影山飛雄とわたしと始まり


 みょうじなまえは奔走していた。
 季節は春。温められた土の湿度、薄緑の葉が吹く成長の息吹。それらが空気の流れに入り混じり、乾いた肌に心地良い昼下がりの午後のことだ。

 四月の新学期初日、ホームルーム後の烏野高校の校内では、新入生への部活勧誘が盛んに行われていた。無論なまえもそのうちの一人で、事前に作っていたビラを片手に一年生の教室前を歩き回っている。なまえは、今日この日を心から待ち望んでいた。
 勧誘活動は中々に順調だった。先程声をかけた一年生の二人、明るい金髪の男の子と黒髪の男の子。二人とも周りの学生より抜きん出て背が高く、おまけにバレー経験者と聞いている。部活見学の日程を告げると、二人とも快い返事をくれた。

 なまえはひと仕事終えた後のような安堵の表情を浮かべて、主将の澤村大地とマネージャーの清水潔子の元へそれを伝えるべく歩き出した。その足取りは非常に軽い。まだたった二人だけど、新しい部員が来てくれるかもしれないというだけで、心が踊った。ふわふわと短いスカートを揺らして、渡り廊下をスキップで渡っちゃうくらいには浮かれている。
 なまえが向かっているのは、校舎のちょうど裏側に立つ第二体育館だ。今年の春からやっと、バレー部が主体として使用する許可がおりたのだ。それは今年の春高の結果と県民大会の結果を鑑みて、四月から新しく顧問を務める武田先生が執念深く声を上げてくれた成果に他ならない。去年の事件を思い出したりして、それは、なまえにとって涙が出そうなほど嬉しい出来事だった。
 春休み中に初めて顔を合わせた時の武田先生は「自分はバレーの知識なんてほとんどないし、全然役に立たないと思います」などと謙遜していたけれど、もうすでに十分すぎることをやってくれた。……校長先生に、土下座をしたという噂も聞いた。部員たちのために身を粉にして上に掛け合ってくれた先生には、本当に感謝しても仕切れない。足を向けて寝られないほどの恩義がある。なまえはその印として、自分が過去に愛用していたバレーのルールブックや関連書籍一式を、武田先生にプレゼントした。先生は本当に熱心なひとで、その本たちをいつも肌身離さず持っているという。

 そんな先生とも巡り会えて、今年のバレー部は本当に恵まれていると思う。だからこそ、今年こそは。と、なまえは先に見えた希望の光に奮い立っていた。 
 ──しかし。まだ一つ大きな問題が残っている。県民大会後に揉めたあの二人のことだ。一人はまだ謹慎中で、もう一人は部活に顔を出してこない。その件が頭に過ぎると、浮かれていた気持ちもしょんぼりと沈んでしまう。ご機嫌だったなまえの足も、ふと止まってしまった。

 あの二人は間違いなく、今のバレー部にとってなくてはならない存在だ。二人に声を掛けたいけれど、主将に「今はまだそっとしておこう」と言いつけられているため、なまえは何も出来ずにいる。
 主将がああやってドンと構えているのだから、なまえが変に気を回す必要はないのかもしれない。ただ、二人の内ひとりは部活以外でも仲の良い同級生だ。──ああ西谷くん、早く帰って来ないかな。なまえは彼の部活中の姿を思い出して、はぁ、と大きなため息をつく。せっかく一日中コートが使えるようになったのに、全く何をしているんだか。
 まあそうはいっても、なまえの目の前で過ぎていく日常は変わらない。直にインターハイもやってくるのだ。一年生だって入ってくるし、マネージャーの自分まで落ち込んでいたら、絶対に駄目だ。だからしっかりしなきゃいけない。よし! と心の中で意気込んで、再び前を向いて歩き出す。


 第二体育館まではあと少しだ。渡り廊下の角を曲がり、そこから一直線。部員たちもアップを終えて、コートに揃い始めている頃だろう。ジャージに着替える前に先に顔を出そうと、なまえは真っ直ぐに体育館へと向かった。


