自身と比べて小さく、壊れてしまいそうな体をしっかりと抱きしめて宙を舞う。眼下に見えた記憶と剥離した東京の姿に少しだけ眉を顰めた。……勿論ある程度被害状況の想像はしていたが、それ以上。日本の首都がめでたく壊滅という訳か。俺が居なくなった後に起こったであろう出来事を考えるほどに行き場のない歯痒さが背中を駆け巡る。そして、こんな世界に絶望せず……否、絶望しながら≠焉A彼女が生きていたことに深く息を吐き出した。月並みな言葉だが、安心したのだ。きっと自分を信じて待っていてくれた彼女に、捺に、心から感謝して、そして、謝りたいと思った。
 


 
 
「……ここは、」
「僕ん家の……幾つか下≠フフロアだね」
 
 



 
 皆の元から連れ出した彼女と共に先端が折れたマンションの上に降り立った。捺の手を引きながら瓦礫を避けて剥き出しの階段を下り、たどり着いたのは自身の家だった筈の場所よりも数階下の部屋だ。残念ながら僕自慢の部屋は美しいまでに跡形もなく消え去っていたので、今ばかりは人気のないこの場所を拝借することにした。……尤も、付近に際限なく呪霊の気配を感じるこのマンションに未だ残っている人間はいないようだが。


 
 大きな衝撃を受けたせいか、オートロックの扉は縁が歪んでおり、防犯性のかけらもない。ノブを引くと簡単に開いて中の様子が確認できた。一応スイッチを押してみたけれど当然の如く電気系統もやられているらしい。薄暗い廊下に光は灯らなかった。
 

 


「……これ、不法侵入?」
「術師にそんな言葉存在したんだ」
 



 
 僕を見上げて問いかけた彼女にそうやって笑い返せば、捺は少しだけ唇を尖らせて「大体は補助監督が許可を貰ってるのに」と不満そうに嘆いている。いつもありがとね、なんて、労いの言葉を投げかけた僕にだから今は悪いことをしている気分≠セと答えた捺は相変わらず真面目な人間だ。今の東京では治安という言葉や警察は機能していない……いわばゴーストタウンや廃墟と化している。この罪を断罪する奴らすら残されていなかった。
それに、住居侵入罪が正当な理由なく他者の住居に侵入した時に適応されるのであれば、今の俺には静かな場所で彼女と話すため……というこれ以上なく圧倒的に正当すぎるワケが存在するのだからセーフだ、多分。

 

 玄関先には幾つかヒール付きの靴が置かれており、中にはすぐにでも折れそうな細長いピンヒールまで転がっている。シューズクロークの戸棚が開けっぱなしなのを見るに家主は慌てて逃げ出したのだろうか。懸命な判断だ。仄かな甘い香水の香りと、水道に置かれたままのパステルカラーのカップ。ソファに置かれた触り心地の良さそうなクッションや、無骨すぎないインテリアからは女性の部屋だと推測できる。
 


 

「ここ、女の人の部屋だったのかな……」
「……だろうね。なら尚更好都合だ」
 



 
 同じことを考えていた捺の言葉に頷いて、寝室へ続くであろう扉に手を掛ける。落ち着いたダークブラウンの寝具とクイーンサイズの広々としたベッドは二人で話すのには困らない大きさだ。半年前、彼女がウチに泊まって行った日のことが脳裏を過ぎる。伝えたいことや言いたいことが溢れている今、完全に二人きりになれる所を探していた僕にとって、これ以上都合のいいホテル≠ヘない。
 ……高専にはきっとあの場に置いてきてしまった彼らが向かうだろう。厳密には僕の部屋は無くなってしまったので全く同じ場所ではないが、これだけ静かなら十分だ。……幸いにも此処は他の男の部屋ってわけでもない。流石に捺を何処ぞの誰とも分からない男の部屋に案内するのは嫌だ。つーか、あり得ない。
 


