呼びとめる言葉なんてないけれど
幸い、万里くんが寮を出てからそんなに経っていなかったみたいで、走っていたらすぐに彼の姿を見つけることが出来た。
「万里くん!」
呼びかけた声が、聞こえなかったわけはない。万里くんがほんの一瞬、足を止めたのがわかったから。それでも敢えてこちらを見ずに歩き続ける万里くんに、ちょっとムッとして、追いかける足を速める。
「万里くんってば!」
手を伸ばして、万里くんの腕を掴む。私が追いかけてるってわかっていたくせに、万里くんはどうしてか、驚いた顔をして振り返った。
「なんだよ」
「劇団をやめるって聞いて……。なんで急に、そんな、」
「そーそー、やめるから。兵頭より俺のが勝ってるの、見りゃわかるだろ」
いつも通りの表情に、いつも通りの余裕そうな声。
そのはずだけど、どこか違って思えるのは、どうしてだろう。
「……ほんとに?」
私の問いかけに、ぴくりと万里くんが反応する。
本当に劇団をやめるのかを聞いているのか、それとも本当に十座くんに勝っているかを聞いているのか、万里くんはどっちと捉えたんだろう。私は……たぶん、どっちの意味も含んでた。
「ほんとに。って言えば満足かよ?」
万里くんの言葉に返事をしないのは、満足なんかしないからだ。
きっとそんなのは万里くんにも伝わっていて、私を一瞥した万里くんは、ふい、と顔を背ける。
「それより、こんなとこで油売ってる場合か?ポートレイトもあるし、それに早いとこ新しいヤツ見つけた方がいいんじゃねーの」
「やだ」
「は?やだってお前な……」
呆れたような顔をして万里くんが再びこちらを見た。
私は子どもみたいにふくれっ面をしたまま、万里くんをまっすぐに見つめる。
もう今更、どうしたら伝わるとか考えたってしょうがない。それなら、思ったことを伝えちゃえばいい。
「だって、万里くんしかいないもの」
「なんでだよ」
「えっ、勘?」
「はぁ!?」
眉を上げて、不可解さを前面に押しだす万里くんだけど、私だってうまく説明なんか出来ない。
でも、ふしぎと、万里くんだって思うんだ。秋組のメンバーとしても、全然務まってなかったけど、秋組のリーダーも。
「今まで、春組、夏組って公演をやってきて、みんなのことを見てきて……なんとなく、そう思うから」
自分でも根拠なんてなくて、こんなんじゃ万里くんを納得させることも引きとめることも出来ないのはわかってる。
「ぜんっぜんわかんねー」
「うん」
「……手、離せよ」
「……うん」
言われるがまま、掴んだままだった万里くんの腕を放す。……力任せに手を外すとか、しないでいてくれたんだ。
手にしている鞄には、彼がまとめた荷物が入っているのだろう。
本当に、出ていく気なんだ。
……でも、
「万里くんは迷惑かもしれないけど、私は待ってるね」
もし、戻って来たいって思ってくれた時に、万里くんの場所をちゃんと残しておきたい。
だって、万里くんじゃないとって思ってるんだから、それくらいはしないと。左京さんなんかは怒りそうだから、せめて、私が出来る分だけでも。
てっきり、いらないと断言されるかと思いきや、万里くんはこちらを見ないまま、小さく「そーかよ」とだけ言った。
「うん。そうだよ」
待ってるよ。
万里くんに戻ってきてほしいから。MANKAI劇場の、あの舞台に立ってほしいって、思うから。
万里くんが再び歩き出すのを私はただ見送る。てのひらには、さっきまで触れていた万里くんの熱がまだ少し残っているように感じた。
人混みに消えていく背中が寂しく見えるのは、私が寂しいから、なのかな。