第12話


「うわ、ひっでー顔!お前どうした?」

 田中くんは少し引いたような面持ちで私を見て言った。ひっでーのはその言い方だと思うが、そういう反応をされても仕方がないのは、朝起きて鏡を見た瞬間からわかっていた。

「別に、ちょっと喧嘩しただけ」
「誰とだよ! ……ま、まさか大地さん、ではねーよな」
「あたりまえでしょ!」

 体育倉庫から出してきたボール籠をごろごろと押しながら、田中くん向かってギャンと吠える。まあ、大地さんにも別の意味では泣かされたけど。なんせ昨日は一日に三度泣いた。情けない。しかも全部別案件だ。
 顔も身体もメンタルもすべてのコンディションが最低値だ。今日は大会前の貴重な休日練だというのに、最悪のスタートである。

「んじゃ、アレか。彼氏か」
「……いいからほら! 今日寒いし先に身体あっためてきなよ」

 しっし、と追い払うように手を振ると、「しんどかったらムリすんなよ」と言い残して、田中くんはあっさり離れていった。

 田中くん、普段は西谷くんたちとセットで単細胞馬鹿などと煽られているけど、彼は意外に鋭いし繊細なところがあったりする。前に話した時も茶化しにきたのかと思えば、結局、恋愛相談に乗ってもらうような形になっていたし。
 多分、さっきの私の態度で、あまり触れてほしくない内容だと悟ってくれたのだろう。今はその気遣いがとても有り難かった。



 土曜日の部活の朝は早い。とくに私と田中くんは最寄りのバスの時刻の関係で、皆より若干早い時間から体育館に来ることがほとんどだ。今日は私が体育館と部室の鍵を開けて、一足先に練習の準備を行っていた。
 この季節、早朝の体育館はとにかく冷える。ジャージに着替えてからも身体が冷気に慣れるまではマフラーが外せなかった。首元でぐるぐる巻きにしたそれに顔を埋めるとこのひっでー顔を隠せるから、どのみち今日は都合が良い。田中くんにはソッコーでバレたけど。

 昨日は体育館の点検作業があったので、通常張りっぱなしのネットや支柱も今日は片付けられている。ネット張りについては私じゃあまり上手く出来ないし、田中くんに任せるにしてもあともう一人は手が欲しいので、ほかの部員が来てくれるまで待つことになる。代わりにボール籠を出したり、換気のために窓を開けたり、ドリンクボトルやビブスを用意する。そうやって一人で出来ることをしている内に、ちらほらと他の部員が来る時間になっていた。

 外がやけに騒がしいなと思ったら、だいたいいつも日向くんと影山くんがスピードを競いながらやってくる。やはり今日もやいやい言い合いながらのご登場だ。朝っぱらから本当に元気で感心する。部室の方に全速力で駆けていく二人の姿を、体育館の中からぼんやりと見つめていた。
 私の頭はまだ覚醒しきっていない。今日は特に寝不足で、腫れた瞼も余計に重い。そして寒い。もともと低血圧の私にはかなり厳しい環境だ。ただ、頭が冴えない状態でも毎日のルーティンは変わらないので、準備に手間取ることはないし、勝手に身体は動いてくれる。まあ時々、話しかけられても反応出来なかったりすることがあるけど、みんな私が朝に弱いのは理解してくれているのでだいたいスルーされる。優しいんだ本当。

 さて、日向影山コンビが着替えて入ってきたら、まずはネット張りをお願いしたい。ちょうど手が空いたので倉庫からいつも使っているネットをのそのそ引っ張り出していると、────ダッダッダッ!と後ろから軽快な足音が聞こえてきた。……さっき見かけてからまだ五分くらいしか経ってない。

「みょうじさんおはざーす!!」
「……わあ、日向くんおはよう。着替えんのめっちゃ早いね」
「……みょうじさんちわス。俺、それ代わるんで」
「あ、うん!影山くんもおはよ。とりあえず向こうまで持って行くから、支柱立ててくれる?」

