「……おはよう、捺」
ゆっくりと押し上げた瞼の奥。視界の先に見えた悟くんは私と視線が交わると柔らかく瞳を緩めて笑みを浮かべた。そっと肩を抱くようにして私の体を抱き寄せた彼は触れるだけのキスを落とし、それからもう一度しっかりと強く、強く、全ての質量を逃さないとでも言いたげに全てを包み込む。この一ヶ月過ごしたいつも≠ニ何も変わらない、気持ちのいい朝だった。
五条家に伝わる着物を纏い、たくさんの人々に見守られながら階段を降りる悟くんの姿を私は目に焼き付けていた。緊張というよりは精神統一に近い、ピリ、と指先が焼け焦げそうな空気を纏っていた彼は自身と同じ目線に立つ虎杖くんの「術式邪魔!」という一言に少しだけ目を見開くと、グッと目尻に皺を寄せて笑った。生徒達からの激励を一身に受ける彼はとても満足そうで、私の目に映る彼の呪力がほんの少しだけ大きくなったのが分かる。
誰かの応援で力が高まる。カラクリが証明されているのか否か分からない精神論だが、たとえ相手が悟くんであっても、それは変わらないらしい。あくまで彼は、何千何百と煮詰められた呪いの王と対峙する一人の人間≠ネのだ。と強く意識した。しっかりとした足取りで私の前にまで歩いてきた悟くんは、ふ、と一瞬歌姫先輩と楽巖寺学長に目をやり、二人はそれを受け止めてから彼を追い越すようにして決戦の場へと赴き始める。悟くんは彼等の背中を見届けてから私に向き直ると「いこうか」と左手を差し出した。
「敢えて聞くけど……今の気分は?」
「……それは普通、私の台詞じゃない?」
確かにそうだ、と悟くんはクツクツ喉の奥を鳴らしながら、繋がった左手を少し開いてスルリと慣れたように指を絡める。彼と手を繋ぐ時、私が差し出すのが右手で悟くんが左なのはきっと、有事の時に動きやすいからなのだろう。これは、彼と付き合ってから気付いた物事の一つだ。凄く、悟くんらしい考え方だと思う。
ほんの三ヶ月前までは歩くのも難しいくらいの人で溢れていた東京渋谷の街は未だに復興が進まず、閑散としている。意図的に復興を止めているのはこの世界に呪術が存在すると分かっている人達の判断だ。一般人が呪霊の巣窟になった渋谷を歩くにはリスクが高すぎる。中途半端に見えるだけのタイプなら尚のこと更に人死にが出る事になるだろう。そこら中に転がる瓦礫の山と無数の残穢がそれを物語っていた。
「でも……想像してたより落ち着いてる……かな」
私の素直なぼやきを耳に入れながら「そっか」と一言だけ呟いてから悟くんは頷いた。私たちの足元から無下限のヴェールで弾かれたガラス片がチラチラと陽の光を受け止めながら輝いて、小さく転がっていく。……一ヶ月前から、準備はしていた。この日が来ることは分かっていたし、気持ちだけは整えておこうと思っていた。だからこそ、不思議と今は心にある水面は穏やかだ。悟くんはひび割れたコンクリートを跨ぎながら僕はさ、と一拍置いてから口を開く。
「結構、楽しみなんだよ」
「……うん」
「何も気にせず、自分の全てを持ってして対峙出来る相手と今世で手合わせ出来るなんて思ってなかったからさ」
悟くんも、素直だった。彼は今から始まる戦いに少なからず胸を躍らせている。きっと彼の感じる高揚は私では、全てを理解することはできない。世界の命運を決する可能性がある歴史に名を残すような一戦ではなく、悟くんも彼を待ち構える両面宿儺も、ただ単純にお互いの力をぶつけ合う……そんなカタチだと認識しているのだと感じた。悟くんの術式上、近くに護らなければいけないナニカ≠ェあることは一種のストレスになり得る。今の東京では、彼が気にすべきものは残っていない。だからこそ……初めて本気を、出せるのかもしれない。
天秤に掛けられている人間にとってはある種無責任にも感じられる、聞く人によっては怒りを表して「そんなヒーローが居るか」と罵声を浴びせる者もいるかもしれない彼の言葉。でも私には、それを責める事はできない。責めたいとも、思わなかった。沢山の鎖に縛られながら、呪術界に囚われながらも、五条悟というヒトがある種の善性を持ってこの日までこの世界に立っていること。それは当たり前なんかではない。奇跡だと言っても、過言ではない。世界は……彼の善意に甘えてきたのだ。
「でもね、」
「でも?」
「僕がこう思えるのは……捺のおかげだよ」
重なっている指先に少しだけ力が込められた。前を向いて歩いていた彼が首を回して振り返り、腕を引かれて歩いていた私を見やる。慈しむような温もりに包み込まれて一瞬声が出なくなり「……わたしが?」と聞き返すと悟くんは首を縦に振る。まるで一切の穢れを知らないような蒼眼は今、先の戦いでも、世界の行く末でもなく、私だけを見つめている。足を止めた悟くんは自身の歩幅の半分程度後退すると、私とまっすぐ横並びになる。見上げるほどの身長差。まるで違う足の長さ。それらを意図して並び立てた彼からは確かな愛情が伝わってきた。
「だってさ、僕がどうなっても、何があっても……君は此処に居る」
「……!」
「俺の隣に、居る」
穏やかだった丸みを帯びた瞳に、ただ真っ直ぐな光が差し込む。凛々しさを含む張りのある在り方は何処までも、美しい。悟くんの言葉、仕草、視線。全てから打算や見返りのない信頼を感じた。彼が私の隣にまで戻って来てくれたのは一重に優しさであり、そして、呪術界最強の男としてではなく、ただの五条悟くんとしての選択だ。私が知る、私が見てきた、私が、共にいきたい≠ニ思った悟くんの姿だ。片手だけだった繋がりがゆっくりと両手になり、彼の大きな掌に私の掌が包み込まれる。節目がちに睫毛を揺らした悟くんは笑っていた。
「心配することも、不安も無い」
「……さとる、くん」
「捺と未来永劫一緒だって分かってたらね」
だから大丈夫だよ。コツン、と額を合わせながら安心させるような声掛けをしてくれるのは、私のためを思ってのものだ。悟くんにはもう一粒の迷いも見えなかった。だから私も……迷わない。迷う必要なんて初めからなかった。上手い言葉が浮かばなくて私はただ、何度も首を振る。悟くんの口角が緩んで「よし、」とひと段落つけるように声を発すると彼は私も手を引きながらグングンと歩みを再開した。ヒカリエの前にはスーツ姿の伊地知くんが立っていて私たちの姿を見るなり深々と頭を下げる。少し緊張した面持ちの理由は以前悟くんから聞いた彼の役割のせいだろうとすぐに理解できた。でも、伊地知くんの目はしっかりと彼を見据えていて、彼にもある程度の覚悟が出来てきることが伝わってくる。……伊地知くんの気持ちは、よく分かった。私だってきっと彼に全幅の信頼のもと一閃の立ち合いをしてほしいと言われれば、彼のように張り切らざるを得ないだろう。
「よ、」
「お待ちしておりました五条さん……と、閑夜……いえ、捺さん」
「……オマエが捺の名前呼ぶのなんかムカつくな」
すみません……と体を縮こませた彼に慌てて私が呼んで欲しいと伝えたから、とフォローすると悟くんは「そりゃ知ってるけどさぁ」と唇を尖らせて不満そうな顔をする。止まっているエスカレーターを尻目にそのまま一段ずつ階段を登っていく彼は相変わらずだ。ヒカリエを登る間、悟くんは渋谷での被害について伊地知くんに尋ねる。……あの日、彼の使った無量空処によって後遺症を残した一般人は一人もいなかった。伊地知くんからその事実を聞いた彼はふ、と小さく息を吐き出してからグッと天に向かって伸びをする。こんな時に自身の行動について確認する悟くんはやっぱり……強くて、綺麗な人だと感じた。
先に控えていた楽巖寺学長と歌姫先輩に軽く挨拶をした彼は屋上の中心に立ち、瞼を閉じて一つ深呼吸をする。そして、最後に私をじっ、と見つめた。掛けられる言葉を待ち侘びるような数秒にも満たない沈黙。……昨日の夜からずっと、考えていた。彼を送り出す時になんて声を掛けるべきなのか、ずっと。沢山の言葉を思い浮かべては上手く嵌まらない感覚に悩んだ。頑張れ?帰ってきて?そのどれもが少し陳腐にすら感じられる。……でも、ついさっきやっと、決まった。彼が私に伝えてくれた気持ち。それに応えられる一言。私があなたに、手向ける言葉。
「……悟くん、」
「……なあに、捺」
「……───またね」
ぱちん。音が鳴りそうな瞬きと共に思わず、といった様子で悟くんは吹き出した。歌姫先輩が驚いたように悟くんを見て、楽巖寺学長は少し眉を顰める。そんな中でケラケラと可笑しそうに笑いながら目元を擦った彼は「はぁ、」と呼吸を整えるように肩を落とすと、まるで眩しいものでも見たようにキラキラと星を秘めた瞳を輝かせた。生まれたばかりの子供のような神秘的で純粋な光を持ち合わせる彼の目は、昔から何も変わらない。
「うん。……またね捺」
悟くんの顔に決意が籠る。凛と伸びた背筋と共に緩んでいた唇が引き絞られ、流れるように両手を構える。スーツの上着を脱いだ伊地知くんが結界を作り出し、歌姫先輩が舞を始めた。楽巖寺学長の琵琶が荘厳な響きを打ち鳴らし、東京の街に染み渡る。同時に私の掌にも熱が籠り、彼と溶け合った呪力が反応しているのが分かった。腰を落として掌印を結ぶ彼の放つ呪詞を聞きながら私も真っ直ぐ手を伸ばす。私がここに来た理由は単なる彼との対話のためではなく縛り≠ノよって譲渡された彼の呪力をこの瞬間、一点に集中させるためだ。
「九綱」
「偏光」
「烏と声明」
「表裏の間……」
膨大な呪力が膨れ上がる。吹き上げた風の如く辺りの瓦礫や衣服が浮かび、悟くんは力強く腕を構えた。奇しくも美しい藤色の閃光が空を切り裂く。
凄まじい爆発音と共に全てが破壊され、崩落し、塵となる。世界を飲み込む鮮やかな終焉と共に悟くんは飛び込んでいく。彼との繋がりがそうさせるのか、私の胸に伝わってくるのは驚異に立ち向かう時の心境だけでは無い。彼が彼らしくあれることに対して確かに満ち足りていること。止めどない興奮とセカイに対する責任。そのどちらもを悟くんは抱いている。遠くから聞こえる狼煙の音を聞きながら、私はその場に立ち尽くす。歌姫先輩に「捺」と名前を呼ばれたことでやっと振り返り、観測室に歩を進めた。───私の足は想像よりもずっと、しゃんと動いている。私と悟くん以外にはその∴モ味は分からないかもしれない。でも、それでいいのだと思う。あとはただ、待つだけだ。