世界最後の日。人間は一体、何を考えるのだろう。
 



 
 幼い時に何度か空想したもしも≠フ話。それこそ学校にテロリストが攻めてきたとか、大きな隕石が落ちてきて地球が終わってしまうだとか。人は不思議と、続く未来よりも終わりを想像してしまう時がある。
 冷蔵庫を開けた時、今晩を乗り切るだけの分だけ残されていた食材に少しだけ心が軋んだ。最後に買い物に行った時、二人で揃えた数多の野菜や肉はきっと、今日で底を尽きる。これが彼の計算通りなのか、そうではないのか、私には判断が付かなかった。

 
 
 
 ───12月23日。すっかり暗くなった外には微かな粉雪が降り注いでいる。厚く覆われた雲が手を伸ばした先で届きそうに見えるのが、このマンションの高さを物語っていた。使い掛けの玉葱に包丁を通して、少し歪んだ視界を肘の辺りで不躾に拭う。火にかけていた油の上に右手を差し出し、湯立ち始めたのを見計らって衣の付いたカツを二枚同時に浮かばせた。ジュッ、と勢い良く音を立てたソレから反射的に数粒の跳ね返った油が吹き飛び、避ける間もなくそれを受け入れようとした私の体がふわり、と背後から柔らかな匂いに包まれる。手の甲に触れる間際で油は私から跳ね返り、台所で力を失った。肌の上に一枚ヴェールが重ねられたかのような、この感覚を今の私はよくよく知っている。
 
 


 
「……悟くん、あぶないよ」
「今のは捺の方が危なかったでしょ」
 


 
 
 ちゃんと避けようとしてよ。呆れと笑いが混合したような口調の彼は逞しい腕をギュ、と私のお腹の辺りに回しながらそう呟く。……料理をしていると跳ね返った油に熱いと小さく悲鳴を上げるのにも慣れてしまうものだったが、悟くんはそれすらも許してくれない。僕が此処に居るからには捺に傷一つも負わせないよ、と、一緒に住むようになってから彼は宣言していたが、まさに有言実行。実際この期間、私には細かな怪我の一つすらもない。きっとこれが悟くんなりの愛情なのだと痛いほど理解していた。
 
 
 手伝う方がいい?くすぐったくなるくらい耳元で問いかけられた疑問にゆっくりと首を横に振る。もうすぐ出来るから、とお決まりの台詞を吐きながら薄切りにした玉ねぎをフライパンで熱して、狐色の焦げ目が付き、瑞々しさが少し吹き飛んだあたりで調味料共に溶いた卵を流し込む。あまりの香ばしさに悟くんが「……あー、腹減った」とぼやいたのが分かった。くすくすと口元を緩め、もうすぐできるよ、と臍の上を通り過ぎた辺りに置かれた大きな掌を指先で軽く撫ぜれば、彼は納得したように頷いた。
 
 
 
 
「頂きます」
「どうぞ、召し上がれ」
 
 
 
 
 既に慣れ親しんだやりとり。毎回しっかりと手を合わせ、律儀な挨拶を忘れない彼には確かな育ちの良さが滲んでいる。箸を持つ手も綺麗なのにある程度のサイズ感に切られたカツと卵の絡んだご飯が大きな口に取り込まれていく様は見ていて気持ちが良かった。
 悟くんは、ご飯中あまり口数が多くない。食べることに集中しているのもあるだろうし、ちょっとしたマナーでもあるのかもしれない。私もそれに倣うように少しずつ出来立てのカツ丼を口の中へと運んだ。彼の好きな甘めの卵閉じ。カツに掛けられているのは昔ながらの願い事。このメニューを選んだのは、私なりの、抵抗だったのかもしれない。
 
 
 

 
 
「はぁー……今日もメチャクチャ美味かった」
「ほんと?なら良かった」
 
 
 
 

 
 ホントホント、と喉の奥を嬉しそうに震わせながら悟くんはベッドに体を預けた。少しだけ軋んだスプリングの音を聞きながら私も彼の隣にゆっくりと寝転がる。夕食を食べた後は二人で並んで食器を洗った。食洗機自体は据え付けられているのだけれども、今日はなんとなく、手洗いしたい気分だったのだ。私が洗ったお皿を悟くんが丁寧に水気を取り、カゴに立てかける。そんな共同作業を終えてからは、珍しく一緒にお風呂に入った。初めはそんなつもりは無かったのだけれども、悟くんが私の手を取ってグイグイと脱衣所まで連行し、それはもう手早く衣服を取っ払ってしまったのだ。
 
