に来ること自体が久しぶりだった。

 影山くんは部屋の奥にある長椅子に私を座らせたあと、入口すぐの場所に設置してある薬品戸棚の中を物色し始めた。たぶん、湿布か何かを探してくれているのだろう。私の処置をするために。

「……ねえ、影山くん。ほんと、大丈夫なんだけど……」
「みょうじさんが平気でも、俺が嫌なんで」

 影山くんの背に向かって恐る恐る声をかければ、振り向きもせずにすっぱりと返された。ただでさえ気まずい空気に怯んで、私はそれ以上何も言えなかった。

 ぱたん、と戸棚が閉まる音がする。影山くんが備品をいくつか手に持って戻ってきた。椅子に置かれたのは、湿布とはさみ、それにホワイトテープだ。でも本当に、そこまでする必要はないと思うのだが。要らないといったところで、影山くんは納得しないだろう。

 まあ、もうバレてしまった後なので、どっちでも一緒か。烏養コーチにもあんな風に言って来てしまった以上、今すぐ部活に戻っても逆に心配されそうだ。私は半ば諦めモードに入っていた。ただ、影山くんには出来るだけ早く部活に戻ってもらえるよう、あらゆる言い訳を考える。

「本当にごめんね。……あとは自分でやるし、影山くんは先に部活戻って欲しい」
「いえ。みょうじさんこういうの不器用でヘタクソなんで、俺がやります」
「…………なっ!ひ、ひどい」
「え、自覚ないんすか」

 自覚があるとかないとか言う前に、そんなこと面と向かって言われたのは初めてだ。影山くんって本当、ハッキリしているというか、デリカシーがないというか……良くも悪くも、嘘が付けない子なんだなって思う。言った本人はけろりとしているし、悪口を言ったつもりでは無いのだろう。私はまあまあショックだ。不器用までは良い、ヘタクソって。
 そんな私の思いは露知らず、影山くんはチャック付きの袋から湿布を一枚取り出して、それを適当な大きさにはさみで切った。「袖、捲って下さい」と指示をされ、一瞬躊躇したあと、言われた通りにする。体育館よりも明るい、保健室の真白い電灯に照らされて、赤黒く腫れた部分が再び影山くんの前に曝け出される。ぽつ、ぽつと不自然に浮いた内出血の跡は、明らかに指の形をしていて少し気持ち悪かった。

 それを見ていると、嫌でも昨日の行為が思い起こされる。どこもかしこも痛いだけの、苦痛な時間だった。泣けば泣くほど彼は興奮した面持ちで私を見下ろして、抵抗しては駄目なんだと思い知らされた。
 たとえ恋人同士にあっても、心の伴わないそれは恐怖でしかない。今まで痛い思いをした経験はあっても、行為自体を怖いと感じたのは初めてだった。その目を見れば見るほど、彼に対する想いが剥がれていく。彼は私を人形のように揺さぶるだけで、愛のひとつも囁いてはくれなかった。

 愛を返してもらう必要はないと私はずっと思ってきたのに、ひとから向けられる愛情の尊さに気づかされて、途端に悲しくなった。ひとりきりで育む愛というのは、なんて虚しいことだろうと。

 ぐら、と視界が朧になる。
 目に涙の幕が張り、瞬きすれば溢れそうだった。

「……酷いっすね」

 影山くんはぽつりと呟いて、湿布の裏側をぺりぺりと剥がした。冷やりとした感触と共に、皺一つ寄ることなく、綺麗に湿布が巻き付けられていく。真っ白なそれに隠されて、指の痕が見えなくなった途端、胸を裂くような痛みがほんの少し和らいだ。
 上からホワイトテープを二本巻き付けて、湿布の位置を固定する。こんなちょっとした処置でも、影山くんの器用さは秀でていた。悔しいけど確かに、私がやるよりずっと綺麗な仕上がりだと思う。

