今日の担当だった狗巻くんを任務先から連れ帰っている途中、不意に車窓ホルダーに取り付けていたスマートフォンが鳴った。表示されている名前は同僚の"伊地知潔高"で、なんとなく言い表せない不安が脳裏に過った。今日の彼の仕事はなんだったか、と必死に思考を巡らせて一年生3人の任務だと気付いた私は狗巻くんに断りを入れながら、片手で画面の緑のマークをタップする。ちょうど信号が赤になりブレーキをゆっくりと踏み込みながら聞こえて来る彼の緊張感のある声を逃さないように耳を傾けた。
「閑夜さん……!良かった、今何処ですか?」
「今任務終わりの生徒を連れて高専に向かってます。……で、伊地知くん状況は?」
私の促しの声に一瞬息を呑み込んだ伊地知くんだったけれど、すぐにはい、と返事をしてから向こうの現場の状況が伝えられた。今回の彼らの任務は西東京にある少年院の上空に現れた"特級仮想怨霊"の調査。呪胎が浮かんだのは約4時間ほど前のことで緊急の招集だったそうだ。彼の説明を聞きながら感じた違和感に少し眉を顰めたが、伊地知くんの報告は止まらない。恐れていた事態であった変態を遂げた特級呪霊と一年生が相対、補助監督である彼が保護できたのは伏黒恵と釘崎野薔薇の2人。未だ中には宿儺の器である虎杖悠仁が取り残されている。少年院内は不完全な領域が全面に展開されており、呪霊に有利なフィールドであり、介入が困難であることが告げられた。……やっぱり、可笑しい。
「現在伏黒くんが現場に残っています。避難区域の拡大については連絡済みで私はまず釘崎さんを病院へ、」
「……伊地知くん」
「はい?」
「どうして一年生だけで、特級に?」
自分の術式の影響もあって、多く喋らない狗巻くんと私だけが乗る車内が一層静かになった。画面の向こうの彼の表情は分からないけれど、私の落とした疑問への返事は無かった。私が考えていることが確かなら、これはきっと何かしらの圧力や作為が関与している。伊地知くんの反応を見る限り直接的に何か知っていたという訳では無さそうなのが唯一の救いだろう「……ごめん、話戻そうか」と自分から振った話を流すと彼はワンテンポ置いてから、はい、と答えたがその声は酷く動揺している。彼もきっと考えるべきことがあると感じたのだろう。震える声ですみません、と呟き、軽く呼吸を整えた。
「……単刀直入に言います、今高専に対応できる呪術師は居ません。閑夜さん、"特例の補助監督"として現場に向かって頂けますか」
「……分かりました。生徒を高専で下ろしてからすぐ向かいます」
「ありがとうございます、よろしくお願いします」
どちらからという訳でもなく電話を切ってから深く息を吐き出す。"特例"と呼ばれたのは去年のクリスマス以来で実に半年ぶりだろうか。後ろの席の狗巻くんが心配そうな声で「おかか……」と呟いたのに笑顔を作って大丈夫、と伝えた。ひとまずは彼を無事に送り届けることが先決だ。いつもより少しアクセルを踏み込みながらも後数百メートル程度の高専までの道を走り抜けていく。……話を聞く限り、ロクでもない事態なのが目に見えている。普通特級になる可能性があるような任務を学生たち、しかも一年生3人で請け負うことはない。ただでさえ特級に対応できる呪術師なんて階級で言えば日本では3人程度しか居ないはずだ。そのうちの1人、五条くんは数日前から遠方の任務に出向いており、東京には居ない。にこやかに笑いながらお土産買ってくるねと向かっていった彼の姿が頭に浮かんで少し目を伏せながらブレーキを踏んだ。
高専の門の前でごめんねと伝えつつ狗巻くんに降りてもらい、行ってくると話すと、彼は開けていた窓から自身の手を入れて私の手をそっと握って軽く上下させた。一瞬きょとん、としてしまったけれど伝わってくる彼の手の温かさにゆっくりと口角が緩む。きっと彼なりに心配してくれているんだろう。ありがとう、と言った私にしゃけしゃけと頷いた彼は数歩車から離れた。お見送りしてくれるんだな、と理解した私も首を縦に振ってから車の向きを変えて、アクセルに足を掛ける。踏み込もうとしたその前に、ふ、と視線が自分の携帯で止まり、考えるよりも先にSNSの画面へと指が移動する。そこに鎮座する"五条悟"のトーク画面の事務的な連絡ばかり送っている緑の吹き出しに「一年生が任務で危険 早く帰ってきて」と端的なメッセージを打ち込んで、ほんのすこし迷ってから、もう勢いだと送信ボタンを押してスマホの電源を落とした。未だ待っていてくれていた狗巻くんに手を振って、私は今度こそ虎杖くん達が居る現場へと車を走らせた。
