「今の虎杖は、呪物だ」
 


 
 天使の治療を終えた硝子がポツリと呟いた。
 呪物?と聞き返した私に彼女は頷き宿儺≠ニいう呪いに浸された存在だからなと答える。……宿儺の指という特級呪物を取り込んだ彼自身が今、呪物になった。言葉にするのは憚られたが、私は思う。虎杖くんと宿儺は呪術師と呪霊の相関関係の縮図であり、惑星軌道のようだと。だからこそ、硝子の考えと私の考えはほんの少しだけ違っていた。
 


 
「私は……呪具に近いのかな、と思ってるんだ」
「呪具?」
 


 
 聞き返した彼女にうん、と静かに肯定を示す。両面宿儺を受肉しながらも今まで理性を保てていた彼は人によっては呪いそのものであり、きっと唯一対抗できる武器≠ナもある。……皮肉にもそれは彼が望んだ生き方ではない。だからこれは私のエゴだ。私は彼を表す言葉としては、呪物よりも些か此方の響きの方が好きだった。虎杖悠仁くんは、呪いではなく、呪いを祓う存在。微かな違いかもしれないが、そう、思っていたかったのだ。
 
 
  

 
 
 




「……ここに居たんだね」
 
 


 
 高専の外。あれだけの被害があったにも関わらず、奇跡的に残されていた非常階段の隅。私もよくお世話になったこの場所で虎杖くんは一人座り込んでいた。私の声に振り返った彼は少しだけ目を見開いて「捺さん、」と頼りなさげな声で呟いた。夕闇を背に黒いパーカーを纏う彼は今にも溶けてしまいそうに見える。
 

 ……当時の自分は、彼の瞳にはこんな風に映っていたのだろうか? 少し頬を緩めながら半ば強制的に「隣、良い?」と問いかける。虎杖くんは何度か視線を彷徨わせたが最後には頷いて、手摺りに身を預けるように私が座るスペースを確保してくれた。感謝を述べつつ人一人分°けて彼の隣に腰掛ける。
 

 周りの木々が、瓦屋根が、建物が……目に付くもの全てが赤く染まり、鮮やかに彩られる。金とも銀とも形容しづらい光の線が虎杖くんの輪郭を浮かび上がらせる。掻き消えてしまいそうな彼の姿が、確かにそこに在るのだと、実感させられるような眩さ。こんな時でも変わらずに、ここから見る夕焼けは美しかった。
 
 


 
「虎杖くんは、ここによく来るの?」
「……いや、さっきフラフラしてて見つけた」
 


 
 
 何故?とは聞かなかった。そっか、と静かに肯定し、私も彼と同じ方角を見つめる。沈んでいく太陽のあたたかさは、私自身の不甲斐なさや至らなさ全てを連れ去ってくれるようだ。……彼も同じことを考えているのだろうか。
 
 


「ここ、私のお気に入りの場所なんだ」
「捺さんの?」
「そう。……何かあった時、いつもここに来てたんだよ?」
 
 


 虎杖くんは何か言いたげな顔をして私を見つめた。彼の聞きたいことが手に取るように分かる気がしてそっと目を伏せる。本当に、数えきれないほどお世話になった。あの四年間も、今も。私にとってこの非常階段は他のどんな場所にも変えられない、大切な思い出が詰まった一角だ。
 



 
「……学生の時は、失敗も、後悔も、悩みも……本当に、本当にたくさんあって……勿論今もなんだけどね」
「……うん」
「気持ちを落ち着かせたい時とか、整理したい時とか……もう、どうしようもなくなった時にずっとここで夕陽を眺めてたんだ」



 
 
 ……五条先生と? 不意に私にそうやって声をかけた彼に数回瞬きをする。思いがけない言葉だったが、自然と自分の唇が弓形になったのが分かった。どうでしょうか?そうやって惚けた私に虎杖くんはキュ、と眩しそうに目を細める。……彼の表情が微かだが、明るくなった気がした。居心地の悪くない沈黙が秋の空に広がる。
 
 


 
「大変、だったね」
 



 
 
 分かりやすくシンプルな労い。あの結界の中で何が起こったのかは全て聞いた。伏黒くんのお姉さんが既に受肉していたこと。虎杖くんの体が宿儺に乗っ取られ、その間に宿儺が自身の左手の小指を呪物≠ニし、伏黒くんに受肉したこと。それら全てを知った上で私が掛けられる声は、これしか見当たらなかった。薄っぺらくて、中身がない。だけど、私に今の彼の気持ちが分かると思うほど驕ってもいないつもりだ。何もかもが規格外で、予想外。そんな渦中にいる虎杖くんという少年の感情は計り知れない。
 
 


「……そんなことないよ」
 


 
 想像通り、と言うべきか。虎杖くんは落ち着いた、それでいて確かな口調で否定する。諦めや、悲しみではなく、諦観に近しい静かな表情。「全部俺のせいなんだ」そう告げた彼の横顔を見つめて「うーん、」と頭の中で伝えたい言葉を構築し、吟味する。より良く、素直で分かりやすく。何度か唇の開閉を繰り返してから私はやっと、喉を揺らした。
 
 



「これはちょっとだけ……本当は不服でもあるんだけど」
「……」
「虎杖くんが宿儺の指を食べたのも、呪術高専に入ったのも……ぜんぶ、決められた道筋だったのかなって」
 
