第11話


 大地さんと涙のお別れをして、家の最寄りに止まるバスに乗り込んだ。私がいつまでも名残惜しそうにしていると「まだ卒業式で会えるだろ?」と大地さんは苦笑していた。いやいや、そういう問題ではない。
 でも、三年生のほとんどは宮城の大学へ進学されるとのことなので、会おうと思えばいつでも会える距離にいるのは救いだった。唯一、東京にある専門学校に通うという旭さんは、将来的にアパレルデザイナーを目指していると西谷くんづてに聞いて驚いた。てっきり三年生は誰かしらバレーの道に進むものかと思っていたので、あんなに努力して熱中していながらも、ちゃんと自分の将来について志を固めていたんだなあと思うと、本当に皆さんのことを尊敬してやまない。
 それに比べて私の考えてることって漠然としすぎているなと打ちのめされた。いよいよ本気で進路のことを考えなきゃいけない時期かもしれない。ぽちぽちとスマホをいじりながら、そんなことをぼんやりと考えていた。

 この時間帯のバスは私みたいな部活帰りの学生か、スーツをきたサラリーマンのお兄さんお姉さんの利用が多い。乗り込んだ直後に運良く空席を発見できたのはラッキーだった。
 今日は両親ともに帰りが遅い日なので、夜ご飯は自分で作るか何かを買うかの選択制だ。料理は別に苦手じゃないし、夜ご飯代として渡されたお金で浮いた分はお小遣いに出来る制度なので、やっぱり自分で作る方が良い。残っても二人に食べてもらえる。家の最寄りの一個手前でバスを降りれば大きなスーパーがあるので、メモアプリに買うもののリストを入力する。今から作るならパパッと出来るものじゃないと面倒くさいしな、と思いながら「10分で作れる!簡単レシピ」のブックマークを開く。時短料理にしては豪華で華やかな写真たちが並ぶページをスクロールしながらぐうぐうとお腹を鳴らしていると、ぴこん、と一件の通知が入った。

 画面上部に現れたバナーをタップして、メッセージ画面にうつる。表示された名前と文字を目で辿ると、今まで考えていたこと全てが吹き飛んでゆき、頭の中が一瞬にして真っ白になった。





***





「一年のやつに告られたんだってな」

 彼氏の家に呼ばれ、真っ先に言われた言葉に血の気が引く。どうしてバレたのか、とか。誰から聞いたのか、とか。気になることは山ほどあるが、とても聞けそうな雰囲気ではない。床に座る私を見下ろすその視線は、冷えきっている。

 幸い、まだその名前は出ていない。ならば絶対に、隠し通さなきゃいけないと思った。

「とりあえずおまえスマホ貸せ」
「……っ、ごめんなさい、黙ってて」
「見せらんねーの?」

 言い訳も聞いてくれず、床に脱いだままになっている私のコートのポケットを漁って、彼がスマホを取り上げた。舌打ちのあとパスコードを入れろと促され、もちろん渋る。彼が嫉妬深いひとなのは知っているが、ここまでされるのは初めてのことで、動揺していた。

「……み、見せなきゃだめなの」
「やましいことなけりゃ、見せれんだろうが」

 彼はまだ「告白された」という事実しか知らないはずなのに、どうしてこうも責められいるのかわからなかった。勿論やましいことはない。影山くんはまだガラケーだし、メールでのやり取りなんか数えるほどしかしたこと無い。影山くんの話をするとしたら百合くらいだけど、学校でほぼ毎日会っているのでそこまでのやりとりはしない。どうしてもというなら見せられる状況にはあるものの、さすがにそこまで要求されるのはおかしいと思った。

「なにもないよ、ほんとに、信じて」
「じゃあ、俺のいうこと聞けるだろ?」

 何を言ってもすべて跳ね除けられる。私が何かを隠したがっているとバレているらしい。彼の表情から苛立ちが滲み出ている。ここで納得させるには、もう彼の言うことを聞くしかない。何よりわたしが心配しているのは、影山くんの存在を彼が知って、またトラブルになる可能性のことだ。西谷くんの時ですらああなってしまった。あの時は間一髪で止められたけど、私が居ない時に二人が鉢合わせたりしようものなら、次はどうなるかわからない。
 影山くんは彼を煽るようなことを言うタイプには見えないけど、彼の方は──どうしよう、もし影山くんが、怪我なんてしたら。

「……わかった。見せるね」

 今の私にできるのは、彼氏に逆らわないことだけだ。彼の手からスマホを受け取り、パスコードのロックを解除する。先程見ていたページはそのままに、とりあえずメッセージアプリのトーク履歴の画面を開ける。ノロノロと操作しているのを上から覗き込んできた彼に、手ごと強引にスマホを奪われた。ぐい、と乱暴に引き寄せられ、手もスマホも拘束されてしまう。
 
