すこし遠くへ 前編


ガタンゴトン――

心地好い揺れを感じながら、少し目を開けてみる。視界に入ってきた薄汚れたクリーム色の床とえんじ色の座席シートを見つめて、まだ重たい瞼を二、三度閉じては開ける。
……そういえば、なんだかあたたかい。
そう認識するのと、身動ぎした私に彼が気付いたのは、ほぼ同時だった。寝ている間も繋がれていた手に、僅かに力が入る。

「起きたか?」
「……んー」
「どっちだよ」

苦笑する莇くんの肩に乗せた頭を動かすと、莇くんと目が合う。キスでもしてしまいそうな近さだなあ、なんて、まだ覚醒しきっていない頭ではぼんやりと考えていたら、莇くんはこの距離に驚いたように目を丸くして、頬を染めながら顔を前に向け直した。
莇くんが照れているのが可愛くて、嬉しくて、私は上げかけていた頭を再び莇くんの肩に乗せて、ぎゅっとくっついてみる。

「!」
「ふふふっ」
「こっ、こんなところで何してっ……!」
「でも、お客さん、他に全然いないよ?」

電車の音にかき消されるかどうかくらいの声で囁けば、莇くんはまだ何か言いかけていた口を閉じて、眉間に皺を寄せた。
ガラガラの車輌は端の方にスマホをいじっているおじさんがいるくらいで、「人前でイチャイチャ」してないと言えば嘘になるけれど、ぴったりとくっついて座るくらいは許されたい。

「私、ずっと寝ちゃってた?」
「十分ちょっとじゃね」

莇くんはそう言うけれど、私が起きてた頃はもっと窓の外に建物があった気がするけどな。
今では、広い空の下にぽつぽつと家やお店があるくらい。

「肩、重くなかった?」
「重かった」
「ひどい!」
「名前が聞いてきたんだろ」

それでも莇くんの肩に頭を乗せている私に、莇くんがやめろと言うことはない。勿論、寝ている間すら繋がれていた手が離されることだってない。
空いている方の手を伸ばして、さらさらの黒髪に触れたら、「どうした?」と普段よりも少し甘くて優しい声をかけられる。それだけでキュンと心臓が高鳴った私は、なんでもないよと言いながら、甘えるようにもう一度莇くんにくっついた。
今度は莇くんが焦ることはなくて、ただ小さく「くすぐってぇんだけど」と独り言のような言葉が零れる。こういう時の莇くんは、本当にちょっとくすぐったいのか、それともそう言っておきたいだけなのか、わからなくてちょっぴり困る。どっちもあるのかもしれないけれど、私としては後者の方が強いんだろうと思いたい。

ガタンゴトン――

ぽかぽかとした暖かさと、電車の揺れで、もう一度微睡みに身を任せてしまいたくなった。もう、次の駅で降りるのにね。

「あ。今、海見えたな」

男の人の中ではどちらかというと高めの、でも出会った頃よりも低く大人っぽくなった莇くんの声がすぐ上から聞こえてきて、好きだなぁ、なんて唐突に思った。

***

確証があるわけじゃないけれど、莇くんはMANKAIカンパニーに所属することでフットワークが軽くなったんじゃないかと私は推測している。総監督のいづみさんをはじめとして、あそこはやたら行動力がある人が多い。
それが関係あるのかないのかは不明だけど、雑誌に載っていたカフェが、莇くんが以前劇団で話を聞いた海のそばの水族館付近にあると知った私達は、約三時間電車に揺られて、天鵞絨町から随分離れたこの場所へとデートにきたのだ。
デートの約束をした時、電車旅って感じだと喜ぶ私を呆れたように見ていた莇くんは、駅を出てすぐに「一成さんがこっちの道を通ると海がよく見えるって言ってた」とすいすい歩いて行くので、事前に色々聞いてきてくれたんだなとか、莇くんも楽しみにしてくれていたのかなって思って笑みがこぼれた。素直じゃないけど素直なのは昔からで、そんな莇くんをいとしく思いながら、左手の薬指に光る細い指輪に視線を落とす。今日もきれいに輝く、私達の約束の証。
ちなみに、勿論右手は莇くんの左手としっかり繋がれている。