「影山くん、ありがとう」
「……別に。俺が勝手にやっただけです」

 影山くんの視線は、ずっとそこに向けられたままだ。湿布に冷やされて感覚が鈍くなっているそこに、影山くんの指先がそっと触れる。

 まだ暖房の効いていない保健室は肌寒く、薄いジャージしか着ていない影山くんの手は、少し赤く悴んでいる。
 男の子にしては長く、骨張っていて、指先の皮膚は硬い。その五指は、毎日バレーボールに触れている。特別な男の子の手。手当をされたばかりの手首はまだ痛むはずなのに、影山くんがそこに触れていると、不思議と痛みが消えていくような気がした。

「俺は」

 二人きりの静かな空間に、影山くんの声が落ちる。何を言うか考えて、考えて、やっと、というように振り絞るような言葉だった。

「俺なら、絶対こんなこと、しません」

 それを聞いた瞬間、緩みかけていた糸が、完全に解けた音がした。
 つん、と鼻先が痛み、俯いてマフラーに顔を埋める。影山くんが優しい子なのは、ずっと前から知っている。でも、私に向けられたこの優しさは、彼の想いそのものだ。やっと素直に受けとめようとしているのに、影山くんに返す言葉が見つからない。

「っ、ごめん。いま、わたし、だめなの」
「だめって、何がですか」
「っ……優しくされたら、すぐ、泣いて」
「何言ってんですか。もともと泣き虫なくせに」

 それは、慰めているつもりなのだろうか。確かに大きな試合があるたびに、勝ち負けに関わらず泣いたり、引退式の時も過呼吸になるかってくらい泣いたし、影山くんに泣くところを見られるのは初めてじゃ無い。
 影山くんは、励ますのが下手なんだなと思った。でも、言葉は的確だしむしろ正しいことを言っている。無闇やたらと優しい言葉をかけられるより、人によってはその方がずっと響くかもしれない。泣き虫だと煽られて、泣き止もうと必死になる。
 痛くなくても、悲しくなくても、感情の動きそのものが涙腺に強く働きかけて、ヒトは泣いてしまうのだ。私だって、別にこんな風に泣きたいわけじゃない。でも、出てくるものは仕方がない。半ばヤケになりながらごしごしと目を擦っていると、影山くんはため息を吐いた。さすがに、呆れてしまったのかもしれない。

「別に泣いたっていいです。でも」

 その後、ひと呼吸あって。
 影山くんは思い切り眉を寄せた。

「みょうじさんが誰かに泣かされんのは、すげえムカつきます。……だから」

 影山くんの目が、ぱちりと瞬いた。そのあと少し俯いて、長い睫毛の影が目下にかかる。いつも見下ろされているから、真正面で向き合うことに、お互い慣れていなかった。
 影山くんはあまり表情を変えないけれど、目鼻の配置が良いのか、話すときの動きが実に綺麗だ。人の顔にも機能美というものがあるのだと、影山くんの顔を見てつくづく思う。
 影山くんが言葉を紡ぐ。その一瞬、一瞬に見惚れてる間に。

 とん、と背を押されるように。
 その腕の中に、引き込まれた。


「もうそんな顔、見せないでください」


 後頭部に回された手によって、影山くんの肩に顔を押しつけられる。もう片方の手は、処置の施された手首を優しく絡めとっている。ふわ、と匂い立つ洗い立てのジャージは、私の着ているものとは全く違う香りがした。
 影山くんに抱きしめられているのだと実感するまでに、一体どれほどの時間を刻んだだろう。驚きで涙は引っ込んで、頭の中は真っ白だ。どく、どくと心臓が早鐘を打つ音だけが響いていて、周りの音が一切消えてしまったかのよう。

「……さっき、俺が言いかけたこと」
「あ……え、?」
「このまま、少し聞いてください」

 動揺する私を置き去りにして、影山くんは淡々と語る。
 そばで脈打つ二つの鼓動が、不規則に重なる。
 
「俺が、みょうじさんを好きになったのは」

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