「くっそ〜〜〜! 俺、ちょっとあっち見てくる!」
「っおい!あんまチョロチョロすんな!」


 向かう先から突如、二つの声が耳に入ってきた。
「おや、」と首を傾げながらなまえは渡り廊下の角を曲がる。その先、体育館の入口付近に見えた、学校指定のジャージを着た二人組。一人は派手な蜜柑頭をしている小柄な男の子で、もう一人は黒髪の背の高い男の子だ。上履きの色からして、一年生に間違いない。

 ……もしや、もしやもしや、入部希望者?! その瞬間、なまえは目を輝かせた。「あの!」と即座に声を掛けようと足を踏み出した瞬間、蜜柑頭の男の子はどこかへ駆け出してしまう。もう一人はその子の背を見送りながら、チッと悪態をついた。
 何やら、初日から険悪な雰囲気だ。二人は知り合いなのだろうか。蜜柑頭の子に声をかけられなかったのは残念だが、もう一人の男の子はまだそこに居てくれている。なまえは迷わず駆け寄って、高い位置にある肩を後ろからぽんぽんと叩いた。

「……ねぇ、きみ!もしかして入部希ぼ……?!」

 その男の子が振り向いた途端、なまえは出かけていた言葉を失った。

 なまえは、彼の顔を知っていた。
 顔だけじゃない。彼の出身校も、部活も、そのポジションも。どんなプレーをするのかも、なまえの頭に焼き付いている。忘れられるはずがなかった。 



***




「も、もしかして、影山飛雄くん?!」
「……あ、ハイ。そうっすけど」
「あの、北川第一の、セッターの!」
「………………まあ」
「うそ、すごいすごい!影山くんが烏野に?! ……あ、わたしここのバレー部のマネージャーしててね、あのね、影山くんの中学の試合見たんだけど、本当にすごかった!」

 自分の名前を聞くなり、きゃっきゃと声を弾ませて興奮気味に話し始めたなまえに、影山は怪訝な顔をした。別に自慢でも何でもないが、この界隈で自分の名を知っている者はたしかに少なくはない。中学の時──じゃあ、彼女もあの試合を、見たのだろうか。影山の頭の中で、瞬時にあの日の光景が蘇る。
 誰が見たって、酷い内容のアレを。

 コート上の王様。
 中学時代に与えられたその不名誉な呼び名の意味を、彼女も知っている側の人間だとしたら。

「すごいって、それ……嫌味、ですか」

 あからさまに、低い声が出てしまった。
 初対面の、しかも先輩に向けるべき態度ではないだろう。ただ、つい先程ここのバレー部の主将に体育館を追い出された上、元より自分が歓迎される立場にないことを大いに理解していた影山にとって、なまえの言葉を素直に受け取る余裕などない。
 影山は眉を顰めたまま、なまえの反応をじいと観察していた。

「え、嫌味……?どうして?」

「何のこと?」と言わんばかりの、心底不思議そうな表情を浮かべて首を傾げるなまえに、影山はほんの少し、苛立ちのようなものを感じた。
 でも、彼女は本当に知らないだけかもしれない。だってあの試合を見ていたのなら、「すごい」なんて言葉はまず出てこない筈だ。少し過敏になりすぎていたかと思い直し、影山は不遜な態度を改めた上で、自らその理由を告げようとする。

「……いや。俺、県予選の決勝で、」
「あ、うん! わたしその試合中ずっと、影山くんのこと見てたよ」

 すっぱりと、何の濁りもなく言い放たれた言葉に、影山はいよいよ目を丸くした。

 ──やはり、彼女も見ていたのか。だがあの試合を見た人間は、決まって自分のプレーを非難する。そうなるのは当然だと、影山自身も受け止めていた。
 だって、自分でもそう思うのだ。本来チームの司令塔たるセッターのトスが、誰にも拾われることなくコートに落ちていくなんて、あまりに滑稽だろう。ボールを繋ぐ競技であるはずのバレーで、自分の上げたトスは繋がれなかった。およそ三年間、一緒にプレーしてきたはずのチームメイトからも信頼されていないセッターなど、コートに立つ資格はない。

