「これは五条悟のための戦いだ。……どうなろうと割って入るのは野暮ってもんだ」
 
 
 
 
 
 円柱状にたくさんのモニターが繋げられた空間に集まり、術師たちが皆、彼らの戦いを見つめていた。規模の大きさに何処か非現実的な感覚を抱く私の耳に鹿紫雲さんの声が印象深く残される。沢山の意見や考察が飛び交う中、私にとっては彼の言葉が不思議と一番納得出来る物であった気がした。悟くんの呪力操作が数キロ離れた先に居る私の中へ伝わってくる。彼のやりたい事や次の一手が心身に流れ込み、私の脳では図りきれない事象を感覚≠ニして理解する。 終わりが近いことは何となく、分かっていた。
 
 
 
 ひんやりとした空気がモニター越しに伝わるような、静かな降雪。彼の持つ白が世界に溶けて、溢れ出た赤が彼をヒト≠ヨと還していく。初めに声を発したのが、息を呑んだのは誰なのか。澄んだ青が凪を含み少しずつ、少しずつ、色を失う。その場から立ち上がった私が身を翻し歩き出したコンマ数秒後。電撃が舞い鹿紫雲さんが飛び出したのが見えた。隣に座っていた硝子が「捺、」と私の名前を呼ぶ。グッと眉を寄せた唯一の友人と視線が交わった。それは一瞬の邂逅で、つい、私の頬に仄かな笑みが浮かぶ。反比例するように彼女は強く唇を噛み締めた。……約束、守れなくてごめんね。身勝手な友達で、ごめんね。そして、ありがとう。この世界で私が走っていられた理由に硝子は深く、深く関わっている。だからこそ言葉は掛けなかった。これ以上貴女を呪いたくはない。
 
 
 
 
 
「っ、は、」
 
 
 
 
 
 短く息を吐き出しながら地上へと伸びる階段を走り出した。次第に息が弾んで喉の奥が締め付けられる。酸素を求めるように必死に呼吸しては軽く噎せ返った。耳のそばで自身の普段よりもずっと早い拍動が木霊して、それすらも振り払うように駆け上がっていく。濁流のように雪崩れ込んでくる空気が私の中を通り抜け、何度か頭を振り乱す。壁に映った影は私の隣にぴったりと寄り添うように着いてきていた。苦しくて、今にも倒れそうな意識の中人生の共にした私のパートナーとも言える黒い存在に私の口元は綻んだ。労わるようにそっと影に触れて、影は私の動きをただただ見つめる。───影響≠サうやって呟いた瞬間ふっ、と身体が軽くなり、私の分身は切り離されたように居なくなった。……否、電車が交差して通過した時のように、影だけが走り抜けた数秒前の過去へと置き去りになる。残された私自身の呪力を全て、半身に与え魂を付与した。私が残される人達に遺せるモノは、このくらいしか思いつかなかったのだ。
 
 

 
 
 

 
 
 


 
 
 
 ───意識が浮上する。眩い光に瞼が照らされてゆっくりと押し上げられた視界には線路があった。ポツン、と時代の流れに取り残されたかのような上りと下りの僅か二線だけで構成された田舎の駅。都会では久しく見ることがなかった、こじんまりとした光景。柔らかな青空には雲一つ浮かんでいないが、半透明のヴェールに包まれた微かな白みを含んだ世界には暖かな風が吹いており、新緑の香りを運んだ。私の毛先が少しだけ持ち上がると共に麗らかな光が何処からか舞い込んできた桜の花びらをチラチラと輝かせている。
 
 
 



 
 
「……縛りを結ぶ時は慎重にしろと教えただろう」
 
 


 
 
 
 不意に聞こえた声に、ゆっくりと首を右隣に傾けた。そこに座っていた人物に大きく目を見開く。私の唇が無意識に「先生、」と動いた。サングラスを付けていない刈り上げ頭の、記憶の中に馴染んだ夜蛾先生は呆れたような表情で私を見つめている。彼はじっくり視線を動かしながら私の頭から爪先までを見やると、髭に覆われた口を少しだけ緩めて笑った。
 
