瞼を開いた時、一番に感じた気怠さと頭の中に響くような鈍い痛みに自然と眉を寄せる。ほとんど反射的に目頭の少し隣、鼻の付け根辺りをグッと押さえてみたがモヤ掛かった思考は中々晴れなかった。指先をゆっくりと頬に移動させ、乾燥して残された涙の痕に泣いていた$謔ルどまでの記憶が一気にフラッシュバックする。泥のような意識に沈んでいた脳みそが途端に弾けて、上半身を持ち上げようとするも幹のような強い力に押し留められてしまった。
 

 
 
「……起きた?」
 

 
 
 少し語尾の掠れた一言と同時に私の体は引き寄せられる。布ずれの音を耳にしてすぐ、目の前に現れた美しい青に一瞬言葉を失った。未だ暗い寝室で彼の瞳と月だけが唯一光を発している。……わたし、ねてた? 気の抜けそうな問いかけだったのにも関わらず五条くんは白い睫毛を小さく揺らしながら笑い「一時間くらいね」とあっさり答えた。ベッドサイドに置かれていた家主の電子時計に視線を向けて確認すると、丁度日付を跨いで数秒、既に時刻を刻んでいる最中のようだ。
 
 
 ……少しは、強くなった気でいたのに。ぼんやりと思い出されるのはボロボロと涙で視界がいっぱいになり、息も出来なくなった自分の姿だ。渋谷での事件の後沢山の人と別れ、失い、酷いニュースばかりを耳にしてきた事で耐性が付いたと思っていたのに、この有様。あまり笑える話ではないなあ、と自嘲する。この数週間で私は確かな事実を前して嘆いても、何も解決しないのだと身を持って知った。どれだけ泣いても、悲しんでも、悼んでも、それで誰かが救われる訳ではない。だからこそ私は、東京を駆け巡り呪霊を祓い続けた。学生の頃のように現実から逃げる手段ではなく、前を向くための手段としてそうしていたつもりだった。
 
 
 ……だけど、本当は違ったのかもしれない。そうやって言い聞かせていただけで私は……きっと、なにも乗り越えられていなかった。当たり前だ。前を向いたのではなく、前を向こうとしていたんだ。七海くんも、野薔薇ちゃんも、夜蛾先生も、真依ちゃんも、伏黒くんも。……そして、五条くんのことも。私の覚悟は、全てが全て中途半端だ。――そう思った瞬間。突如感じた息苦しさに目を瞬かせる。視界に捉えたのは仕方なさそうな、呆れにも似た表情を浮かべた五条くんが細長い指先で私の鼻の頭をつまみ上げている姿だ。ごじょうくん、そうやって名前を呼ぼうにも濁音交じりの発音になってしまい上手く声が出てこない。
 
 
 
 
「お前はホント、難しい事考えるの好きだよな」
「……ごめん」
 
 
 
 
 そんですぐ謝るし。眉を片方器用に持ち上げてからパッ、と手を離した彼は小さく息を吐き出した。そんな五条くんの仕草一つ一つを必死に追いかける私がいることは自覚している。……だって、仕方ないだろう。彼と再び話すことが出来てるのさえ、当たり前ではなく、奇跡みたいな確率だと思った。それどころか二人きりになり、知らない人の家の、知らないベッドの上でこうやって並んで体を預けているのだ。理解が追いつかない所か、最早もう理解することすらも少し諦めている。そして何より、今の私たちを繋ぐ関係はただの「同級生」ではないのだから。
 
 
 ───実感なんて、なかった。五条くんが私に抱いている感情は、彼自身から懇切丁寧に教えられて知っていた。それに応えられない自分が歯痒くて、申し訳なくて、だけど彼はそんな想いさえも全部汲み取り、奪い去り、昇華してしまう。何処までも彼に甘えてきた私がやっと「はい」と言えたのは五条くんを失った後のことだった。……後悔なんて、考えるのも烏滸がましい。これが私に与えられた贖罪だ、なんて。ヒロイックな感覚すらも私には勿体無いと思った。そんな言葉で形容してはいけないくらい、私は彼に酷いことをしていたのだから。
 
 それでもわたしは、気づけば身勝手な想いを伝えていて、五条くんはそれを確かに受け入れてくれたのだ。彼に悪いところなんて一つもないのに謝って、感謝して、私に「お疲れ」と温もりを与えてくれた。彼が居ない間も、彼が戻ってからも、私は既に五条悟という存在に甘えてしまっている。数多の期待を背負い立つ彼にこれ以上負担かけたくないのに。……もっとしっかり、しなきゃ。決意表明を込めて少しだけ唇を動かしたつもりだった。それでも彼は、五条くんはその言葉を取り落とさない。
 