 しかし、彼女はそれを見た上で、何故あのような反応をしたのか。にこにこと柔らかく屈託のない笑みと、ひたすらに明るく穏やかな声色は、自分を非難するつもりとは到底思えない。
 予想外の反応をされたことに驚き、影山がもごもごと言い淀んでいる内に、なまえはまた元の調子を取り戻していた。

「……あのさ、コートの端っこからびゅん!って早いトスあげるの、あれ本当にすごいね! 体制崩しててもスパイカーの頭上どんぴしゃだった!影山くんっていつもどんな練習してるの?」
「…………いや、あの」
「でも、これから影山くんのセットアップ間近で見られるなんてホントわくわくする!……あ、あとセットポイントで打ったスパイクもすごかったよね。ラインギリギリ狙ったストレートが決まった時、わたし飛び跳ねちゃったもん」
「…………はぁ、でも」
「なんでもできるセッターって中々いないからさ! 影山くんのバレーは見てて楽しいし目が離せなかったのすごい覚えてる」
「…………」
「だからわたしね、影山くんが烏野にきてくれて今すっごく嬉しい!」

 ぱあ!とまるで周りに花でも咲いたかのように明るく笑う彼女の言葉に、毒など一切含まれていないとわかった。マシンガンのように放たれるトークは、苛立つというよりむしろ、照れ臭くなってしまうようなことばかり。影山はなまえのテンションにすっかり怯んでしまい、言葉を失っていた。
 彼女の言葉ひとつひとつが、過去の自分の汚点さえも浄化してくれるような、そんな気持ちにさせられる。

 でも、過去は決して変えられない。
 あの試合での出来事は自身の中で正しくトラウマとして残っており、それは今の自分のプレーにも大きく影響している。
 彼女が誉めてくれた、あの早いトスは、もう。

「でも、俺は…………独裁者、って」
「……それ、コート上の王様、って呼び名のこと?」

 その言葉に、びく、と肩が揺れた。
 何より忌み嫌う言葉がなまえの口から発せられたことに、影山はまた、自分の腹の中に黒いモノが渦巻いていくのを感じている。
 なまえはうーん、と悩む素振りを見せてから、気まずそうに唇を引き結ぶ影山の顔を見仰いで、目尻を柔らかく弛ませた。

「……そりゃあ、チームに百パーセント尽くせるセッターはすごいと思う。でも、わたしがすごいと思ったのは、影山くんがあの試合中一瞬たりとも手を抜かなかったのと、勝つことに必死にしがみついて、誰よりも最後までボールを追いかけてた所を見たからだよ」

 なまえの目は、影山を捕らえて離さなかった。あの日の試合中も、そして今も。伝えられなかった思いを告げようとするそれは、熱情さえ感じられるほど。

「……それに!あの洗練されて磨き上げられたトス! もしわたしが最強のスパイカーになれたら、絶対打ってみたいなって思ったもん!まあ、これは夢みたいな話なんだけどね」

 考えて、考えて、それでも滲み出る興奮を抑えながら、話しているのが良くわかる。
 今まさに、その試合を見ているかのような熱に浮かされたなまえの表情に、影山は、釘付けになっていた。

「あと、あんまり上手に言えないんだけど、……影山くんのトスはどんなスパイカーでも打たせるトスって言うより、ブロックを欺いてスパイカーの道を開かせるための攻めの一本!って、感じ? ……それがなんかめっちゃ痺れたの。かっこよくて!」

 その目を見て、確信する。
 彼女は自分を励ますために上辺で言葉を紡いでいるのではなく、ただ、己が思うがままに言葉を発しているだけだ。ねっとりとした同情も、ぎらつく好奇心も示さない。

「だからさ、誰がなんと言おうと、影山くんが必死に考えて努力してやろうとしてきたことは絶対に無駄にはならないし……えっと、その、むしろ誇っていいことだと思うのね、わたしは」

 ひとを褒めるときはペラペラと語彙が弾むのに、ひとたび自分の意見を言うとなると、小さく尻すぼみになっていく。
 初対面なのに随分はきはきと喋るから、よっぽど自分に自信があるタイプの人間なのだろうかと最初は思っていた。しかしどうやら見当違いのようだ。

