「……お待ちしておりました。悟ぼっちゃん」
「うん、ありがと」
 
 
 
 
 カランカラン、と馴染みがあるわけでもないのに不思議な懐かしさを感じるベルが鳴る。木製の扉を押し開いた先には、色素が落ち、真っ白になった髪を丁寧に結い上げた、背丈の小さい老婆が恭しく頭を下げながら立っていた。そんな女性に慣れたように挨拶をした悟くんは一歩横にずれてから私の姿を彼女に映し「彼女が僕の選んだ人だよ」と口角を持ち上げる。その行為に慌てて頭を下げた私に真っ直ぐな視線を向けた老婆は、何度か首を縦に振り「この人が……」と呟くと、きっちりと私の方に体を向き直らせてからもう一度深々と腰を折った。
 
 
 
 
「よくお越し下さいました……私は清と申します。悟ぼっちゃんとは生まれた時から縁合って、節目節目で写真を撮らせて頂いております」
「閑夜……いえ、五条捺です。そうだったんですね」
 
 
 
 
 私の声に何度も首を振って肯定を示した彼女に合点がいった。先ほどドレスの写真を撮ったのが「フォトスタジオ」ならば此処は「写真館」といったところだろうか。曇りのない白と比較すると親しみのあるクリーム色やブラウンが豊富なレトロな雰囲気を感じるこの場所には積み重ねた年季を感じる。雑多に置かれた小道具やカメラの三脚、壁に貼られたモノクロ写真……どれもが歴史の重さを知らしめているようだ。御三家の人達がこの場所を愛用するのも納得がいく。……ひっそりと街の発展から切り離されたような一角。そんな場所にこの写真館は建っていた。
 

 
 清さんは一度部屋の奥へと戻ると、暫くしてから大きな箱を持ちながら私達の元へと帰ってくる。彼女の体格と比べると大きすぎるくらいだったが、清さんの足取りは堂々としており少しの揺らぎも感じられない。舌を巻いてしまった私に隣に立つ悟くんは満足そうだった。清さんが高級感が溢れる箱の蓋をそっと引き上げると着物特有の香りが鼻腔を擽る。そして、そこに現れた美しい白≠ノ思わず息を呑み込んだ。
 
 
 
 

「数年掛かりで仕上げられた最高級の手刺繍で作られた白無垢≠ナございます」
「……いいね」
 
 
 
 
 

 ───白無垢。聞いたことや知識は勿論あったが、実際に目の前で見るのはこれが初めてだった。友人の結婚式に参列したこともあるけれど、大抵がウェディングドレスで……だけど、今その理由がよく理解出来た。あまりにも荘厳な空気感。白の中に確かに見える丁寧で細やかな和花の刺繍。ただ白いだけではなく、そこに陰陽や濃淡を乗せる役割を果たしているのが伝わってくる。着る人を飲み込むような、凛とした強さ。気軽に纏えるような代物ではない。……これが、白無垢。
 
 
 
 
「……もしかして、」
「どっちも捨て難くってさぁ……なら、両方着ればいいかなって」
 
 
 
 

 まさか、と。見上げた私に彼は飾らない笑顔を浮かべる。確かに和装と洋装の二つを経験する夫婦が居ると聞いたことはあった。……それに自分が該当し、こんなにも高級そうな白無垢に袖を通すことになるなんて、考えもしなかったが。清さんに腕を引かれ、奥まで連れられる私をヒラヒラと見送った悟くんの満たされた表情が頭から離れない。一本取られたと言うべきか、彼らしいと言うべきか。大きな全身鏡の前に引き摺り出された私は、どうにも硬く、緊張した面持ちをしていた。
 
 
 
 
 
「感想は?」
「……凄く背筋が伸びてるって感じかな」
 
 
 
 
 
 ジ、ジ、ジ、と鈍い駆動音と共に資料館でしか見たことのないような大きなストロボが爆破を起こすみたいに焚かれていく。目が眩むような強烈な光とチャージの音が木霊して、時を刻む音だけが静かに響いていた写真館に新しい声≠ェ増えた。こんな風に撮られ慣れていない私は、清さんの大掛かりなセッティングを見ているだけでも緊張して、今も頬が引き攣っている自覚がある。それに比べて悟くんは自然な笑みを口角に携えて、時折私に視線を向けては面白そうに喉を鳴らしていた。以前母の元へ挨拶に行った時と同じ五条家の家紋があしらわれた黒い羽織に今の私の格好は、スーツで並んだ時よりは幾分か格のようなものが滲んだ気がする。……あくまで気がするだけで私自身には格も何も存在しないのだが。
 
 
 
 
「似合うと思ってたけど……改めて見てもやっぱ似合うね」
「ほんと?それこそ着られてる°Cがしてるんだけど……」
 
 
 
 
 
 あくまで視線を合わせずにレンズを見つめながら悟くんと会話を続けた。彼は沖縄で浴衣着てた時も似合ってたし、と語りながら懐かしそうに目を細めている。もう、あの任務の日が遠い昔のように感じられた。彼が「好きだ」と確かに言葉にした日。私が彼の好意に甘えた日。それが今ではこんな形になるなんて、想像していなかった。……それこそ、学生時代まで遡れば尚更想像なんて出来っこない。
 

 ずっとずっと雲の上の人だと思っていた。たまたま同じ年代に生まれて、同じ年に入学しただけの同級生。運命とか、必然とか、そんな綺麗な言葉で着飾られるような関係では無かった。……ただ、私が一方的にその鮮烈さに憧れた、それだけだと思っていたのだ。そんな彼が今私の隣に立ち、私にとって唯一になった。彼にとっての、唯一にしてもらった。
 