 
 
「捺はこれ以上どこをしっかりするつもりだって?」
「そんなの……沢山あるよ。今も私五条くんに甘えてばっかりで、」
「……それの何処が悪いんだって言ってるんだけど」
 
 
 
 
 私が何か言うより先に、マットレスに腕を付いた五条くんは大きな体を支えながら持ち上げる。そのまま私の上にまるで覆い被さるような体勢になると、ゆっくりと此方を見下ろした。人によってはきっと威圧感を感じるような姿勢だったが、そこに浮かんだ彼の顔は静かで、本能的な警戒心を掠めない。寧ろ……まるで、大木が麓に居る人間を重ね合わせた枝葉で雨風から護ろうとする、そんな感覚に近しいと思った。
 
 
 
 
「あのね、多分まだ分かってないと思うから言うけどさ」
「えっ、と、」
「僕の好き≠ヘ捺が思ってるよりずっと、ずーっと……深いよ」
 
 
 
 
 求心力を秘めた瞳の奥深く。沈められていた感情を引き上げるような爛々とした視線に、体の自由が奪われた感覚に陥る。恐れている訳ではないのに、心が波立つのが分かった。五条くんの男性らしい指先が私の目尻をそっと、優しくなぞる。柔らかな手つきには攻撃性なんて微塵も感じられない。それどころか少しも傷付けたくない、そんな意思が伝わってくる。
 
 
 
「捺が無茶するのも、色々抱え込む頑固なヤツなのも分かってる」
「……」
「だからこそ俺は……お前の全部を知りたい。隠してたことも、言いたくないことも……何もかも、知りたい」
「五条くん……」
「これが俺の好きってヤツ」
 
 
 
 ぜんぶ俺に見せてよ。澱みなく告げた彼に私は口を閉ざしてしまった。何も、言い返す気が起きなかったのだ。五条くんの「知りたい」という感情に込められた無限の愛情を今、感じ取ってしまった。逸らすことも、気付かないフリもさせない。ただ真っ直ぐな気持ち。まっすぐな欲求。少し前の彼とは違う、逃げ道を作らせる気のない口振りに思わず手に力を込めた。わたしも、彼の心に、応えなくてはいけない。
 
 
 
「……わたしは、」
「……うん」
「私はね、五条くんのこと……昔から本当に尊敬してて、ずっと、憧れてた」
 
 
 
 五条くんはよく、学生時代の私との関わりについて後悔している、と言っていた。でも私にとってはこの上なく大切で、必要な思い出だったのだ。彼の言葉はいつも正しかったし、彼のおかげで私は地に足をつけていられた。この世界から逃げ出さずに生きてこられた。ぜんぶ、五条くんのお陰だった。
 
 
 
「私は……五条くんに助けられてきたんだよ」
「でも、俺は、」
「五条くんは酷いことをしたって思ってるみたいだけど……そんなこと、なくて」
「……」
「五条くんが私のために思ってくれたこと、してくれたこと、ぜんぶ知ってるから」
 
 
 
 だからこそ私は、彼と並んでも恥ずかしくない人で居たかった。堂々と横並びにはなれなくても、近くに居ることを許されるヒトになりたかった。唯一無二で、彼に代わるモノなんてない。五条くんは私の生きる方角を定める北極星≠ネのだ。未だに目指す自分になれてはいないけど、そうなろうと自分なりに生きてきた。……こんなこと、彼に言うのも憚れる。そう思っていたけれど……五条くんの「知りたい」思いに触れて、はじめて今、伝えようと思った。
 
 
 
 
「五条くんは……私の生きる道筋だよ」
 
 
 
 
 曲がりなりにも世間話で口走れるような内容ではない、そんな感情が暗い室内に落とされた。部屋の空気は雨上がりのような静けさと、ほんのりとした冷たさに満ちている。驚きに大きく瞼を見開いた彼とは裏腹に、そこにある瞳は何処までも濁りなく澄み切っている。反対側の世界が透けて見えそうな翳りのない宝石に、吸い込まれてしまいそうだった。
 
 
 
 
「昔も、今もずっと……五条くんのことがすき。すごく大切で、だから……っ」
 
 
 
 
 
 私の言葉は、彼の口付けに遮られる。視界いっぱいが白で染まり、そうするのが当たり前のように目を閉じた。一度離れては角度を少し変えて合わさる唇から感じるのは熱と、膨れ上がる確かな呪力。呪術師の本能が体に訴えかけてきた。このままでは呑まれるぞ≠サうやって鳴り響く警笛を意識しながらも、私は彼を拒めなかった。
 