 朝イチからその俊敏さ、見習いたいところである。元気ハツラツな日向くんと、少し間をあけてから声をかけてきた影山くん。なんだかんだいつも同じタイミングでくるし、行動パターンも似通っている二人だ。マネージャーの私に対してもわざわざ挨拶をしに走ってきてくれるのは、本当に偉いと思う。
 ひっでー顔をしている私は極力二人の方を見ずに挨拶をして、両手でネットを抱え込んだ。無用な心配はかけたくない。

 日向くんは一人で支柱を抱えてさっさとコートに走っていってくれたので良かったが、影山くんはまだ何か言いたげに私のそばに立っている。

 体育館でのことがあってから、影山くんとはあまり話していない。だから、いざこうして二人きりになると、ちょっとだけ気まずい空気になってしまう。
 彼氏ともあんなことがあったばかりだ。じぃ、と観察されているような気配に耐えかねて、私は影山くんの方を見ずに倉庫を出ようとした。

「みょうじさん、それ、俺が」

 早朝ということもあり、普段よりも頭の回転が悪い私は、影山くんがネットを持とうと声をかけてくれた事にも気づくことが出来なかった。そのままコートに向かおうとした私を引き止めようとする影山くんの手が、ジャージ越しに私の手首を掴む。


「っ、い……!」


 その瞬間、手首にびり、と痺れがはしった。抱えていたネットを床に落としてしまう。つい大袈裟な反応をしてしまったせいで、影山くんが驚いた表情で私を見ていた。

「あ、ごめっ……!」
「…………みょうじさんすんません、ちょっといいすか」

 床に落ちたネットには目もくれず、影山くんは私に躙り寄った。動揺する私を、影山くんは無言で見つめている。その有無を言わせない雰囲気に押されるがまま、何故か倉庫の奥の方まで追いやられていった。「影山そこでなにやってんだー?ネット持ってくぞー!」という日向くんの声が背後で響いても、影山くんは完全無視だ。

 今の痛みで一気に目が覚めた。狼狽えている場合じゃない。これから起きるであろうことを想定して、頭を必死に働かせる。

 影山くんは私を見下ろして、口をへの字に曲げている。不満、というよりは、怒っているみたいに見えた。真正面からそんなにまじまじと見つめられたら、マフラーで顔を隠しても意味がない。というより、今隠すべきはそこじゃない。
 もはや無駄かも知れないが、ジャージの袖をバレないように極力伸ばして、痛む手首を守るようにもう片方の手で握りしめた。じん、と込み上げる熱とともに脈打つ鼓動。腫れた瞼や泣いた跡は言い訳できても、これは駄目だ。これだけは、なにも言えない。
 ほんの少しの沈黙のあと、影山くんは静かに口を開いた。
 
「……さっき田中さんに、あんま口出さねえ方が良いって言われたんスけど」

 ……ああ、そうか。挨拶をしてきたときに変な間があったのは、そのせいか。つまり、田中くんが気を遣ってくれた上に、影山くんも一度は気づかないフリをしてくれたということだ。でも、さっきの私の反応を見てしまったが故に、影山くんはそれを無視出来なくなった。


「その、痛かったら、すいません」


 そう言いながら、影山くんは私の腕を優しく引き寄せて、ぐいとジャージの袖を捲った。逃げられる算段はなかったけど、まさか影山くんがこんな強引な手段を選ぶとは思わなくて、反射的に身を引いた。でも、見られてしまったからにはもう遅い。

 捲られたそこには、内出血の痕がくっきりと残っていた。昨日、彼氏との行為中にずっと手で拘束されていたそれが、翌朝まで残ってしまったこだ。痕自体はそこまで目立つものではないし、直接触れなければ痛みもない。湿布を貼ったり包帯を巻いたりするのは大袈裟だし、それだと余計に目立ってしまう。ジャージを着ていたら隠れる部分だし、一日も経てば治るだろうと思ってそのまま放置していた。

 だから本当に、大したことはない。でも、さっきは油断して、つい大袈裟な反応をしてしまったのだ。
 影山くんの表情が徐々に険しいものになり、平たく硬い指の腹が痕をなぞる。固く冷たい指先の感触に、びくと肩が揺れた。