 このひとは、あの試合の自分をそんな風に見ていたのか。なまえからあの日の想いを告げられるたび、影山は、なんだか妙な気持ちになっていた。
 烏野に来たからには、もう過去の過ちを繰り返すものかとばかり考えていた。あんな惨めな思いは、もう二度とごめんだから。変わらなければならないと己を戒めて、それでも、自分のやりたいバレーに嘘は付けず、葛藤する日々が続いていた。
 いきなり「チームメイトの自覚」と言われたって、そんなものすぐにはわからない。何故なら自分は、三年いたチームの誰にも、そんな信頼を寄せられたことがなかったのだから。
 最後の最後で、細く爛れた糸を、断ち切られたのだ。
 
「……だからね、そんな暗い顔しなくても大丈夫! 影山くんのすごいトス、ここにいる皆はちゃんと繋ぐから」

 繋ぐから。
 そのひとことに、影山の中で、言い表せない感情が疼く。
 
「うちのチームはみんな強いよ!……その、勝ちたいって気持ちが!いちばん強いの!」

 ふふん、とドヤ顔で腰に手をあてる彼女は、自分よりいくつも小さい身体をしている癖に、なんだかとても頼もしく見えた。
 根拠などない。けれど、彼女の言葉には、そうだと確信できるほどの熱量と力が漲っている。彼女が何よりチームの力を信じて、強くあることを願っている。勝ちたいと思っている。その心はマネージャーというよりも、選手と同等くらいの意志の強さを感じた。
 ──このひとなら、きっと自分と同じ熱量で、ひた走ってくれる。影山は漠然と、そんなことを思っていた。
 
「…………あ、ごめんね。なんか興奮して、えらそうにいっぱい喋っちゃったかも……」
「……いや。そんなこと、ないっす」
「そ、それより影山くん、本当にうちに入ってくれるんだよね?!入部すること前提で話しちゃってたけど……!」

 ふと、いきなり我に返り、なまえは焦ったような表情をした。慌てて影山の手首をわし、と両手で掴む。
「逃がさない」とばかりに拘束された手首から、彼女の熱が伝わってくる。そんなに必死にならなくても、元より自分にバレー以外の道は考えられない。……それはあの入部届が、ちゃんと受け入れられたらの話だが。

 でも、その方法はもうわかっている。自分が過去から前に進むための第一歩。その背を押してくれるひとが、運命に等しいタイミングで、己の前に現れた。


「……もちろん。絶対に入部してみせます」


 影山は、ここに来てからずっと下がりっぱなしだった自分の口角が、きゅと持ち上がるのがわかった。

「うれしい! これからもっと一緒に強くなろうね!」

 素直な言葉と、感情そのものが溶けて滲み出ているような彼女の表情は、見ていてとても心地が良い。
 影山は、いまだかつて、他人そんな感情を抱いたことはなかった。

「あの、先輩、……名前は」
「……あ、ごめん!わたし、みょうじなまえっていいます。二年だよ!」
「みょうじさん、」
「あ、わたしにできることならなんでも言ってね! 三年にもうひとりマネージャーはいるけど、潔子さんは素敵すぎて一年生は遠慮しちゃうかもだし」
「はぁ、…………でも俺は」
「じゃ、わたしちょっと顔出してから着替えてくる!……あ、今日は見学の日じゃないけど、影山くんなら大歓迎だし、いつでも中に入ってきてね。あの、さっき一緒にいた男の子も!」

 影山がその名前を頭の中で繰り返していると、なまえはここに来た目的をハッと思い出し、慌てて靴を履き替えた。そして、固く閉ざされた鉄扉に手をかける。

 ガラガラガラッ、と鈍く重い音が鳴る。
 弾かれたように、影山はバッ、となまえの方を向いた。

「みょうじさん!」
「っ、はい!」

 低い階段を登り、なまえが体育館に足を踏み入れようとした瞬間。引き止めるみたく大きな声で、影山はその名を呼んだ。
 反射的に返事をして、くるり、となまえが振り返る。

「みょうじさんは、その……バレー、好きですか」

 さて、自分は何を聞いているんだろう。
 それでも彼女は、きっと当たり前みたいに笑顔で返す。影山は何故かそう、確信していた。

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