「う、ぅ、」
「ほら、力抜いて。楽にやればすぐ終わるから……ね?」
 


 
 
 
 私の隣に腰掛けながらテーブルに肘を付き、ニヤニヤと頬を緩める五条くんに「だってぇ……」と情けない声を返した。……雨が上がり、よく晴れた冬の朝。ひんやりとした空気に揺られながら私は一枚の紙切れに心乱されていた。

 
 誰だって、大事な書類にサインをするときは緊張するものだと思う。学生時代の受験届けだとか、履歴書だとか……それが人生を大きく変えるようなものなら尚更そうだ。左上に婚姻届≠ニ記載されているものなら、きっと誰だって尚更。彼が京都で貰ってきたらしい、春を思わせる桜を基調としたデザインの可愛らしい届出用紙。気合いを入れるためにも書きやすくて仕事で一番愛用しているボールペンを持っては来たものの、どうしようもなく震える指先が中々抑えられそうにない。まるで生まれたての子鹿の四肢みたいで、五条くんは先ほどからずっと笑いを堪えるのに必死だ。というか、殆どもう笑っている。
 
 

 
「……む、無理……こんなの私、書き損じせずに終われる自信ないよ……」
「僕これ一枚だけしか貰ってきてないけど……予備もあった方が良かったかな?」
「五条くん。これから先大切な書類を書く時は何枚か予備を貰うって覚えておいてね……」
 
 
 
 
 肝に銘じておくよ、と言いながらも悪びれる様子がない五条くんをほんのちょっとだけ恨めしく思いつつ、深呼吸をして改めて気持ちを落ち着かせようと努力した。きっと、これから先、この書類と同じ名前の紙にサインをする機会はないだろう。一生に一度の、それこそ初めての体験。だからしっかりしないと。普段よりずっと丁寧に書かないと。そう考えながら私はそっと紙面にインクを……あぁダメだ!そう思えば思うほどやっぱり緊張感してきた!
 
 もだもだと一画目を書くか書かないかの時点で四苦八苦する私の姿を相変わらず彼は楽しげに眺めていたが流石に見ていられなくなったらしい「しょうがないなぁ」と喉を鳴らしながら、五条くんが私の手からするりとボールペンを奪い去った。
 
 
 
 
「あ、」
「そんなに身構えなくていいのに」
 
 
 
 
 五条くんは背筋を伸ばし、軽く肩を回してからボールペンの先端を夫になる人≠ニ表記された枠組みに押し当て、サラサラとペンを走らせていく。余計な力が掛かっていないせいか、彼の手はしなやかに紙の上を行き来して、滑るように動く先端が耳馴染みの良い音を奏でていた。……五条悟。昔からとても綺麗な字面だと思っていたけれど、しゃんとした美しい字で描かれた彼自身の名前は育ちの良さが溢れており、いつもよりずっと力強く、生き生きとしている。所々枠組みから外れてはいるが、それが寧ろ五条くんらしさを示しているようだった。
 
 

 
 
「───はい、終わり。つぎ捺の番ね?」
「……五条くん字、綺麗だね……」
 

 
 
 
 キョトン、と瞬きをした五条くんは私の顔をマジマジと見つめると「逆にプレッシャーかけちゃった?」と口角を持ち上げた。そんなことないよ、と言ってあげたい気持ちはあったが余裕が無い今の私には無理な相談で、結局は呆気なく回ってきた自分の番に全身全霊を注ぐのであった。
 
 

 
 
「……で、出来た……」
「お疲れさま」
 
 
 
 
 
 ぐったり。そんな言葉がピッタリと当てはまるような気の抜け方をしている自覚がある。机に上半身を伏せた私の頭を撫でるように五条くんの大きな掌が優しく動いたのがわかる。チラリと彼に視線を向けると、五条くんは大きな瞳を柔らかく細めて、見守るような慈しむような顔で余白が大分と埋められた婚姻届を見つめていた。……五条くん。すごく、幸せそうだなぁ。
 
 

 
 
「閑夜捺って、いい名前だね」
「……ありがとう」
「ま、五条捺も最高の名前だけどさ」
 
 

 
 
 得意そうにそう言う彼に私も思わず頬を緩めた。慣れ親しんだ……というか、生まれた時からそうであったモノから離れるのはなんだが不思議な気がしたけれど、その相手が五条くんならば不安はない。体を持ち上げて私も、彼と一緒にあとひと枠だけ空欄が残された婚姻届を見つめた。――よし、と五条くんは勢いよくその場から立ち上がる。
 
 
 


「……それじゃあ、行こっか」
「ど、何処に?」
「僕たちの証人≠ノなってくれる人に会いに行くんだよ」
 

 
 
 
 差し出された手を見つめて、それから、ぎゅ、と強く握った。突拍子のない行動で何の説明もされていないけれど、私には五条くんの手を取らないという選択肢はなかった。私を何処にでも連れて行ってくれる、何処にでも導いてくれる。それが、彼なのだ。五条くんは重ねられた手掌をしっかりと包み込むように握ると高専の中を早足で駆けていく。窓から覗いた青天に屋根から雨垂れした昨日の雫がキラキラと宝石みたいに輝いて見えた。同時に自身の左手を見て、それが夢ではないと確信する。……そして、辿り着いた医務室の扉の前で一人目の証人が誰なのか否が応でも悟った私は、ここを開けた先で煙草を吸っているであろう彼女の姿を思い浮かべて心の中で事前に「ご迷惑をお掛けします」と謝罪の言葉を口にしたのだった。
 
 
 
 
 
    
『そりゃ確かに昔立会人になってやるとは言ったけどさぁ……まさか本気にするとは思ってなかったよ』
『僕に嘘なんて吐こうと思わない方がイイ、っていう教訓だね。……ありがとう、バッチリだよ』
『……本当にありがとう、硝子』
『……で?もう一人は誰にすんの?』
     

 

 
 
 
 もう決めてあるから。硝子の問いかけに真っ直ぐ答えた彼に首を傾けたのがおよそ一時間前の事だった。五条くんのことだから何か考えがあるのだと分かってはいたが「ちょっと車回して待ってて」という言葉に従い高専で待機していた私の前に現れた彼は、明らかに格式高い黒い羽織の着物を身に纏っていた。五条家の紋が至る所に刻まれており、着物に対して明るくない私でもこれが正装≠ニ呼ばれる類なモノだということが理解できる。普段は楽な服装を好むことが多い五条くんだが、こうしてみると彼が御三家の一人であることを否が応でも強く意識した。
 

 白と黒で纏められた厳かな雰囲気に青い瞳が加わることで彼が尚更神秘的な存在に感じ、あまりの迫力に思わず固まった私に対して「待った?」と軽い調子で彼は助手席へと乗り込む。漠然とした嫌な予感が駆け巡り、行き先は?と尋ねると五条くんは私にとって馴染みのあり過ぎる住所を口にしたのだった。
 

 
 
 
 
「……ほ、本気!?五条くん本当に行くの?」
「本気の本気。それにもう着いちゃったし」
 
 
 
 
 
 何処にでもある住宅街の、何処にでもある一戸建て。閑夜と書かれた表札の前でスーツ姿の女と荘厳な和装に身を包んだ男が立っているのはきっと異様な光景だろう。先程から道行く人々にチラチラと懐疑的な視線を向けられているのが分かった。……そう、彼が指定したのは私の実家≠フ住所だったのだ。五条くんが選んだもう一人の証人は私の、母だった。
 
 
 車内でも何度か考え直そうと伝えはした。それでも五条くんは頑なに首を振らないどころか「普通挨拶には行くだろ」と至極真っ当なことを言われてしまい、何も言えなくなる。母と関係が悪いわけではないがこの仕事に着いてからもう随分、家には帰っていなかった。父のことがあってから母は呪術という存在にあまり良い顔はしていなかったし、半ば説得の末、無理やり入学したようなモノだ。……今更何を話していいのか分からない。私も父のように何度も自分を犠牲にしようとしてきた。そんな自分に、母に合わせる顔がなかった。……やっぱり、顔を合わせての挨拶なんてもう、
 
 

 
 
 
「───突然すみません。私、閑夜捺さんとお付き合いさせて頂いております五条悟と申します。お話をしたいことがあるのですが、今お時間を頂いてもよろしいでしょうか?」
「っ、あ!?」
 

 
 
 
 
 無機質なインターホンと共に紡がれる落ち着いた声色。私が止める間も無く機会越しの対話が成立し、画面越しに此方を見ているであろう母の困惑が伝わってきた。慌てて身を乗り出した私が「お母さん、急にごめんね」と声を掛けると『捺?』と暫く聞いていなかった懐かしい音が耳を擽る。……数十秒後、おずおずと開かれた扉の先に立っていた母親の目には、九十度近く深々と頭を下げる長身の彼と、曖昧に手を振る私は、いったいどんな風に映ったのだろうか。
 
 
 
 

 
「……ここまでが、私と捺さんの現状です」
「……では捺は、貴方と……五条さんと心中するつもりだと?」
 
 
 
 
 
 ───はい。そう言って私の隣で凛と正座をする彼の瞳は何処までも澄み渡っている。五条くんは私の母にこの数日間に起きた出来事、プロポーズをしたこと、そして、私たちが結んだ縛りについて包み隠さず赤裸々に語った。結婚に関する挨拶だけだと考えていた私は驚いたが、母が続きを促したことで黙って隣で彼の言葉を耳に入れることしか出来なかった。

 
 ……五条くんがこんな風に改まって座るのを見るのは初めて、かもしれない。元々背丈が大きい彼は正座をするだけでもフォルムが美しく、自然と見惚れてしまった。……高専を卒業したあの日、最後に母と会った時。私は母に高専での日々を話したことがあった。その中には三人の同級生の名前もあって、勿論、今目の前にいる五条くんのことも「恩人」だと伝えた。彼女がそれを覚えているかどうかは分からないけれど……その恩人と命を賭した契約を交わした娘を、どう思うのだろうか。愛した男性が呪いに喰われた母は、何を考えるのだろうか。私には想像が付かなかった。
 
 
 
 
 
 
「……五条さん。一つ聞いてもいいですか?」
「はい。私が答えられることなら、すべて答えます」
「貴方は娘の……捺の、どんな所を好きになりましたか?」
 
 
 
 
 
 
 え?と先に声が出たのは私だった。考えもしなかった質問に「ちょっとお母さん、」と制したが、母の顔は真剣そのものだった。子を守る防衛本能を宿らせる視線は鋭く、不審や疑惑が混沌と渦巻いている。……当然の、反応だった。善意だけでは生きていけなかった父の最期を思い出しているのか、彼女は強く机の上で手を握っている。
 

 ここまで毅然と話を続けてきた五条くんの口が、ふと、動きを止めた。母に向けていた視線を一度目の前に置かれたお茶に落として「そう、ですね」と思い惑うように口籠る。端正な顔立ちに刻まれた眉間の皺が彼の苦悩を素直に表しており、居心地の悪い静寂が辺りを包み込んだ。───思えば、確かにそうだ。私は彼の好きを初めこそ信じられなくて、でも次第にそれが本気だと分かって向き合おうとしてきた。答えを見つけようと足掻いた。その日々の中で五条悟という人間の本質に触れ、彼の優しさを感じ、彼と共に生きたいと思った。……では、五条くんは?私のどんなところに惹かれ、どんなところを好きになったのだろうか。疑う余地が無くなり考えたことも無かったが、少しだけ興味があった。
 ……続いた沈黙。母が何か言おうとしたその時、五条くんは膝に付いていた手をそっと、自分の口元に添えた。
 
 
 

 
 
「……す、みません、少し考えてもいいですか。沢山ありすぎて、その、纏まらなくて、」
 
 
 
 
 
 
 少し俯きがちに、発せられたきまり悪そうな声。体を動かすこともせずピンと伸ばされていた背筋がほんの少しだけ丸くなり、萎縮するようなその仕草は漂っていた空気を一変させる。自身の口調がしどろもどろになった事に気付いた彼はすみません、と謝罪の言葉を重ねて視線を逸らす。

 
 ……そして、彼の白い肌と髪によく映える、首から耳元に掛けてぼんやりと滲むように差した紅色に気付いた瞬間、私の顔が突如沸騰したかのように熱くなったのが分かった。こんなにも恥ずかしそうな、困り果てた彼は見たことがない。しかもその理由が、私のことなんて。みるみるうちに紅潮し、恥ずかしい気持ちでいっぱいになる。いつのまにか私も彼と同じように、寧ろ彼以上に深く俯いていた。……どのぐらい時間が経ったのか?隣に座る五条くんが意を決したように顔を上げるのが分かった。軽く息を整えて、彼は噛み締めるようにゆっくりと口を開く。
 
 
 

 
 
「……捺さんは……捺は、僕が僕であることを許してくれた人です」
 
 
 

 
 
 その言葉を皮切りに、彼は大きく目を開けて母に向き直った。先ほどまでの羞恥を何処へやったのか、五条くんには迷いを感じさせない覇気がある。彼は、本気だった。それが母にも伝わったらしい。つられるように彼女も背筋を伸ばして一度頷いた。
 
 
 
 

 
「僕を世間の評価ではなく、一人の人間として受け入れ、愛を与えてくれました。一人の人間として、向き合おうとしてくれました」
 
「真面目な人柄も、それ故に苦難を背負ってしまうところも……どれも愛おしいと思いますが、僕は彼女の優しさと、確かな強さに惹かれました」
 
「……心から、愛しています。だから俺は、全てを捧げました」
 
 


 
 
 五条さん、と母が少し圧倒されたように彼の名前を呼んだ。五条くんは首を一度縦に振り「……改めて突然のご挨拶となり、事前の連絡も手土産も無い無礼をお許し下さい」と自信の至らなさを詫びる。そして彼は言った
 
 
 
 

 
「……捺さんのお母様。まだ至らない所も多々あるかと思いますが、私は命が尽きるまで彼女を護り、生きていこうと考えています。……どうか、私たちの結婚をお許し頂けませんか」
 
 
 
 
 
 

 ───宜しくお願いします。床に手を付いて、五条くんは頭を下げた。私もそれに倣うように深く頭を下げる。お願いします、とそれ以上の言葉は、伝えなかった。秒針の音だけが妙に大きく聞こえて、母が大きく息を吐き出したのが分かった。捺、と名前が呼ばれて伺うように顔を持ち上げる。そこに浮かんでいたのは、呆れたような、根負けしたような笑顔だった。
 
 

 
 
「あなた、素敵な人を見つけたんだね」
「……うん。私、お母さんにとってのお父さんみたいな……凄く素敵な人に助けられたの」
 
 
 

 
 そっか。と微笑む母は穏やかだった。彼女は机の側から立ち上がり、頭を下げ続ける彼の前に膝をつくと「……五条さん、もう顔を上げてください」と落ち着いた声で話しかけた。五条くんはそっと体を持ち上げて、白い睫毛を羽ばたかせながら母を見つめた。
 
 
 


 
「……娘がこんなにも綺麗な男の人を連れてきたものだから、びっくりしちゃったの」
「……いえ、そんな」
「結婚詐欺とか、そういうのだったらどうしよう……って不安だったんだけど、五条さんの目を見てたらすぐに本気だって分かった。だから……」
 
 


 
 ……此方こそ、娘を宜しくお願いします。カーテンの隙間から夕日が差し込んで、私達を照らし出す。惚けたように固まっていた五条くんは、その言葉の意味を理解するとギュ、と唇を噛み締めて「ありがとう、ございます……!」ともう一度、何よりも深く頭を下げた。お母さんはこんなイケメンに頭を下げさせるとバチが当たりそうだわ、と笑いながら印鑑取ってくるわね、とリビングを軽やかな足取りで駆けていく。それを見送った私は思わず五条くんにぎゅっと、脇目も振らずに抱きついてしまった。
 
 
 
 
 
「っ、捺、」
「……五条くん。わたし、奥さんとしては多分まだまだで、何もできないかもしれないけど、でも……」
「……」
「ごじょうくんのこと、誰よりも大好きだって……一番そばで支えて、ずっと生きていきたい」
 
 
 
 
 
 五条くんの愛情に、私が返せるものはきっと、同じくらいの愛情でしかないんだと思う。不思議なもので、私たちは死の瞬間を分かち合うことを決めたのに、言葉にして出てくるのは次の展望や、未来のため、生きていきたいという真っ直ぐな希望でしかない。……確かに私たちは縛りを結んだ。それはでも、死に向かうためのケジメではない。きっと、二人で生きていくための約束だった。最後がいつ訪れるのか、いつこの約束が完遂されるのか、誰にも分からない。分からないからこそ今を精一杯生きたい。私は、そう思った。
 
 
 

 二人して抱きしめ合い、お互いの熱を感じ取る。そんな私たちの触れ合いは「……仲良いわねぇ」としみじみ呟いた母の一言で終わりを告げ、慌てた五条くんが身なりを直そうとしたのを笑いながら止めた彼女は、もっと普通に二人の話聞かせてよ、と楽しげに微笑んでいた。
 
 
 

 
 
 
 

自分が自分であることを



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