このひとと、影山くんを、絶対に会わせちゃいけない。
そればかりが頭に浮かぶ。

「…………それで、どれ?」
「そ、それは、その、……言いたくない」
「は? じゃあ意味ねーじゃん」
「っ、だって!」

 思わず大きな声を出してしまい、すぐに口を閉ざした。いつも言い返したりしないのに、こんなに必死になったら逆に彼の不信感を煽るだけだ。しかし、後悔しても遅い。彼は思い切り眉を顰めたあと、ベッドの上に私のスマホを放り投げた。それにはもう興味がなくなったみたいで、手首を拘束する力を強めてくる。

「なに、お前。俺に反抗すんの」

 状況は悪化している。どうしよう。どうすれば逃げられるのか、わからない。彼は決して凄んでいるわけじゃない。その声のトーンはいっそ不気味なほど穏やかで、私を咎める言葉とは裏腹に、口角は持ち上がっている。その表情は、私の反応を愉しんでいるようにさえ見えた。この場を支配するような威圧感に、感情も意思もすべて呑み込まれていく。

「ちがうよ、そういうわけじゃ」
「なあ、言いたいことあんならいえよ」

 頬にもう一方の手のひらが這う。そのやけに優しい手つきが、逆に恐怖を増長させた。怒っているはずなのに、どうしてそんなに楽しそうな声を出すんだろう。まるで、私を詰って遊ぶのが目的みたいだ。
「泣き顔がいちばん可愛い」と、彼本人に言われたことがある。これを友人に言うとかなりドン引きされたが、実は、過去の恋人にも同じようなことを言われた経験があった。どうにも相手の嗜虐心を煽る性質のようで、そういう人に好かれやすいところがあるらしい。
 好きな人に好きと言われれば、何をされても抵抗できなかったのは確かだ。私はただ、好きなひとを好きでいることに執着し、必死でしがみついていたのだと思う。言いなりになることで、相手の気持ちを尊重しているような気になっていた。そうしていれば間違いは起きなかったし、思えば、喧嘩なども一切したことがない。
 真剣に向き合っているつもりでいたけど、本当の意味では相手を信用出来ていなかったのだ。私は恋人に対してずっと遠慮して、本音を偽っている。潔子さんと話して、そのことに気付かされた。

「……ごめんなさい」

 でも、言えない。いまさらわかったって、すぐに心は変えられない。おまけに私は意気地なしだから、皆みたいに自分の気持ちを真っ直ぐ伝えることなんて、できはしない。受け入れてしまうほうがずっと楽だから。ずっとそうやって、生きてきたのだ。

 彼の顔が近づいて、耳元に唇を寄せられる。私の身体を彼の足が跨いで、完全に逃げ場を失う。恋人同士の戯れなんて甘い雰囲気のものじゃない。主語のない謝罪はお気に召さなかったのか、彼はとことん私を追い詰めようとしている。

「なまえさ。俺と別れて、そいつと付き合うの?」

 ひゅ、と息を呑む。
 彼が、確信めいた表情で笑う。

 どうして、もっと上手く立ち回れないんだろう。いつもそうだ。私が彼ともう少し対等な関係にあって、上手く話せていれば──あの日、西谷くんが心を痛めることはなかったし、皆にも心配されずに済んだのかもしれない。
 告白のことも、彼に真っ先に伝えておくべきだった。嫉妬深いとわかっていたなら尚更、先手を打つべきだった。そうしていたら、こんなに悩むことも、追い詰められることもなかったのかもしれない。
 頭に浮かぶのは、いまさらどうにもならない事ばかりだ。自分が傷つく分にはもはやどうでも良い。判断を誤る馬鹿な自分が悪いのだから、どんな痛みだとしても耐えられる。でも、今の彼の標的は、私だけじゃない。私に告白をした相手が誰なのか、彼はきっと炙り出そうとしてくる。

「ちがう、そんなこと、ない」

 それに、もう気づいてしまった。
 私が否定するのは、彼を、愛しているからじゃない。彼の手を離すことが、どうしようもなく怖いだけだ。縛られた糸の結び目は、自力では解けない。無様にぼろぼろと泣き崩れるわたしを、彼が満足気な表情で見つめている。

 目をみて痛いほどに理解出来た。
 これは、私を想ってくれているひとの目なんかじゃない。自分を一途に想ってくれているひとの目が、どんな形をしているのか。私はもう知っている。

 影山くんはそうやって、ちゃんと私に教えてくれていた。

「じゃあ、お前はまだ、俺のもの?」

 いっとう甘く囁く声は、鉄鎖のように絡みつく。返事をしようと空いた唇の隙間を、生暖かい舌が這う。息の仕方を忘れてしまうほど、深く激しく口付けられた。
 掴まれた手首をそのまま引き上げられて、ベッドの上に身体を押し付けられる。両手を頭上で一纏めにされて、キスの合間にカーディガンのボタンを引きちぎるみたく外されていく。目横を涙が流れ落ちた。疲れ切った身体を振り絞るように足掻いても、無駄だということはよく理解していた。

「あんま抵抗すんなよ。余計に泣かせたくなるだろ」

 心底楽しいのだと、その表情が物語る。
 掴まれた手首は、ジンジンと熱を帯びていた。ひどい痛みだ。

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