 
 
 
 
「お前は……その姿なんだな」
「……先生は、先生なんですね」
 
 
 
 
 
 先生とは違い、私の服装はいつも≠フ黒いスーツだった。愛用している動きやすい革靴と赤いネクタイ。この二月ほど身に纏うことがなかった、補助監督であることを示す格好。夜蛾先生は目尻を細め、口角のあたりにほうれい線を描きながら「お前らしい」と呟く。どういう意味だろう、と問いかけると膝に両手の肘を付け、背中を丸めた酷く見覚えのある格好で先生はあの時、と話し始める。
 
 
 
 
 
「お前はあの時、世界から逃げなかっただろう」
「……あの時、って」
「俺に術師を辞めると伝えにきた時だ」
 
 
 
 
 
 記憶がフラッシュバックする。精神を疲弊していたあの時、夜蛾先生が私の身を案じて足を洗えと背中を押してくれた日。わたしは、彼の優しさを受け入れつつもその申し出を断った。たとえ不格好であっても、私はあそこに、しがみついていたかった。私にとって彼等との出会いは唯一無二で、かけがえの無いモノだったのだ。思えばあの日も先生は同じような格好で、同じように仕方ないものを見るような、それでいて穏やかな視線で、私に特例≠ニいう道を示してくれた。補助監督としての生き方を教えてくれた。私を高専へと連れて来てくれたのも、彼だった。そんな夜蛾先生のことを恩師と呼ばずして、何と呼べばいいのだろうか。
 
 
 
 
「捺……お前は、凄いやつだよ」
「……そんなこと、」
「あるさ。アイツらと歩く道は並大抵じゃなかった筈だ。……俺には想像出来ないくらいにな」
 
 
 
 
 ───よく頑張った。そんな一言と共にポンと肩に手が置かれた。厚みのある大きな掌に無駄に込められていた力が抜けていく。夜蛾先生は、私の人生で一番の先生だ。ツンと鼻の奥が苦しくなるのを誤魔化すみたいに頷いて何かに突き動かされるようにその場に立ち上がる。軽く右手あげて私を見送る先生にふと、初めに掛けられた言葉への返事がまだだったと思い出し「……先生が教えてくれたから、私が縛りを結んだのは彼だったんです」と答えると一瞬面食らったように瞬いた先生は悪童を諌めるように片眉を上げて、言うようになったじゃないかと微笑んだ。
 
 
 
 
 
 
「……あ!」
「……あ、」
「捺さん!お久しぶりです!」
 
 
 
 
 
 
 導かれるようにホームの点字ブロックの上を歩いていると、たどり着いたベンチに座っている黒髪の青年が弾かれたように勢いよく体を持ち上げたのが見えた。私と視線が交わるなり大輪の向日葵みたいに笑った彼は、思い出の中に生きていた姿と寸分違わない仕草で深々と頭を下げる。ホームの長い屋根の隙間から見える青空を背負う灰原くんは、眩しかった。私が先に座るまでその場に立ち尽くしている後輩らしさが溢れる彼は、私が空いているスペースに腰掛けるなり、トン、とリズミカルに体を下ろす。ピンと伸びた背筋が向日葵の性質を思い出させるようで、今度は私の方が目を細めてしまった。
 
 
 
 
 
「……灰原くん、」
「はい?」
「元気、だった?」
 
 
 
 
 
 私の問いかけに人懐こい瞳を更に丸めた彼は「はい!この通り!」と学生服を捲り上げ利き腕で力こぶを作って見せる。そんな調子の良い仕草がひどく懐かしくて、私の口から小さな笑い声が零れた。捺さんは元気でしたか?というごく自然な質問もこの場では何だか可笑しく感じて、緩む頬をそのままにこの通り≠ニ軽く腕を広げて見せると灰原くんはウンウンと納得したように首を振って元気そうですねと破顔する。ほんとうに、変な感じだ。
 