 そっと、エスコートするように彼女をベッドの端へと座らせて、自分もその隣に腰掛ける。東京の街を一望できる大きな窓の正面に少しだけ正円から欠けた月が浮かんでいた。差し込む青白い月光が灯りのない部屋を仄かに明るく染め、僕たちの影を壁に映し出す。そして僕は、月に輪郭を浮き立たせる君に向き直った。



柔らかくて艶っぽい髪が底光りするように煌めく。光のヴェールで包み込まれた捺と視線が交わり、彼女もまた僕を見ていたのだと気付いた。こうして横並びになって見つめ合ったのは高専を二人で回り非常階段から空を眺めたあの日以来か、それとも狭苦しい車内で約束≠オたあの日か。どちらにせよもう、僕と捺の間には中途半端な隙間は存在しない。どちらからという訳でもなく、隣り合った掌が重なりあった。
 
 


 
「……また無茶したの?」
「……ちょっとだけ」
 

 

 
 もう片方の手でそっと照らされた彼女の頬に触れ、そのまま首筋へと指を沿わせる。硝子が治したにも関わらずこうして傷跡が残っているぐらいだ。元はそれなりに大きな怪我だったのだろう。そんな僕の感情が伝わったのか捺は少しだけ苦く笑った。……反応を見るに指摘される心構えはできているようだ。


 
 記憶の中の彼女より少しだけ伸びた毛先。無数にある細かな傷跡。乾燥した手の甲。自身が居なかった期間をありありと感じさせる変化に神経を逆撫でされたような、やるせない苛立ちが内臓に噛み付く。終わったことをウジウジと後悔し続けるタイプではないと自称しているし、今もそれは変わらない。でもそれは全く後悔しない≠フと同義ではなかった。何をしても十九日の不在は埋まらない。それは変わらない事実なのだ。……少しだけ視線を落としてぎゅ、と触れ合った手を握り込む。もう、離したくない。これ以上お前について、知らないことを増やしたくない。
 
 

 

 
「捺……俺は、」
 
 


 
 
   俺の顎あたりを捺の髪が擽るように撫でる感覚と、甘く柔らかな香りで全てが包み込まれる。上から握り込んでいた手の中に細い指が滑り込み、彼女の意思で絡まり合った。二人の触れた唇に気付いたのは、数回まばたきをして自身の睫毛と彼女の睫毛が擦れ合った後で、ヒトの熱が離れていくのと同時に捺の瞼が開かれる。
 

 
 


「…………すき。」
「……!」
「わたし、五条くんが……すき」
 

 

 

 
 感情の波に攫われそうな、かすかに震えた声だった。今にも泣き出しそうな、切実な声だった。それでいて嘘の一つも感じさせない、真っ直ぐな言葉だった。どれだけ金を積んでも手に入らない澄み切った宝石みたいな瞳が潤んで、月の光を反射させる。ゆっくりと頬を伝う雫は音もなく、はらり、と彼女の膝を濡らす。捺は、泣いていた。


 
 喉をつかえさせながらも彼女は言葉を続ける。「遅くなってごめんなさい」「待たせてしまってごめんなさい」そのどれもが抱えきれない後悔や謝罪を孕んだものだったが、俺にとっては最早、どうでもいいことだった。捺の涙は止まらずに、闇の中へとポタポタと消えていく。赤く染まった目尻と蒸気した頬を携えて「苦しませてしまって、」そう動いた唇に俺は噛み付いた。彼女の言葉を呑み込むような、先程よりも長い口付け。言葉だけでは伝えきれない、目に見えない何かを繋げるように。これ以上時間が過ぎていくのを防ぐように……そうやって唇を重ねる。
 


 学生の頃何度か空想していた彼女との触れ合いと、今のシチュエーションは全く異なっている。過去の自分は世界に何が起きるのかなんて考えもしなかった。ましてこんなことになっているなんて、想像出来なかった。味だとか、感触だとか、ガキみたいに盛り上がっていた筈なのに、実際の捺との口付けはあまりに呆気なく、それでいていつまでもそこに閉じ込めておきたくなるような、何物にも代え難い瞬間だった。二十八歳にして俺は初めて、好きな女子とのキスを知った。