 
 たまにはいいでしょ?≠ネんて悪戯っ子みたいな笑顔を向けられてしまっては、私に断る術などない。身一つになった私の体をギュッと抱きしめて湯船の中に二人で沈んだ。悟くんの体でもある程度足を伸ばせる広々としたバスタブで、彼の体に背中を預けながらゆらゆらと揺蕩う。時折大きな手で掬い取った湯を私の肩や背中に流してくれる優しさに思わずそっと目を閉じた。


……穏やかで暖かな時間が流れる。時折水滴がぽちゃん、ぽちゃん、と洗面器の水面を弾いて、音楽を奏でていた。風呂を上がってからはバスタオルで水気を取り、彼の日焼け知らずな白い肌を少しだけ羨んで、それに笑った悟くんが私の髪にドライヤーをかけてくれた。丁寧な手つきでしっかりと毛先まで乾燥させる悟くんはそんな作業ですらも随分楽しそうだ。大きな瞳を緩めながら慈しむように女の子の髪を乾かす五条悟という男性を、他の人はきっと、知らないのだろう。それはすごく、もったいない事のようで、同時にほんの少しだけ私が知っていればいい≠ニ傲慢な考えが顔を出す。ちらり、と彼の顔を見上げた。意外にも真剣な顔で私の髪と向き合っている悟くんは相変わらず綺麗な顔立ちをしている。そうして暫く盗み見ていたが、結局彼と視線が重なって「ん?」と柔らかな声を投げ掛けられると、首を左右に振ってしまった。……傲慢でも、いいのかもしれない。そんな悩みを抱く段階はきっともう、過ぎている。そう感じた。
 
 
 
 
 
 
「……あしたは、何時起き?」
「結構早いかも。歌姫とかお爺ちゃん……伊地知とも調整する予定だし、」
 
 
 
 
 
 
 少しの決心の後、私はやっと「明日」についての話を切り出した。そんな気持ちを知っているのか知っていないのか、あくまで彼は普段と大きく変わらない口調で指折り数えて「六時くらいかなぁ」と呟いた。白い天井を見つめる悟くんが何を考えているのか、何を思っているのか、私には汲み取れない。思わず黙り込むと、惑星軌道が弧を描いたように青い瞳が私を捕まえた。冬の夜空の中で明るい星が群生した天の川みたいな美しい輝きは、問いかける。不安か、と。
 
 
 
 
「……うん」
「僕が負けるって?」
「……悟くんが、傷付くのが」
 
 
 
 
 こわい。それは、私の今抱いている素直な感覚。悟くんは人間だ。私と同じ赤い血が通っている。切られれば痛いし、血が流れる。それは普遍の事実なのだ。……この日が来ることは、彼が戻ってきた時からずっと分かっていた。分かった上で私は、彼との生活を始めた。一ヶ月。長いようで短い、夢のような時間。初めこそ日に日に恐怖で支配されてしまわないか、自分の心の弱さが彼に迷惑を掛けてしまわないか、すごく不安だった。だけど、それは杞憂に終わる。そんな鬱屈した感情を抱く間もないくらいに……悟くんは、私を愛してくれた。冬の寒さが増してタイムリミットが近づいても尚、私は彼と生きたこの時間に一つの後悔もしなかった。それは一重に悟くんの持つ不思議なパワーのおかげだ。今日、今、この瞬間まで、未来を意識せずに居られた。
 
 だからこそ、怖いのだ。明日何が起きるのか、何も想像が付かない。現代最強の術師である悟くんと呪いの頂点に立つ両面宿儺℃р含む全人類がきっと、この戦いの結末を予想出来ないでいるだろう。二人の間に差があるのか、或いは互角なのか。私にはやはり、分からない。どちらにせよきっと……悟くんは、無茶をする。
 
 
 
 
「……ほんと捺は変わらないね」
「……変わったよ」
 
 
 
 
 五条くんに、変えてもらった。続けた言葉に彼は少しだけ目を丸くして、それから嬉しそうに「俺かぁ」とぼやいた。両手を頭の後ろに持って行って口角を持ち上げる五条くん……いや、悟くんは普段と大きく表面上の様子は変わらない。ただ、流れ込んでくる呪力量がいつもより格段に大きいことが、現実を強く物語っている。緊張、とは少し違うかもしれないが、彼はもう既に準備しているのだろう。少し体を傾けて隣に寝転がる悟くんを見つめた。長い睫毛が繊細なカールを携えてまっすぐ天井へと伸びている。彼の志のように、真っ直ぐに。
 