「特例?」
「そうだ、捺……お前の才能を殺すのは勿体無い」
この特例は夜蛾先生が私の為に上に掛け合ってくれた制度だ。3年間の呪術師生活を経て、居なくなっていく知り合いや、自分より何倍も才能のある呪術師を見て限界を感じていた私を先生はとても買ってくれていた。呪術師を辞めて補助監督へと転向しようと考えている、と話した私に彼は「非常事態には呪術師と同等の活動が行える権利」を有する、特例という道を敷いてくれたのだ。当時の私はあまりこの重要性を理解していなかったけれど、去年の百鬼夜行の時や今なら、わかる。この時のために私は居るんだと。特級と相対することなんて何年ぶりだろう。でも、やるしかない。現場に近づくに連れて人気が少なくなるのを見る限り避難指示はきちんと通っているらしい。帳が下されていても感じる確かな呪霊の気配に鳥肌が立ったが、構っていられない。残されている生徒達の身だけを案じて自身を奮い立たせた。
のに、
到着した時には全てが終わっていた。車を乗り捨てて近くの影に飛び込んで消え去った邪悪な気配の残穢を探したが、そこにいたのは雨の中座り込む伏黒くんと滲んだ血の中に倒れる虎杖くんの姿だった。掛ける言葉が何も見つからない。不意に頭の中に浮かんだのは元同級生だった彼の姿。去年逝ってしまった彼の顔。五条くんも、こんな気分だったのだろうか。深い建物の影から這い出して、うつ伏せに倒れた虎杖くんの体を転がしたけれど、彼の胸元にはポッカリと穴が開いている。人間にあるべきものが失われていることに一瞬絶句したが、直ぐに着ていたスーツのジャケットを脱いで彼の上にそっと被せた。これで、どうにかなる訳ではないけれど、雨の中晒されるのはきっと彼も苦しい。
少しだけ項垂れていた首を上げた伏黒くんは私の姿を視認するとまた俯いて膝を抱えた。今の彼に何をしてあげられるのか、思考を巡らせようとしたけれど途中でやめて、ゆっくりと彼の隣に同じように腰掛けた。考えているだけじゃ何も変わらない。何も言えなくても、ただ今はそばに居てあげられる人が必要だ。後悔や自己嫌悪、そんな負の感情が今の伏黒くんには渦巻いているんだと思う。……私も、そうだったから。
ちらりと彼の様子を目だけで確認したけれど、足に埋められた顔からは表情は読み取れない。28歳の女がこんな事をしていいのかと若干戸惑ったけれど、手を伸ばして少し固そうな黒髪に優しく触れた。案外指にすんなりと通ったそれを撫で付けるようにして動かしてみると彼の体がビク、と軽く跳ねたけれど、抵抗はされなかった。年頃の男の子にするようなことかどうかは疑問だけど、振り払われていないし、嫌がられてはいないはずだ、多分。
呪術師の卵である彼と、その運命から情けなくもう逃げた、私。どちらにも平等に降り続く雨は2人の体を濡らしていく。もうどのくらいこうしているのだろうか。スマホは車に置いてきてしまったし、時間は分からない。伊地知くんはもう直ぐ到着する頃だろうか。そうこう思いながらも冷えてきた体にくしゅん、と一つくしゃみをした私に伏黒くんがふ、と顔を上げた。蒼と翡翠が混じったような彼の瞳は普段に比べて暗く感じた。伏黒くんは突然着ていた自身の上着を脱ぐと私の背中の上にそっと、優しい手つきで被せた。彼の行為に驚いた私が、濡れちゃうよ、と返そうとしたけれど、伏黒くんは、もう濡れています。と淡々とした事実を述べ、倒れたままの虎杖くんに目を向けると「……アイツに気を遣うから」と先ほどの私の行動を戒めるような言葉を呟いた。
「……ごめんね」
「……いえ、ありがとう、ございます」
ポツリと溢された彼の感謝に胸の奥が詰まった。感謝されるようなこと、何もしてないのに。もう一度、……ごめんね、と落とした無力な私の自己満足でしかない謝罪は雨音の中に消えていく。間に合わなかった。虎杖悠二が死んだという、そこ横たわる事実が重くのし掛かって、私もそっと目を伏せた。暫くしてから走ってきた最早意味を成していない傘を持つ伊地知くんが来るまで、ずっと私達は2人でそこに座り込んで何も出来なかった。