 
 
 


 
「おれも、」
「五条、くん……」
「俺も、すき」
 
 



 
 
 捺の口から零れたのは色気染みた吐息というよりは、足りない酸素を取り込むような呼吸だった。それに少しだけ目を細めてから、俺もまた彼女に想いを告げた。彼女に真っ向から「好き」を伝えたのは沖縄での任務以来だろうか。そういえば、あの時の捺も泣いていたな、と思い出して、自分はいつも彼女を泣かせてばかりだと内心苦笑する。……でも気持ちは変わらない。あの頃から、それよりも前からずっと。待つのには慣れていたし、冗談めかして言った「返事ははい≠フ時だけ」という文言も嘘ではない。でも、それが今現実になったと思うと正直、不思議な感覚でもあった。

 
 

 
 
 真っ当な優しい言葉なんて、掛けようとも思わなかった。
 
 出会った当初は堂々と、馬鹿にさえしていた。
 
 彼女の本質を知り、考えを改めた。
 
 命知らずな女を、何があっても生かしたいと思った。
 
 俺の全てを賭けて、護りたいと思った。
 
 
 



 呪術的な観点ではたった十年。俺の人生でいえば、約半分。……十分長い時間だろう。閑夜捺との出会いは俺という人間に多大な影響を与えた。それこそ、言い表せないくらいに。入学した時よりも随分と大人びた、それでも面影を残した捺の顔を見つめる。久しぶりにこんなにもしっかりと顔を見たなとか、キスした後こんな顔するんだなとか、色々なコトが頭の中で巡ったが、ふと、ある一点で思考が、ピタリ、と停止する。やや夢見心地だった脳内が驚くほど急激に熱を冷ましていくのが分かった。友人達は俺を昔散々囃し立てていたし、俺も勿論意識はしてきた。そして今正にその瞬間が訪れた。訪れたのはいい。めちゃくちゃイイ。だが、その次は?
 

 

 
「……」
「……五条くん……?」
「……あのさ、」
「う、うん」
「……告白した後って、どうすんの?」
 

 
 
 

 ……へ? たっぷりの沈黙と共に弾き出されたのは間の抜けた声だった。パチパチと音が聞こえてきそうな瞬きをしてから捺は目一杯言葉を選びつつ「……付き合うかどうか、ってこと?」と問いかけてくる。付き合う、というなんともくすぐったい響きに、自分がどれだけ恥ずかしいことを聞いたのか改めて自覚したが時既に遅し。…………こんなもん、カッコ悪いどころの話じゃねぇ。
 
 

 

「私はその……もうずっと前に告白された時はそもそも付き合ってください≠チて言われたけど、それが普通なのかはよく分からなくて……」
「……オマエ、今それ無理してフォローしてる?」
「してない!してないよ!」
 

 


 
 あからさま過ぎるくらいあからさまにワタワタと両手を振った彼女は明らかに困り果てている。それが尚更恥を上塗りしているようで酷く居心地が悪かった。そう言えば俺に告白してきた女も確かに『好きです、付き合って下さい』とか『一目惚れしました、彼女いますか?』みたいに言葉を続けていたような気がする。俺は今まで捺が自分と同じ感情を持ってくれたり、受け入れてくれることを目標にしていたが、どうやらそれだけでは足りないようだ。その証拠があの≠ィ互いにどうしていいか分からずに降りた沈黙なのだろう。
 


 思わず黙りこくった俺を目の前に、彼女が分かりやすく焦っているのが伝わってくる。暫く視線を天井に彷徨わせてから「じゃあ私が、」なんてナニカを言い掛けた捺の口をあー!!≠ニ叫びながら勢いよく塞いだ。ゴーストタウンになっていなかったらすぐにでも苦情が来ていたに違いない。今だけはこの環境に心から感謝した。絡めていた指が解けたのは不服だが、それよりもこれを彼女に許してしまってはそれこそ男が廃る。
 
