「ふわぁ」

大きなあくびをした後で、ここは外だったとハッとして、周りをきょろきょろ見渡した。誰にも見られてないよね、大丈夫。
ついこの間まで寒かったのに、「今日は暖かい日だな」と思う日がきたと思ったら、そのまま春がやってきた。遂には桜の木につぼみを見つけて、本当に春なんだ、と驚いてしまう。だって文字通り瞬く間に来てしまったから。
暖かくなるとつい微睡んじゃって、これはどこでも寝たくなっちゃう密くんの気持ちがわかる気がする。だからって本当に外で寝ちゃえるのはすごいけど。そもそも、密くんは冬にも外で寝ていた。あれは生命の危機を感じるからやめてほしいなぁ。
そんな密くんは「今日はあったかいから」と密くんが言っても説得力のない理由で昨日も私のふわふわクッションを枕にしていた。最近潰れてきたので、新しいものの購入を検討している。

冬の、雨の降る寒い日に密くんと出会って数ヶ月。猫みたいにふらっと現れる密くんはいつも眠そうで、なんだかふわふわしている、ふしぎな人。現れるといっても私の家のインターホンを彼が押したことは、実は未だに一度もない。家に帰る途中で寝ているのを見つけたり、密くんがうちに向かっている最中に会ったり、改めて考えると大体ぜんぶ偶然呼べるような会い方しかしてないかも。あ、でも密くんの劇団には約束して行ったっけ。観劇に行ったから、会ったっていうのかなぁ、あれ。
知り合って数ヶ月経った今も、密くんは、とらえどころがない人だと思っている。そのとらえどころのない人が家に来ると嬉しくて、一人の時より落ち着くくらいで、でも同時に胸がドキドキとうるさくなる。その嬉しさとドキドキが最近の悩みの種だったりするわけだけど――名前を、知っているはずのその感情を言葉にさえしなければ大丈夫だろう、なんて自分への苦しい言い訳は、一体いつまで私を誤魔化せるのかな。もしかして、ずっと誤魔化せちゃったりするのかな。それって……それで、いいのかな。

旅行代理店の前でなんとなく足を止めて、並べられたパンフレットを見つめる。
そういえば、最近旅行、行ってないな。これからの時期だと、桜の名所とかいいよね。

***

「旅行、行くの?」
「……え? ううん、行く予定があるわけじゃないけど。暖かくなってきたし、どこか行くのもいいかなって」

なんとなく観ていた旅番組が思いの外面白くて見入っていたら、のそりと起き上がった密くんに声をかけられて、ちょっとびっくりした。

「旅行は友達と行くのも、一人で行くのも、どっちも結構好きかなぁ。密くんは最近どこか行ったりした?」
「劇団の合宿、とか……」
「合宿なんてあるんだ」

密くんの劇団のみんな、仲良しだよね。ぽつりぽつりと語られる密くんの話は、ゆっくりだけどなかなか奇想天外なことが起きて、聞いていて楽しいし、嬉しい気持ちになる。例え、話している最中にしばしば密くんのお昼寝が挟まってしまったとしても。
それは、きっと私が、話をする密くんを見るのも好きだからなんだと思う。「楽しそうだね」って言ったら、「うん。楽しかった」って密くんが少し表情を和らげる、その顔を見るのが好き。

「なまえは、どこに行ったの?」
「うーんとね……」

ここと、あそこと、そういえば前に行ったあの場所も……と挙げていたら、隣で密くんがじいっと私を見つめていることに気がついて、途端に緊張して言葉が途切れる。少し視線を動かせば、案の定、密くんと視線が絡んだ。

「……あの、密くん、見すぎ……」
「なまえはぼんやりしてるところもあるけど、結構自分でなんでも出来るよね」
「え、密くんに言われるの?」

ぼんやりしてるって、密くんに言われちゃうの?それは流石に同意しかねる。
えーっ、と抵抗を見せる私のことはお構いなしで、密くんはやっぱりさっきと変わらずじっと私を見てくるから、仕方がないと、個人的には無視出来ない前半部分は一旦置いておいて、密くんの後半の話題に乗る。

「なんでも出来るわけじゃないけど、とりあえず一人暮らしは出来てるかな」
「うん。えらい」
「えっ、急になに、」

ぽん、と頭に乗った密くんの手が、私を撫でる。突然のことにびっくりして、でも嫌ではなくて、私は何も言えなくてただ黙ってその手を受け入れる。
前にも、撫でられたことはあった。
初めてではないそれは、やっぱり初めてみたいに緊張して……でも、それよりなにより、心地いい、と思ってしまう。こうして撫でられてると、密くんってやっぱり案外、手、おおきいなって感じる。

「……一人暮らしは、出来るけど」
「うん」
「時々、密くんがこうして遊びに来てくれるの、嬉しいって思うよ」
「うん」

やわらかな密くんの声が、いつもより一層優しく響いた気がして、そっと彼の顔を見上げる。

「オレも、なまえに会うの、好き」

また、好きって言われた。
いや、全然、そういう好きじゃないけど。でも、ついドキッとしてしまう。
心臓がはねて、身体中が一気に熱くなって、目に映る密くんのことで頭も心も、全部いっぱいになってしまう。
――ああ、だめだ。
心のなかでストッパーが働こうとして、でも、働いているのかいないのか、いまいち判断がつかない。それに戸惑って、迷う。
でも、優しく頭を撫でる手の温かさに、私を見つめる、いつだって綺麗な、穏やかに凪いだ瞳に、安心して。
私も笑い返したら、なんだかその空間が、すごく自然に思えた。
なんというか、密くんといると、息がしやすい。

……やっぱり、旅行はもうしばらくはいいかな。
今はもっと、家でゆっくり、こんな時間を過ごしていたい。

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