 
 
 
 
「でも、良かったです」
「ん?」
「捺さんと五条さんが一緒になれて!」
「……見てたの?」
 
 
 
 
 
 この目でバッチリと!そう言いながら爛々と瞳を輝かせる彼は昔から二人はお似合いでしたよと楽しげだ。どんなところが?と興味を込めて尋ねると、分かりやすいまでに顎に手を当てて思案した灰原くんは「勘です!僕の!」と結局は投げやりにも感じられる答えを提示する。何それ、と言葉ではそう言いながらも笑みが止まらない私に灰原くんは結構人を見る目には自信があるんですよと自身の髪を掻き上げて照れ臭そうにしていた。それから、ふ、と少しだけ遠い目をしながら線路の先を見つめて「七海のこと、ありがとうございます」と彼にしては珍しく静かな調子で頭を下げる。感謝されるようなことをした覚えはなくて何の話?と聞き返すと、灰原くんはやっぱり笑いながら取っ掛かりのままに話し始める。
 
 
 
 
「捺さんと七海は仲良くなれると思ってたんです、僕」
「ほんと?……仲良くなれてたかなぁ?」
「めちゃくちゃ仲良かったですよ!」
 
 
 
 
 僕が保証します、なんて根拠も確証もない言葉だが、灰原くんが言うと不思議と信じられる気がするのは何故だろう。捺さんと七海はちょっと似ているところがあったから、と。そこまで言った彼は「でも捺さんのが逞しかったです!」なんて事を口にする。それって褒め言葉?と確認した私たち堂々と頷く彼は、どこまで行っても変わらない人だった。それから灰原くんはちらり、と駅の奥を見つめて本人とも話してやってくださいと少しだけ悪戯っぽく口元を持ち上げた。それが意味することを悟った私は頷いてからそっとベンチから立ち上がる。とても名残惜しい感覚に一度だけ彼を振り返ったけど、灰原くんは相変わらずの笑顔で私を送り出して居た。後腐れのない、気持ちのいい青年。それが灰原雄だった。だからこそ、私はもう振り返らなかった。
 
 
 
 
 
 
「……早かったですね」
「それは……私の台詞だよ」
 
 
 
 
 
 
 七三にぴったりと分けられた前髪から覗く切長な瞳。ゴーグルが無いせいか、何処か幼さを残した顔立ちの彼は灰原くんと違ってその場から立ち上がらずに私を見上げている。……こういう所は、彼等の間柄を表すようで昔から面白いと思っていた。正反対の二人。私たちの高専で出来た初めての後輩。苦しみながら呪術界を共に走った七海くんは少し困ったように眉を顰めた。
 
 
 
 
「……理解出来ないです」
「ん?」
「貴女は何故あんな縛りを?」
 
 
 
 
 
 ……なぜ五条さんと?目は口ほどに物を言う。意外にも感情的な七海くんらしい疑問に思わず笑みを零した。笑う私を見てさらに顔を顰める七海くんの彼≠ヨの評価は未だ変わらないらしい。何故かと理由を問われると、何と答えていいのかどうしても迷ってしまう。崇高な理由があるわけじゃない。彼のためだ、なんてことを言うつもりもない。少しだけ背中を反らすように背もたれに身を委ねた。
 
 
 
 
 
「七海くんは、悟くんのこと嫌い?」
「……好き嫌いだとか、そういう次元ではないでしょうあの人は」
「私はね……だいすき」
 
 
 
 
 