 


 
「いや、気持ちは超嬉しいけど! ちょっとは俺の顔も立ててくんない!?」
「で、でも今日は告白したの私だし、普通は私が……」
「あーあー! 聞こえませんー!つーかそれよりも前から俺の方が好きだって言ってんだろ!」
 
 
 



 我ながら馬鹿みたいな言い合いだ。それでも譲れなくてやや前のめりになりながらも彼女の決意を必死で制する。そりゃそうだ。ここまでずっと思い続けてきた相手と付き合えるかどうかの瀬戸際で、向こうに言われるような腑抜けた男になってたまるか! ゴホン。と態とらしく咳払いをして喉の調子を整える。そんな様子を見た捺も少し緊張した面持ちで俺を見つめた。改まるには遅すぎるような気もするが、仕方ない。割り切って仕切り直すのもまあ、悪くはないだろう。そうやって自身に言い聞かせる。
 
 
 
 


「……閑夜捺サン、」
「は、はい!」
「俺と、付き合ってください」
 
 


 
 
 形ばかりの誠意を見せるために、マットレスの上で胡座をかきながら捺に向かってそっと頭を下げた。他人に付き合いを申し込むのは人生初めての経験だったが、やはりどうにもむず痒い。断られる要素は恐らくないに等しいが、それでも少し緊張するのは慣れないことをしているからなのか、それとも相手がキミだからなのか。……多分その両方だ。
 
 


 
「……こちらこそ、」
「……」
「こちらこそ、宜しくお願いします……」
 
 


 
 
 ぺこり、と捺が頭を下げた様子が月光をスポットライトに壁へと投影される。名のある画家が薄めた墨で描いたようなハッキリとしたシルエットが逆に間抜けさを増長させていた。……これもまた、どちらからとも言うわけでなく、頭を上げた俺達は数秒後、ぷっ、と頬を膨らませて破顔する。しっとりとした高級ワインみたいな東京の夜に、チープな笑いが木霊した。無駄に広い名前も知らない誰かの寝室で、ベッドに堂々と背中を預けながら笑い合う。なんて、バカバカしい日なんだろう。
 

 
 ふと、コロコロと楽しげな声を漏らしていた捺の唇が少しずつ歪んで、その目から涙が溢れた。浮かんでいたはずの笑顔はくしゃくしゃになり、その勢いはどんどん増して、止まらなくなっていく。ついにはしゃくりあげるように喉を鳴らし、彼女は目元を押さえて泣き始めてしまった。ダムが溢れて、感情が決壊したような泣き方。そこにどれだけの苦難があったのか、俺には想像することしかできない。洪水みたいに溢れる涙を必死に止めようとする捺を抱き寄せて「泣けよ」と一言だけ呟いた。思えば昔から、コイツは我慢強いヤツだ。今日この日までずっと、ピンと張り詰めた糸を少しも緩めずに走り抜いて来たのだろう。そんな彼女の琴線を溶かしたのが、俺で良かった。心からそう思う。子供みたいに声をあげて泣く捺は、俺がよく知る頑固な泣き虫の同級生「閑夜捺」に他ならなかった。
 
 
 

 

「今までごめん。ありがとう。……――お疲れさま」
「っ……うん、……うん……!」
 
 


 
 
 飾らない労いに、捺は何度も頷いた。潰さないよう丁寧に抱きしめて、震える小さな背中を撫でる。この背にお前が、どれほどの責任を背負ったか。背負わせて、しまったか。心からの賛辞を送った俺に彼女は掠れた不恰好な鼻声で「……おかえり、ごじょうくん」と呟く。そんないじらしい出迎えの言葉に俺は、たった一度、確かに頷いた。 




約束の続き



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