「みょうじさん、なんすかこれ」

 また、影山くんの追求が始まってしまう。何ですか、と言われても、本当のことは絶対に言いたくない。上手い誤魔化しかたもすぐには思いつかなくて、目を逸らして口籠るしかなかった。……そうだ。もうすぐ鳥養コーチがきて、部活が始まる。それまでの辛抱だ。

「これは、その」
「昨日、彼氏と喧嘩したってききました」

 …………田中くんの馬鹿。本当に気を遣ってくれるのなら、それは言って欲しくなかった。でも、さっきも言ったように田中くんは意外に鋭いところがあるから、もしかしたらこうなることを予想して、影山くんにはわざと言ったのかもしれない。
 田中くんも影山くんの背を押す一人だ。そんなの最初からわかりきっていたことなのに、とってもイヤな感情が、腹の中でぐるぐると渦を巻いている。

「別に、いつものことだよ」
「じゃあ、いつもこんなこと、許してるってことですか」

 影山くんの淡々とした口調は、いつもとあまり変わらない。ただ、私は何故か、とても責められているように感じた。
 そして毎度のごとく、影山くんを上手く躱せない自分もそろそろ本気で嫌になってくる。彼氏のことや進路のことや部活のこと、それに西谷くんと、影山くん。あまりに悩むことが多すぎて、積み重なって膨れ上がったものがいよいよ爆発しそうだ。

 そしてそれは、制御できない苛立ちとなり、言ってはならない言葉とともに、呆気なく飛び出してしまう。


「……っ、そんなの、影山くんに関係ないじゃん!」


 幸い、あまり大きな声は出なかった。
 倉庫の外には聞こえていないだろう。私の言葉に、影山くんは、ほんの一瞬だけ怯んだように見えた。
 切長の目がはっ、と大きく見開かれたのを見た瞬間、胸を引き裂くような痛みがはしる。言いようのない感情とともに、涙がボロボロと流れ落ちてきた。


 本当、最低だ。
 影山くんの気持ちを知っていながら、また振り回すようなことをして。影山くんはただ、心配してくれているだけだとわかっているのに、その優しさを無碍にするようなことを、言ってしまった。
 昨日、彼氏にあんなに酷いことをされたのに、まだ何も断ち切れていない。自分は何がしたいんだろうって、何度も考えて、それでも全然わからなくて。結局何も変えられないままでいる。

 こんなに泣いたら、迷惑がかかる。マネージャーと部員がギクシャクしてたら、周りの空気を乱す。今の私は、そうやって悪いことばかり引き起こすトラブルメーカーだ。大地さんが言ってくれた言葉も後を引いて、余計に辛くなる。全然、良いマネージャーなんかじゃない。

「っごめん、影山くん、ごめんね」

 影山くんには謝ってばかりだ。ごしごしとジャージの袖で乱暴に目元を拭う。メソメソ泣くのも大概にしろと誰かに怒鳴りつけて欲しいくらいだ。影山くんだって早く部活したいはずなのに、こんな風に足を止めさせて。昨日のことだって、私が本気で抵抗すれば彼氏もきっとやめてくれたのに、それが出来なかった。だからこんなことになる。
 私が愚かで意気地なしだから、周りの人に心配かけて、たくさん気を遣わせている。

「ごめん、本当に、だいじょうぶだから、はやくみんなのとこ、行ってきて」

 ひどい顔だとか、そんなことはもう構っていられなかった。顔を上げて真っ直ぐ影山くんの方を見て、口元だけは笑みの形をつくる。

 影山くんは眉間に皺を寄せた。壁に押し付ける勢いでいきなり肩を掴まれて、二人の距離が急速に縮まる。私の身体は完全に影山くんの影に隠れる形で、覆い尽くされていた。


「関係、あります」


 振り絞るような声に、息が詰まりそうだった。影山くんの目は、私を捕まえて、離さない。

「みょうじさんは、俺の好きな人なんで」

 もう、何度も同じ言葉を聞いた。それを聞くたびに、心がひどく揺さぶられる。腹の中で疼いていたイヤなものが、優しい熱に溶けて、流されていく。

「みょうじさんが傷ついてんの黙って見過ごせるほど、俺の気持ちは弱くないです。みょうじさんに嫌だって言われても、俺から離れる気は一切ありません」

 どうしてこんなに真っ直ぐなんだろう。どうしてこんなことが言えるのだろう。影山くんの言葉は全て、嘘偽りのないものだと確信できる。向けてくる感情は、あまりにも強くて揺るがない。