 面食らったように此方を見つめる七海くんはやっぱり理解が及ばないと言いたげな目をしていて、不服そうなのを隠さなかった。生徒達や後輩の前では格好を付ける七海くんだけど、私にとって馴染みのある姿はやはりこちらなのかもしれない。そんな彼の様子に喉の奥を鳴らしつつ、愛してるの、とごく当たり前に紡がれた自分の感情に一人納得する。私は、悟くんと生きたいと思った。助けられ続けた人生に、ほんの少しでも恩返しがしたかった。だから……彼が望んだカタチが私に返せるモノであったことが、すごく嬉しかった。
 
 
 
 
「閑夜さん、貴女は後悔を減らすために自身の可能性を広げていると私に教えてくれました」
「……うん。そうだね」
「その結果、貴女は……後悔せずに此処に来られたのですか?」
 
 
 
 
 頭の中に過ったのは、悟くんと一緒にネットショッピングで注文したお正月前に届く冷凍蟹。年が明けたら二人で食べようと楽しげに笑ったあの日。決戦の日をお互い把握している中でも未来に投資したこと。そろそろ蟹の剥き方を覚えようかなとぼやいていた彼の姿がぼんやりと瞼に浮かんだ。あれは自分で注文した蟹の中でもトップクラスのお値段に慄いたけれど、結局食べれそうにない。……だからたぶん、後悔が全くないと言えば、嘘になる。
 
 
 
 
「……後悔はあるよ。でも、」
「……」
「それを減らせるように生きたことに、後悔はしてない」
 
 
 
 
 やるべきことは、やってきた。それでもまだ余りある願いや希望の全てをひとまとめにした上で私が選んだ結末に、後悔なんてなかった。この感情を形容出来る言葉があるとするならばきっと、一番近いものが「愛」なのだと思う。取りこぼさないように必死に走り続けて、それでも指の隙間から流れ落ちていく運命を見つめてきた。そして最後に、絶対に落としたくないものをしっかりと抱きしめた。二十九年の人生を賭けて私は、運命に打ち勝ったのだと……そう、思いたい。
 
 
 七海くんは深く吸い込んだ息を少しずつ吐き出した。……灰原に何か言われましたか。脈絡なく問われてどう答えるべきか迷いながらも「私たちが似てるって、」と素直に伝えると七海くんはもう一度、今度は更に深く深く肺の奥底に溜め込まれた空気を押し出して、ぽつ、と独り言みたいに呟いた。
 
 
 
 
「……あまり似てないと思いますけどね」
「似てるところもあるけど、似てないところもある……のかな?」
「それはもう、似ているでは包含出来ないでしょう」
「確かにそうかも……」
「……でも、」
 
 
 
 
 あなたのことは、人として尊敬していました。視線を交えずに電車の来ないホームを見つめながら吐露された彼からの最大限の賛辞に驚き、数秒遅れて頬が緩んでいく。……彼は、かわいい後輩だ。ありがとう、と私も精一杯の感謝を伝えるとやっと七海くんは此方に目を向けて「今度こそ奢ってください」と小さなわがままを口にする。それを拒否するなんて選択は私には無かった。
 
 
 
 勿論だと改めて約束をして、最後には立ち上がり一礼した彼に手を振って私はさらに奥へと歩いていく。そして、やっとのことで辿り着いた尻切れになったホームの先端。青空に浮かぶ鱗雲の前に座る大きな背中。長くて艶のある黒髪を一纏めにした、青年の姿。明暗順応のせいで霞んだ目元を擦り上る。驚きというよりは、安心感が強かった。こうして三人と会話する中でもしかしたら≠ニいう感情が湧き上がっていた。だから、そこに貴方がいて、安堵した私が居る。
 
 
 
 
 


「……夏油くん」
「……やぁ、捺」
 
 


 
 