 出来の良い夢を見ているような感覚だった。五条くんとキスをする度に言葉で交わすだけでは伝えきれなかったものが互いに染み渡っていくような気がする。空白を埋める行為に区切りをつけるように、彼の唇が離れていく気配で目を開けた。五条くんは、ふっ、と息を吸う。それを見て私は「彼も呼吸をするんだな」なんて事をぼんやりと考えてしまった。人間として当たり前の行為なのに、五条くんが息を整える姿なんてあまり見れるものではない。私の視線に気づいた彼は……ん? と柔らかな声で首を傾ける。甘ったるい蜂蜜みたいな目に惜しげもない愛情を感じて、ちいさく背中が震えた。私も彼もきっと、それが何を意味するのか分からないほど子供ではない。
 
 そう在るのが当然のようにもう一度口を合わせる。耳元で五条くんが少しだけ鬱陶しそうに自らに掛けていた布団を床に蹴落とした音が聞こえた。愛と形容するには少しだけ逸脱した熱情が、じんわりと肌を火照らせる。濃厚な呪力が私たち二人を取り巻いて、頭に霧が掛かったような気分だ。五条くんの大きな掌が顎のラインに触れる。まるで開けて≠ニ言うみたいに。あるいは扉の前で足踏みしていた私たちから一歩、先に進むように。五条くんは自身の薄い唇で私の唇をそっと押し上げると、丁寧に厚みのある舌先を滑り込ませた。口内を泳ぐような滑らかさで五条くんは私の舌を探し当てると、赴くままに絡め合わせる。水音が頭の中に反響して思考の巡りが遅くなっていくのを感じた。こんなにも深い繋がりを求めるようなキスをするのは何年振りだろうか。とっくに忘れていた感覚が引き寄せられていく。
 
 
 
「……捺、」
 
 
 
 
 落ち着いたテノールが名前を呼んだ。私の手首を痛くない程度に自身の手でベッドに貼り付けた彼は色を孕んだ視線を向ける。見え隠れする渇きにも似た欲望と真剣な顔付きに私は彼を……精神的にも、肉体的にも、その全てを受け入れたい、という衝動に駆られた。全てを持ち得る五条くんが今、満たされていない部分を埋めたいと思ったのだ。彼が私を求めるのなら応えたい。奉仕、したい。今まで彼に貰った数え切れないほど沢山の大切なものを少しでも返せるのなら、それでよかった。
 
 
 
 
「……一応聞くけど、初めてじゃないよね?」
「うん……だけどもう、何年もしてないから」
「もう一つ質問。……今から僕に、全部見られる覚悟は?」
 
 
 
 
 言葉だけを捉えると少し意地の悪い問いかけにも見えるが、その実彼は気遣うような調子で私に投げかけていた。言わばこれが、最後の砦であり、最後の意思確認のようなものだ。雪崩れ込むような行為ではなく、あくまでお互いの気持ちを彼は優先していた。これまで私と彼が対話を続けてきたように、今のこの時も五条くんは私に向き合ってくれた。……やさしい人だと思う。私の返事はもう、決まっていた。
 
 五条くんの筋の浮いた首にそっと腕を回して、彼は殆ど反射的に私の背を軽々と支える。目一杯の愛情を込めて私は彼と額を合わせて、少しだけ上目に彼を見つめた。
 
 

 
「……私の全部、あげる」
「……!」
「だから、五条くんのぜんぶを……ください」
 
 

 
 
 懇願と呼ぶには軽やかで、お願いと呼ぶには重い要望。私なんかがこんな事を言うなんて不相応だとは思う。それでも……五条くんが求めている。それ以上の理由はきっと必要ないのだろう。真夜中の廃墟となったマンションの一室で見る彼の瞳はアイオライトのような輝きを持っている。ゆっくりと五条くんの喉仏が上下して、一度息を吐き出してから彼は口を開いた。
 
 
 

 
「……俺の全部、ちゃんとみてて」
 

 
 
 
 何処か幼さを残した、弦を震わすような小さな声だった。騒めきの中でなら埋もれてしまうような密やかな響きを鼓膜で受け止めてたしかに首を縦に振る。欲望にしてはあまりに透明すぎる五条くんの感情。神聖な儀式を行う前のような静けさと、実際に今から行われる交わりには遠いようで近い位置に存在するのだと、頭の片隅で私は初めて理解した。マットレスが軋む音と五条悟という人間。どちらもが共存する空間に私と彼は二人のこいびと≠ニして夜に沈んだ。
 

私のすべてを



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