「青いゼリーとクリームソーダ、楽しみだなあ」
「先に昼食だからな」
「わかってるよー」

ここの海をイメージしたという青い色のゼリーと、同じ色のクリームソーダが私のお目当ての品だ。水族館でラッコを見るのも楽しみだけど。

私達が中途半端な時間に来たからか電車は空いていたけれど、着いてみると結構人がいた。土地柄、基本的にはみんな車で来ているのかもしれないと、少し遠くに車がずらりと並んでいるのを見つけて一人納得する。

カフェは外観も、内装も、海辺に合うさわやかな見た目をしていて、席に着いただけで満足感を得られる。
莇くんってこういうところも意外と似合うなあって見つめていたら、「こっち見過ぎ」と手で視界を遮られた。バレてたかぁ。
そんなことをしながら、バカップルと幸さんに言われるのはこういうところかもしれないと最近よく耳にする言葉を思い出しているうちに、注文していたものが運ばれて来た。
ホットサンドと、ゼリーと、クリームソーダ。
私のクリームソーダを一口飲んで「甘い」と予想通りの感想を言った莇くんにもう一口勧めたけれど、いいと断られた。ゼリーもクリームソーダも、甘くて、綺麗で、おいしい。

お腹を満たしたら水族館を見て回って、日が傾いてきた頃に外に出て、海岸をお散歩。
赤みを帯び始めた太陽の光が水面に映っているのが綺麗で、自然と足を止めた。それに合わせて、隣の莇くんも足を止めてくれる。てっきり一緒に海を見ているものとばかり思っていたのに、ふと隣を見たら目が合ったから、とってもびっくりした。
再び散歩を再会したら、岩陰でキスしているカップルを見てしまった。案の定顔を真っ赤にして目を背けた莇くんは、こんなところで何やってんだと文句を言っていた。莇くんが照れすぎるから、こういう時私はむしろ余裕ができる。照れちゃう莇くん純粋だな、可愛いなー、って、普段は大人びている彼のギャップが微笑ましくて仕方がないのだ。
とはいえ、キスかぁ、なんて思って莇くんの唇につい視線をやってしまい、自分の行為に気付いて照れて自爆するまでがセットなので、私も大概人のことを言えた義理ではないのだけど。

――キスは、婚約が決まった時に一度した。
それ以降、おでこと頬には一度ずつ。ハグはもうちょっと多い。けれどやっぱりたまになので、全然慣れないし、簡単にキャパオーバーに陥って、しばらくその場から動けなくなってしまう。
そして困ったことが一つ。
キスもハグも、莇くんは絶対私に許可を取ってからするのが、私はかなり恥ずかしい。
好きな時に抱きしめてくれていいんだよって思うけど、莇くんが私を大事にしたいが故に毎度聞いてくれていることもわかるから、それを言おうか言うまいか、未だに悩んで結論が出ずにいる。言うのも、恥ずかしいもんね……!

悩める乙女心などいざ知らず、莇くんは私の手を引っ張るようにして岩場から離れる。耳が赤いって言ったら夕日のせいだとかいうのかな。そういえば、夕日、さっきまで見えていたはずなのにいつの間にか曇って見えなくなっちゃった。
見上げた空の雲は段々厚くなってきていて、天気の移り変わりの早さに舌を巻く。このままだと雨まで降ったりして。

そう考えたのがいけなかったのか、程なくして降り始めた雨はゲリラ豪雨と呼ぶべき激しさで、莇くんと急いで水族館の敷地内に戻る。
ゲリラ豪雨ならばすぐに止むだろうと考えた私をあざ笑うかのように、雨脚は一向に収まらず、一定の激しさで地面を打ち続けた。

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