 
 
 
 
「硝子にさ、今日は長丁場になるから休みだって宣言したんだよ」
「なんて言ってきたの?」
「身辺整理をするんだ、ってね」
「身辺整理?」
「そ。だって今日撮った写真が僕の遺影なんかに使われるかもしれないでしょ?」
 
 
 
 
 
 なら身辺整理も終活も大差ないよ。あっけらかんと言ってのけた彼につい視線がカメラから逸れてしまった。悟くんの顔には昼の暖かい日差しのようないきいきとした眩さがある。晴れやかで曇りのない真っ直ぐとした表情にはきっとなんの迷いもないのだろう。……遺影に使われる、というのは妙にリアルな言葉だった。確かにこんな日に撮った綺麗な写真ならば死後飾られてもきっと、恥ずかしくない。それが悟くんと並んで撮った写真ならば尚更そうだ。
 
 
 
 
 
 
「ま、その頃には勘当されて飾る場所すら用意されてないかもしんないけどさ」
「……なら私の家か、高専に飾ってもらおうか」
「……そうだね」
 
 
 
 
 
 眩いフラッシュに包まれながら悟くんは、私の方へとしっかり体ごと向き直る。その間にもシャッターは止まらない。清さんもまた、何も言わなかった。背の高い彼が首を下ろして、私は彼を見上げるようにもたげる。そのまま額が触れ合って、お互いの熱がじんわりと触れ合った場所から伝わってきた。……それからというもの、布を重ねて重さが増すことで更に上品さや格式高さを演出している、そんな常識を打ち破るように悟くんは私のことを軽々と抱き上げた。横抱きにしてその場でぐるりと回ったり、座り込んで正座をして見つめ合ったり、手を繋いだり。常識や当たり前を、古い風習を壊すように私たちはその姿をフィルムに残していく。私も彼も、笑っていた。
 
 
 
 
 
「どうぞ。……良い写真が撮れましたよ」
「ありがとう。清が居て助かったよ」
 
 
 
 
 
 
 全ての撮影が終わり、元の服に着替え直した私たちは揃って清さんに頭を下げて感謝を示した。彼女はいえいえ、と穏やかに笑ってから「私も楽しかったです」と頬に皺を浮かべて、綺麗な笑みを作った。店を出ても尚私たちを見送る清さんは最後にお二人に幸多からんことを≠サんな言葉を贈ってくれた。悟くんもそんな彼女に応えるように長生きしてよ、と手を振る。それからなんとなく、来た時とは違って二人で並んで歩きながら最寄りの駅へと歩を進めた。早く帰る手段なら幾らでも思いついたが、私たちはそれを選ばなかった。
 
 
 
 
 
 
「帰ったら写真見返さないとね。伊地知あたりに一番良いのを使って貰えるよう選ばないと」
「うん、そうだね。一人ずつのも、二人のもどっちも選んでおきたいな」
「それか二人同じところに入れてもらってさ、仲睦まじいショットを堂々と飾るのも悪くないんじゃない?」
 
 
 
 
 
 きっとすれ違う人々は、私たちが終わりの話をこんなにも楽しく語っているなんて気付きもしないだろう。遠くない未来の、遠くない、いつかの話。不思議と私は穏やかな気持ちだった。それは隣に彼が居るからなのか、その時が来てもひとりではないと知っているからか。きっとそのどちらもが影響し合っている。
 
 
 いまにも雪が降り出しそうな冷たい風を彼の手と絡まった指先で受け止めて、改札をくぐり駅のホームまで辿り着く。帰宅ラッシュより早い時間帯のせいか、電車の中は閑散としていて二人で並んで座ることが出来た。長身の彼は電車に乗る時は頭を下げないとぶつかってしまうらしく、立ちっぱなしにならなくて済んだのは良いことだと思う。


車に乗るようになってからめっきりと電車を使う機会が減ったし、高専に居た頃も補助監督の方々に現場まで送ってもらえる事が多かったので、悟くんと電車に揺られるのは本当に久しぶりだった。向かいの窓を見つめて過ぎていく景色を眺めては「新しく商業施設ができている」だとか「畑が見えた」だとか。時折彼とたわいもない会話を続けた。ガタン、ガタンと一定のリズムで続いた心地よい揺らぎに思わず欠伸を零すと、悟くんは笑いながら私の頭を軽く自らに引き寄せる。
 
 
 
 
 
「僕にもたれるなら寝てても良いよ」
「……ちゃんと、起こしてくれる?」
「勿論」
 
 
 
 
 
 なんとなく甘えてしまいたくなって、ゆっくりと瞼を下げていく。彼もまた同じようなことを考えたのか「珍しいね」と遠のく意識の中でそんな声が聞こえた。普段ならしゃんとしようと気を張っている事が多いけど、なんだか今は、今だけは悟くんに身を預けたいと思ったのだ。……いつの間にか車両広告には赤と緑がふんだんと使われている。冬特有の晴れ間の少ない曇り空と外気温の低下。テレビに流れるチキンを取り扱うチェーン店のコマーシャル。どこに居ても至る所から流れてくる鈴の音やベルの音。徐々に増えていく駅前の大きなツリーやイルミネーション。……子どもたちの心が踊るクリスマスは、もうそこまで迫っていた。
 

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