 私の視線に気付いた悟くんは、そっと瞳を交わせる。彼もまた寝返りを打つように私に向き直ると、硬い手のひらが頬を撫でた。包み込むような体温は少しずつ顎のラインにまで落ち込んで、親指の腹が唇に優しく触れた。そこにある弾力を確かめるようなぬくもり。それからゆっくりと整った顔が私の顔と合わさって、ほんの一瞬だけ邂逅する。ふわり、と悟くんの匂いがした。
 
 数秒の沈黙。彼の持つ宇宙が私だけを見据えて、悟くんは小さく息を吐き出した。どうしようもない衝動に突き動かされるように彼は自身の体を持ち上げると私の上に覆い被さるように移動して、もう一度、今度は噛み付くようにキスをした。口角の端から零れ落ちる吐息と小さな声。静かな部屋に響く布ずれの音。鼓膜が、震える。
 
 
 
 
 
「本当はさ、」
「……っ、ん……?」
「ほんとは……今日、抱きしめて寝るだけで、それ以上は今度に取っておくつもりだったんだよ?」
 
 
 
 
 
 これでもね。と付け加えながら何度も角度を変えて口付けを落とす悟くんが言う。わたしは、少し霞んだ意識の中に聞こえた今度≠ニいう響きにギュッ、と喉を奥が締め付けられたのを感じた。分かっていたはずだった。悟くんが確かな自信のもとに地に足付けて立っていることを、知っているはずだった。だけど私はやっと……彼が、本気でその先を見据えていることを肌で実感したのだ。
 
 怖くない、わけがなかった。不安じゃない筈がなかった。こんなにも大好きになった、私の生きる道を照らして、手を引いてくれた彼が。一度居なくなってしまった彼が。また、生死の境目を彷徨う可能性を知っていながら送り出すことしか出来ない自分に嫌気が差して、悲しくて、苦しかった。だけど悟くんは……ずっとずっと、未来を見ている。きっと、あの夏の日からずっと。
 
 
 
 
 
「さとる、くん……」
「……捺、」
 
 
 
 
 
 ───愛してるよ。 彼の紡いだ言葉には微塵の曇りもない。一筋の涙がほろり、と目尻から頬を伝い、首へと流れ落ちてシーツにシミを作った。なぜ私は泣いているのか。明確な理由はわからない。ただ、心が震えて、感情がカタチになった。乾燥した喉を潤すように唾を飲み込んで「わたしも、愛してる」と思いを言葉に乗せる。悟くんは、笑っていた。悟くんは、五条くんは、こんなところで涙を零す人ではないとよく知っている。だからこそ彼は、笑う。水彩画が滲んだような瞳で、きれいに、笑う。
 
 
 ……明日には響かないようにするからさ、なんて。情緒があるのか、ないんだか。少し茶目っ気を込めて囁かれた誘い文句に私の唇にも思わず弧が描かれた。悟くんは、ずるい。こんな時にでも、私を笑わせようとする。泣き虫だと怒られていた学生時代から、大して変わらないのかもしれない。わたしたちは、何にも遮られることなくベッドの中に沈んでいく。微かに開いたカーテンの先に浮かんだ月が青白い光で二人の男女を包み込んだ。窓の外に広がるビル群は明日もきっと、同じように夜を照らすつもりなのだろう。冬の夜景はまるで、クリスマスのイルミネーションのようだ。
 
 
 世界は、知らない。今日まで呪いと隣り合わせにヒトが生きてきたことを。世界は知らない。呪いを祓うために、命を落とした人がいること。そして、世界は知らない。明日、セカイの命運を託された人物が今、私の隣に居ることを。そんな彼に惜しみない敬意と祝福と平穏が、すこしでも、訪れていたのであれば、それはきっと、私が今日この瞬間まで生き残った理由なのだろう。……死ななくて、よかった。呪霊に襲われた時に彼に助けられてよかった。渋谷での一件で沢山の仲間の犠牲の元に生き残り、もがきながらも彼を待って、良かった。今まで感じてきた後悔も、苦しみも、きっと、この時のためにあったんだ。
 
 



 私が、閑夜捺でよかった。術師になってよかった。五条くんと出会えて、よかった。気付けばもう、私の中にあった仄暗い感情は全て、祓われていた。五条悟くんという最愛の人によって、呪いは解かれていたのだった。
 
 
 




愛に祓除



prev | next

×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -