「おつかれ、捺」
「おつかれさま、五条くん」
 
 
 

 
 時刻は二十三時を少し超えた頃。煌びやかに飾り付けられた教室で二人、私と彼は改めてお互いを労い合っていた。結局五条くんの誕生日パーティは遅くまで続いて、硝子が「そろそろ電気消すよ」とまるで修学旅行の先生のような言葉で打ち切ったことで何とか終幕を迎えた。硝子自身が規則≠守るようなタイプではないと知っている私は、仕方なくその役割を引き受けてくれた彼女の面倒な事この上ないと言わんばかりの顔に思わず少し笑ってしまった。子供達を寝かしつける側に回る彼女はもう、立派な大人と呼んでいいのかもしれない。五条くんも似たようなことを思っていたのか「最後の硝子はウケたね」と今でも可笑しそうに口角を緩めていた。
 
 
 

 
「今日は楽しかった?」
「楽しかったよ。あんな風に祝われるのなんてホント何年振り?って感じだし」
 
 

 
 
ケーキも美味しかった。そう言いながら教室の中をぐるりと見渡して丁寧な飾り付けや黒板に書かれた文字に目を向ける五条くんは優しい顔をしている。子供の成長は早いねぇ、と述べる彼には教師としての惜しみない愛情が感じられた。五条くんにこの仕事は天職だったのかもしれない。……もし、そうでなかったとしても、誰かを導く立場に酷く縁があったに違いない、そう思ってしまうのは自然なことだろう。
 
 
 


「ケーキは捺が選んでくれたんだって?」
「うん。いちご、好きだった?」
「甘いものなら大歓迎!捺が選んだなら尚更歓迎」
 
 
 
 
 
 窓枠に背中を預けながら声を弾ませる彼に良かった、と息を吐く。それは単純にケーキのことだけではなく、この企画全てが上手く行ったことに対しての安堵に近いものだ。五条くんが喜んでくれない訳はない、とは思っていたけれど、毎日準備のため日本中を飛び回る彼が疲れているのは知っていたし、そんな状況でも楽しさを受け止めてくれるのか、と少し不安だったが……杞憂に終わったみたいだ。今の彼は一段と気が抜けて、複雑に思考するよりも先に自身の誕生日をめでたい日だと感じている。それはすごく、いいことだと思った。
 
 
 

 
「捺の書いたメッセージは、アレでしょ?」
「……すごい。どうして分かるの?」
「そりゃ、僕の呪力を感じるからね」
 
 
 
 
 
 スパン、と言い切られたストレートな根拠に「……あ、」と思わず寝言のような呟きを溢す。そういえばさっき硝子にも五条くんの呪力が出ているのだと指摘されてしまったけれど、それが本当ならば私が触れたチョークから書かれた文字、ならば呪力が篭っていても不思議ではない。口を開けて馬鹿みたいな反応をした私を見た彼は数秒後、ふっ、と面白そうに息を吐き出す。そこに浮かんだ笑顔は先程までとは違う、いたずらが成功した子供みたいな顔だ。……騙された。そう気付いたのは私あからさまに正解≠表す反応をした後だった。
 
 
 
 


「……ずるい」
「や、ゴメン。つい言いたくなってさぁ……でも、あれが捺のだってすぐ分かったのは本当だよ」
 
 
 


 
 そう言いながら『生まれて来てくれてありがとう』と書かれたメッセージに私自身も目を向ける。……悩んだ末出てきた彼に向けたい言葉はこれしか無かった。そう言うと大袈裟だけど、この言葉が一番相応しいと思ったんだ。今日この日を迎えられたことも祝われるべきだけど、二十九年前、彼がこの世に生を受けたこと自体が凄く尊くて、素晴らしいことだと思う。私が今ここに居るのは間違いなく彼のおかげだ。だからこそ、五条くんが今こうして隣にいることが全部、奇跡のように感じられた。
 
 
 
 

「僕にあんな壮大なメッセージが書けるのは捺くらいだしね」
「……そう?」
「そうだよ。……だから、ありがとう」
 
 

 
 
 
 飾り気のない感謝の言葉共に、五条くんの掌が私の手の甲に重なる。触れた指先から体温が伝わり、誠意と感情が真っ直ぐと伝わってきて、心の奥に柔らかな光が灯ったような気がした。五条くんの言葉には魔法が宿っている。貴方の感謝の言葉を聞くと、胸の奥が詰まっていっぱいになってしまう。その度に私は「好きだなぁ」なんて、彼を思う気持ちが強くなって行くのだ。
 
 
 五条くんの大きな手に潜り込ませるみたいに指の間へと私の指を絡める。その意図を汲み取った彼もまた、素直に侵入を受け入れてしっかりと力を入れて握り込んだ。どれだけ寒い冬が来てもこの瞬間に生じた熱はきっと、冷めることはないんだろうなと漠然とそんなことを考えてしまった。夢物語のようだけど、隣に五条くんがいれば、それは夢で終わらずに、真実になるような気がしてならない。私にとって五条くんはそういった$lなのだ。
 
 
 

 

「僕がさ、」
「……ん?」
「僕が捺のことを好きになったのは十七の時なんだよ?それが今は二十九って……信じられる?」
 
 


 
 
 しかもそれが実ったのは二十八の時ね。なんて、まるで百年の溜飲が下りたかのような軽やかな口ぶりで五条くんは笑う。単純に計算すれば十年以上。それだけの間彼は、ひとりを想っていた。現代最強の呪術師五条悟が。……そんな事実を知っている人がこの呪術界に一体何人居るのだろう。そして、そんな彼を待たせ続けた女がいることを、いったい誰が知っているのだろう。拭いきれない申し訳なさを抱えながら五条くんの顔を見上げたが、彼は寧ろどこか清々しさすら感じさせる表情をしていた。
 
 
 


「正直無理だと思ったよ。でもこうやってまた君に会えて、過ごす時間が増えて……意外と人生って捨てたもんじゃないね」
「……そう、だね」
「本当はさ。捺のはじめて¢鴻iメしたいくらいの気持ちなんだけど、」
 
 
 
 


 そこの所ちゃんと分かってる?戯けたような口調だったが五条くんが決して冗談のつもりでその言葉を使っているとは思えなかった。五条くんがこの歳になり、同級生の私も自ずとそうなる。今まで人並みの恋愛をした経験もあるし、アニメや漫画の世界みたいに彼が初めての相手というわけではなかった。それはきっと、五条くんも同じだ。私のそんな気持ちを悟るように彼は続ける。
 
 

 

 
「僕の初めては全部ウチの身内ばっかりだよ。キスしたのも、セックスも、精通も……恋の真似事も、全部ね」
「それは……五条くんの力のせい?」
「だろうね。まぁ上からしたらそりゃそうだ、こんな力を持った子供がそこら中に生まれちゃ優位性≠焜Nソもない」
 
 


 
 
 静かに語りながら五条くんは雲に覆われて闇に包まれた窓の外を見つめていた。きゅ、と音を立てて白く曇った表面に指先を滑らせ、水滴が少しずつ滴り落ちる。まばらな雨の音だけがあたりに響いていた。ふ、と話を途中で終わらせた彼は「捺の初めては?」と興味ありげな瞳で問いかける。好奇心が先立つようなその顔は、やや複雑そうに眉尻が下がっていてすこし申し訳ない気持ちになった。……別に私の家は五条くんのような由緒正しい名家ではない。昔の自分であればきっと烏滸がましい事だと彼と繋がることを拒んでいた。それだけ呪術界で御三家という存在は凄まじい存在感を示していた。でも、今の私は違う。五条家ではなく、五条悟くんと過ごした私だからこそ、彼の言葉を彼自身を信じたいと思ったのだ。
 
 
 

 
「私は……好きな人と付き合ったのは中学三年生の時だったかな」
「意外とマセてるね」
「そうかも。……でもその時は付き合っても何をしていいか分からなくて……向こうは普通の人だったから高専に入ってすぐ別れちゃって、」
 
 
 
 


 男の人に。それも、五条くんに自分の恋愛遍歴を語るのは不思議な気持ちがした。高専で学生として過ごす間は恋愛をする余裕なんてなくて、徐々に何も知らない人と感覚が剥離して行くのを自覚するのが常だった。だから初めて好きになった男の子とはすぐに縁が切れてしまったし、それに特別悲しい気持ちにもならなかった。
 
 次に恋愛と呼べる恋愛をしたのは二十歳を過ぎてからだった。呪術師を辞めて補助監督として過ごし始めた必死な時期を沢山支えてもらった年上の男性だった。その人には彼の言うはじめて≠沢山渡したし、私も彼のことが好きだった。……好きという言葉では美しすぎるような、依存にも近い感覚だったかもしれない。その関係を精算しようと言ってくれた彼は優しい人だった。
 
 
 
 
「……別れてすぐ、亡くなっちゃったんだけどね」
「……そっか」
 
 
 
 
 呆気ないものだと思った。体の一つも残らない、特に残酷な終わりだった。でもそれはこの世界で生きる上で普遍的な出来事で、それを機に恋愛への興味が薄れてしまったような気がする。その後で京都にいる間にできた後輩に告白されて付き合ったこともあったが、二ヶ月程度で私の東京への転勤が決まり、私から別れを切り出した。悪いことをしてしまったと思う。だけど、遠距離恋愛をしながらこの仕事を全うできるほど、私は器用ではなかった。
 
 


 
 
「じゃあ僕も捺もお互いのハジメテなんて、貰ってない訳だ」
「……そう、だね」
 
 


 
 
 ハジメテに拘りがある訳じゃない。私も彼も来年には三十歳になる。ある程度のことなんて人生で経験し切ってしまっていてもおかしくはない。……こんな縛りを結んだのは勿論初めてだけど、恋人として未経験な事なんて無いに等しいんじゃないだろうか。それが少しだけ寂しいような、そんな気がした。きっとこれは贅沢な願いだ。


 
 視線が落ち込んだ私を五条くんは見つめる。少し意外そうな顔つきは直ぐに掻き消え、真剣な面持ちを作った彼は空色の瞳をじっ、と此方に向けた。
 
 

 

 
 
「じゃあさ、名前にバツが付いた経験は?」
「それって……除籍、というかバツイチ……みたいなそういうこと?」
「そう、そういうの。……ちなみに僕は無い」
「私もない、けど」
 
 


 
 
 
 ───ならお揃いだ。会話を終えた五条くんが満悦を乗せた笑みを浮かべる。ただでさえ綺麗な瞳を更に輝かせた彼はそっと繋がっていた指を優しく解くと、懐に腕を差し入れ、小さな箱のようなものを取り出した。彼の動作ひとつひとつを目で追いかけ、自然と胸が詰まり始める。彼の太い指が箱の淵に引っかかって一度滑り落ち、もう一度、ぐい、と力を入れて上に開かれた蓋の中に佇んでいたのは指輪だった。
 

 
 シンプルな形状で、センスの良いデザイン。中央に鎮座する青白い宝石は彼の瞳そっくりだった。ひんやりと物静かなのに、空の星がどの季節よりも美しく見える冬の夜を思わせる美しい、指輪だった。考えたこともない、体験したことのない出来事に身体全てが固まる。思わず頭を上げるとすぐそこに五条くんのひどく整った綺麗な顔があった。ただただ真剣で、何処かほんのりと緊張を孕んだ表情の彼はそれでも口角を持ち上げる。カッコ付けたい、そんな意思を感じる顔で五条くんは普通≠ネんかと程遠い言葉を発した。
 

 
 
 
 
 
「───俺のはじめて、あげる」
 
 
 
 

 
 
 幼いころ、女の子は一度くらい結婚に憧れを抱くものだと思う。私も例外ではなくて、お姫様なんて呼ばれるような出来た人間ではないのに白馬の王子様が迎えに来てくれないかと空を見上げたことがあった。……今、まさに、私の目の前に王子様≠ェ立っている。本気で、そう思った。夢見たプロポーズの言葉とは程遠い、一般的や普遍的では押さえ込めない告白。彼らしい、告白。全てを理解した瞬間、私の目の前が霞み始めた。真っ白の彼がぼやけて、眩んで、奥底から溢れ出す感情と共に表面張力を超えた涙が頬を伝う。鼻の奥と額がジンジンと痛んで、瞬きをするほどに溢れて止まらなくなった。それでも、言わなければならない。わたしの、そんな一言でさえつかえるほど喉が震えた。それでもいま、どうしても伝えたい想いがたしかに、あった。
 
 
 

 
 
「わたしのも、あげる……!」
 
 
 

 
 
 必死の言葉が彼の耳に届いたと同時に私の体は五条くんの胸の中へと引き寄せられる。捺、愛してる。結婚しよう。追撃みたいに吐き出された言葉に今度こそ耐えきれずしゃくりあげてしまった私は、ばく、ばく、と徒競走の後みたいに早鐘を打つ心臓が彼のものだと気付き、もっと堪らない気持ちになった。なんて愛おしくて、切ない響きなのだろう。不意に、私たちの側にあった窓から静かに雪が地面へと舞い降りていくのが見えた。私と五条くんは自然と外に目を向けて、幻想的な光景を暫く二人で眺めた。
 
 
 
 
 
「……これ、嵌めてもいい?」
「はめて、欲しい。五条くんに、付けてもらいたい……」
「……ソレは可愛いこと言い過ぎ」
 
 

 
 
 
 俗っぽい言葉遣いをしながらも五条くんは私の左手を支えると、そっと薬指に滑り込ませるようにシルバーを通していく。緩すぎず、キツすぎず。私の手の上でバランスよく輝くブルーダイヤモンドに息を呑んだ。……完璧だね。とその出来栄えには五条くんも満足そうに笑い、少しだけ肩の力を抜いていた。
 
 
 
 

 
「捺のハジメテ、貰っちゃった」
「だって、こんなの……ずるいよ……」
「好きな子の前だよ?俺はどんなズルをしてでも欲しかったんだよ」
 

 
 
 
 
 それに今日誕生日だし。そんな免罪符をくっ付けて五条くんは得意そうに目を細めると「結婚記念に俺の苗字、貰ってくれるよね?」と分かり切った問いかけをした。……やっぱり五条くんはずるい。今日は彼の誕生日なのに、私が貰ってばかりなんて。私にはもう、頷く以外の選択なくて用意されていないのに。五条くんはもう一度、今度は宝物を優しく抱くように私の背に腕を回す。身体中に優しく、柔らかに染み渡るこの温もりを幸せ以外、なんと呼べば良いのだろうか。今日この日までの不安や焦燥がどこかに行って、新しい世界に生まれ落ちたような気分だった。讃美歌のように降り注ぐ雪景色に、私たちの存在は隠される。星も月も見えない暗い夜だと言うのに、それが尚更私と五条くんが二人だけになってしまったような錯覚を生む。
 
 
 
 
 
「ちゃんと婚姻届も貰ってきたんだよ?疑われた時本気だって示そうと思ってさぁ、」
「……わたし、五条くんのこと疑ったりなんてしないよ」
「……知ってる。今のは半分冗談で、半分は返事貰ってすぐ書こうと思っただけ」
 
 
 
 
 
 ぐり、と押し当てられた頭が私の肩口をくすぐる。少しだけくぐもった声で「……手が早くて幻滅した?」と五条くんが呟いた。うーん、と思案した後に導き出された答えは相手が五条くんじゃなかったらびっくりした≠ニ飾り気ない素直な言葉で、五条くんは顔を埋めたまま可笑しそうに喉を鳴らした。長い間僕に慣れさせて良かったのかもね。そんな皮肉とも取れるような口ぶりに私にもなんだか笑いが込み上げる。
 
 
 
 

 
「……ごじょうくん、」
「ん?」
「だいすきだよ」
「…………なんだよ、それ」
 
 
 
 
 
 
 よく人にズルいなんて言えたな、吐き捨てるみたいな文句と同時に顔を上げた五条は少し照れくさそうに目元を染めてからがぶ、と噛み付くようにキスをする。誓いとは程遠い接吻に襲われながらも、私の手には美しい青が曇りなく、確かに輝いていた。
 
 

ふたりのハジメテ



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