「それに俺、わからせるっていいましたよね」

 十分すぎて、もったいないくらいだ。私が知らなかったものを、影山くんは与えてくれようとしている。
 彼氏に痕をつけられた手首より、影山くんに揺さぶられる心の方が、ずっと痛い気がした。刺すような痛みではなく、苦しくて、切なくて、悶えるほどの熱を孕んだ痛み。


「……じゃあ、はやく、教えて」 


 この痛みから解放されるには、どうすれば良いのだろう。

「…………わたし、っ、もうどうしたらいいか、わかんないよ」

 それを彼に問うのは間違っている。でも、自然と言葉が溢れていた。影山くんはきっと、私より私のことを理解しようとして、大切に想ってくれている。だからこそ、これ以上迷惑をかけたくない気持ちと、彼の優しい心に縋ってしまいたい気持ちとが矛盾して、どうしようもなくなってしまう。

 ひく、ひくと肩を震わせて、子どもみたいに泣きじゃくった。気持ちが抑えられなかった。袖で何度も目を拭うけど、掬いきれない涙がぽたぽたと床に落ちていく。

「なんで、こんなわたしを」

 言わなくていいことまで、感情とともに流れてくる。まるで懇願でもするように、囁いていた。
 影山くんの顔を見上げた直後、掴まれた肩に力が込められる。じ、と見下ろす視線。少し寂しそうに眇められたそれに、身体が芯からすくむ。

「……俺が、みょうじさんを好きになったのは」

 頭の中で、する、と結び目の解けるような音がした。私が影山くんの想いのありかを知った時。この心は、どう、揺れ動くのだろう。

 影山くんはぐ、と唇を結んだ。一度視線を逸らして、少ししてから、また戻して。「その、」と言い淀み、再びその口が開かれる。






「……おーい影山、お前そこで何やってんだ。そろそろ練習はじめ……って……みょうじ?」
「「あ……」」



 しん。と一瞬にして空気が死んだ。
 倉庫の壁に追い詰められている私と、私の肩を掴んでいる影山くん。そんな二人を見て、倉庫の中を覗きにきた烏養コーチは一体どんな想像をするのやら。
 狼狽える、なんてものじゃない。完全にフリーズする私。唖然としている烏養コーチ。そして、スンとしている影山くん。この状況はもう、カオスだ。

「……って、みょうじは何で泣いて………お前が泣かせたんか影山ァ!」
「いえ、違います。……でも、みょうじさん体調悪いみたいなんで、俺、保健室連れて行きます」
「っ、え……!?」

 肩から離された手が、今度は肘の上あたりを掴んでいた。影山くんは烏養コーチの発言をキッパリと否定して、尚且つ、私とのやり取りもここで終える気は無いらしい。
 咄嗟の判断が上手いと言うか、なんというか。こんな状況でも冷静な影山くん、さすがとしか言いようがない。私の体調は悪いこともなくは無いので、はっきりと嘘にはならない。けれど、別に影山くんが部活に遅れてまでわたしに付き合う必要は全然ない。

「お、おー?そうか、それなら頼む。みょうじも、しんどかったら今日は無理すんなよ」
「い、いや! あの……影山くんは、部活に」
「朝、走ったんでアップは平気っす。すんませんコーチ、俺はすぐ戻るんで」

 それ以上何も言わせないとばかりに、影山くんはぐっと私の腕を引いて、足早に倉庫を出て行った。
 掴まれている腕もそうだけど、ありとあらゆる視線がグサグサグサ!と刺さって痛い。体育館を出て行く途中、田中くんと目が合った。彼は菩薩のようなポーズを取り、生暖かい視線を送ってくる。

 今から起きることもそうだし、ここに戻ってきたときのことも併せて、わたしは心配で仕方がない。……ほんと、田中くんの馬鹿野郎。

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