 
 最後に見た時よりも、随分と健康そうな目元を細めた彼がひらり、と手を振った。吹き抜けた春風が彼の前髪を掬い上げる。だけどその行為に似合わず彼の顔に浮かんでいるのは確かに滲んだバツの悪さで、ふ、と吐息を零しながら自然と口角が緩む。……良かった。これで彼が満面の笑みでも浮かべていたらどうしようかと思った。そんな感想を隣に座りながら呟けば「間違えなくて良かったよ」と夏油くんは苦笑する。彼は、間違い無く私を呪った人間のうちの一人だ。こんなことを言うと嫌味だと取られるかもしれない。……実際、これはイヤミだ。私を誘いに来たくせにそれを突き通す勇気が無くて、最終的には残された友人二人を「頼む」とまで言ってのけた、身勝手で、どうしようもない、わたしのともだち。
 
 
 
 
「……」
「…………」
「何から……話せばいいかな」
「……それ、私に聞くの?」
 
 
 
 
 そうだよね、と酸い笑みを浮かべながら太くて男性らしい指先を何度か揉み込んだ夏油くんは揺らいだ感情を落ち着かせるように息を吐いて「……ごめんね」と一言呟いた。底なしの青空に彼の謝罪はすぐに霧散して、私は彼の声を頭の中で繰り返しながら何に対して?と聞き返す。今の私は少しだけ、嫌な女かもしれない。夏油くんは昔からの癖で前髪を触りながら……色々。とだけ答えた。
 
 
 
「……夏油くんはどうして、」
「……」
「あの時、私を連れて行かなかったの?」
 
 
 
 
 いつか、誰かにも投げつけた質問を、私は今度こそ本当の彼に問い掛ける。夏油くんは驚かなかった。想定内だったのかもしれない。暫く黙り込んだ後「……悟に随分怒られるからね」と小さな声で綴られた言葉にはあまりにも分かりやすい嘘が込められている。……全てが嘘というわけではないことは、私も理解している。でも、きっと本当のことではないとも分かっていた。過ごした時間は年月で換算すればほんの僅かな、瞬きの間に過ぎてしまうような日々だったかもしれない。でも……あんな密度で駆け抜けた瞬間は、以来一度も訪れなかった。大切な、世界だった。
 
 
 
 
「……私の、」
「……」
「わたしの、ためだよね」
 
 
 
 
 彼の行動が、棒倒しで無理やり勝ちを譲った行為が、私のためだなんて、とっくの昔に気付いていた。あんなやり方でしか友人を誘えなかった不器用な彼が、最後に私を押し返したのは、夏油くんの優しさで、それでも誘ってしまった後ろめたさから全てを素直に打ち明けることはしない。それが、私の知る夏油くんの答えだった。夏油くんは一瞬面食らってから、分かっていて聞いただろう?と少しだけ目を逸らす。私が本当に分かっていないと思う方が悪いのだ、と子供みたいな責任転嫁をして、それに彼は「言うね」と自嘲した笑みを落とした。
 
 
 
 
「……会いたかった」
「……捺、」
「最後に立ち会えたのが悟くんだけなんて、ずるいよ」
「ごめんね」
「硝子も、同じことを言うから……覚悟しておいてね」
「うん……そうだね。寧ろ硝子のはもっと強烈かもしれない」
「硝子だもん、あり得るよ」
 
 
 
 
 少しずつ、口調が軽くなる。当時の記憶を手繰り寄せるような夏油くんとのやり取りは、心地良かった。夏油くんと私はたぶん、友達だった。私にとっての友達の形は、これだった。夏油くんも同じことを思っていたら嬉しいな、なんて。これは少し望みすぎなのかもしれない。朝一番の秘密のお茶会。顰めて笑った年相応な悪戯っぽい笑顔と、それに文句を言う私。からりとした、関係。少しずつ話題は私と悟くんの話になり、どうにもならないかとヒヤヒヤした、と戯けた彼だったが、最後には「結婚おめでとう」とほのかに咲いたタンポポみたいな若々しい笑みを見せた。私がそれに一言感謝を告げた時、低いホルンが辺りに響く。
 
 
 驚いて顔を上げると、ガタンゴトンと車輪が線路を弾く聴き馴染みのある音と共に、私達の目の前にゆっくりと車両が二つしかない小さな小さな列車が到着した。思わず隣に座る彼を見上げたが、夏油くんは「さて、」と言いながらその場から立ち上がり私に手を差し出した。導かれるままに重ねた指先を優しく包み込んだ彼は、そっと私の体を立ち上がらせるとエスコートでもするように開いた扉の方へと足を進めていく。
 
 
 
 
「……っ、夏油くん、」
「待ってるよ、アイツが」
 
 
 
 
 扉とホームの縁で手を離した夏油くんはくすぐったそうな優しい笑顔を私に向ける。彼の指すアイツが誰かなんて、聞かなくても理解出来て私は誰もいない車内を見つめる。もう一度だけ夏油くんを見上げた。黒い瞳には、黒だけが内包されている訳じゃなくて、確かに穏やかで柔らかな光が灯っている。それを確認してからやっと、私は静かに自身の右足を踏み入れた。数秒経たずして列車の扉が一人でに閉まっていく。隔絶された空間ではもう、彼の声は聞こえなかった。……だけど、
 
 
 


 
 
「……また会えて、良かった」
   

 
 
 
 


 夏油くんが、曇りなく笑って動かした唇は、そう告げているように見えた。次第に遠くなっていくポツン、と寂しく残された駅が完全に見えなくなるまで窓ガラスに張り付いて、それからゆっくりと青色のシートに腰掛ける。
 







 
 ……ぼんやりと窓の外を眺めていた。美しい春の芽吹きが溢れる自然の中を駆け抜けて、フィルムが切り替わるように場面が切り替わる。瞬く間に流れていく世界が滑り出す。一瞬私の地元が映り、山奥に門を構えた高専を過ぎ、赤い琉球煉瓦と何処までも続くような透き通る海が広がる。いつの間にか青空は黄昏に表情を変え、視界が赤に染め上げられた。燃えるような夕焼けに気を取られた途端、電車はトンネルを潜り始める。黒くなった車内で向かいの窓ガラスに内装がそのまま反射していた。ぼんやりと映し出される私の姿は、彼らとは違って高専時代ではなく今≠フ大人になったわたしだ。その理由について考えても結局、答えは出ない。
 
 
 
 
 
「……あ…………」
 
 
 
 
 
 トンネルを抜けてすぐ。私の目に飛び込んで来たのは、今にも落ちてきそうな満点の星空だった。息を呑み、腕の力が抜けてだらり、とシートに流れた。仄かに車内が肌寒くなり、私は今の季節を、日付を、思い出す。冬の澄み切った空気のせいか、普段よりずっと星が大きく見えた。数えられないほどの天体で溢れて、東京の街よりもずっと明るく見える夜空は酷く神秘的だ。そんな空を二分するように白く滲んだ天の川があまりにも大きくて無意識のうちに吐息が漏れた。……ここに、きっと彼が居る。
 
 
 
 直感のようなものだった。今の私にはもう、彼の呪力は感じられない。それどころか私自身の呪力すら感知できなくなっていた。それでも私の感情に呼応するかの如く、電車の速度は少しずつ緩やかになり、閑散とした無人駅で揺れの全てを停止させる。開いた扉のその先へ、殆ど反射的に私は足を踏み出していた。
 
 
 
 コンクリートを踏み締めて、勢いよく寂れた手すりを握る。身体を乗り出して目を凝らして数秒。私は星空の中に立つ、よく知った長身を見つけた。ひんやりとした冷気が肌を刺し、口の端からは白い息が宙に昇っていく。……そんなことを気にせずに、私はただ駆け出した。降り立った地面には薄く水が張られているみたいで革靴の先で水滴が跳ねるのが分かった。透明度の高い水面が宝石箱をひっくり返したような夜空をそのまま映して、自然のスクリーンを作り出している。美しい光景だった。





───大きく息を吸い込む。手をまっすぐ伸ばして、私はただ、彼の名前を呼んだ。
 
 
 
 

 

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