 


 呪霊がこの世界に生まれ落ち、それを祓うために太古から呪術師同様の存在が誕生する。平安から現代に至るまで、この関係は変わらない。人間が生きる限りきっと、この循環は止まらないのだ。……だからこそ、私は思う。呪いの王が自らの復活のために虎杖悠仁という少年を選んだこと。それは既に決まっていた運命であり、そこに彼の意思は存在しなかったのではないか、と。
 
 


 
「……でも俺は、あの時自分で指を食べたんだよ。呪霊を祓うために」
「うん。だから、そう考えている虎杖くんは、すごいなぁって」
 
 
 


 ……え? この日初めて彼は少年らしい表情を見せた。まだそうやって幼さの残る顔が出来ることに少しだけ安堵しつつ首を振る。───もし、私が彼の立場ならきっと「運命だった」のだと思わなければやっていけない……そう思った。虎杖くんは苦しみながらも自身の境遇に向き合い続けている。強い責任感で全てを背負い込もうとしている。彼はまだ十五歳のこどもなのに。本当はもっと、彼の境遇は私達ではどうしようもないなにか≠フせいにしても許されるはずなんだ。だけど虎杖くんはそれを選ばなかった。彼の選択がどれほど大きく、凄まじいことなのか、きっと虎杖くん自身理解していないだろう。
 

 
 
 
「私はね……全部を受け入れて、抗う虎杖くんを護りたいんだ」
「護る……」
「さっきは運命とか、決められたこととか……スケールが大きい話をしちゃったけどね。私にとっては世界を救う事よりも今此処にいる、私の前にいる貴方を護ることの方がずっと現実味があって、大事なことだと思う」
「捺さん……」
「嫌なことはカミサマ≠フせいにしていいんだよ。……私、神様のこと信じてないけど、都合のいい時はそうしてるもの」
 
 


 
 狡いでしょ? 訊ねるように、彼の反応を待つように。私は思い切りニンマリとした笑顔を浮かべる。真面目に生きること、生きないこと。その感覚は私が経験してきた高専での四年間、そして今に至るまでに養われてきたものだ。……あくまで私の正義感はきっと、身近な人のためにある。顔も知らない他人や、目に見えない世界全てを助けるなんて殊勝な考えは出来ない。私はただ……私の見てきた生徒達を、護りたい。
 虎杖くんは暫く面食らった様子で此方を見ていたが、小さく開かれていた口が次第に下唇を噛み締めるように結ばれ、きゅ、と一文字になる。そんな彼を見つめながらポケットを弄った私は、強く握り締められた彼の拳を指一本一本を開くようにして花開かせる。細かな傷が沢山付いた、無骨な手。それに重ねるようにして探り当てた個包装のチョコレートをひとつ、虎杖くんに手渡した。

 
 


「本当はまたカツ丼食べたかったんだけど……今、これしかなくて」
「……十分だよ」
 


 
 
両手の人差し指でつまむようにして袋を開いた彼は、ほんの数秒キューブ型のチョコレートを見つめてから一思いに口の中へと放り込む。吟味するように動かして、味わってそれから……めっちゃ甘い。そうやって呟かれた感想につい、肩を揺らして笑った。つられるみたいに虎杖くんも仄かな笑顔を浮かべる。まだ私も彼も、笑えている。だからきっと、大丈夫。

 
 曖昧だった黒とオレンジの境界が次第に比率を変えて、夜が訪れる。一日の内のほんの一瞬だけ体験できる黄昏時。それはどこか、虎杖くんに似ていた。十一月の夜風は冷たい。くしゅん、と思わずくしゃみをした私に彼は「中戻ろ、捺さん」と立ち上がった。
 


 
「そろそろ本当に先生≠ゥら怒られるし」
「……そう、だね」


 
 
 何処かすっきりした顔の彼は私が立つのを見届けてから、ふと、世間話をするような調子で此方を向く。ねぇ捺さん。虎杖くんの呼びかけに私たちの視線が重なる。
 
 


 
 

 
「先生に会ったら、何したい?」
   

 
 
 





 
 
 ───埼玉県木呂子鉱山。呪術高専が所有する修練場の一つで、山肌の露出した砂埃が舞う場所。私も学生時代何度か足を運んだこの場所に今、私達は立っている。生徒達が土嚢を積み上げた壁の後ろで控え、私と硝子は少しだけ離れた場所からその様子を見守っていた。
 

 
 天使の助言により、この十九日間の五条くんの精神状態を加味した上で広く、何が起きても対応出来る場所として此処が選ばれた。獄門彊の中では物理的な時間が流れておらず、餓死や老衰には至らず……唯一の可能性として挙げられるのは「自死」普通の人間なら選択肢に含まれるかもしれないが、相手は五条くんだ。きっとそれはありえない¥ノ子も同じ考えらしく、どちらかと言えば出た瞬間爆発的な呪力で高専が壊れる方を危惧していた。
 

 

 
 小さな羽で空を飛んだ天使は緊張した面持ちで左手を掲げる。その様子を見ても私は、不思議と現実味が湧かなかった。この十九日間……未だに何処か、彼が封印されていたことが嘘のように思える。彼を忘れたことはなかった。彼のことを考えない日はなかった。今胸にあるこの感情の名前が、この鼓動の意味が……その答えがきっと、もうすぐ分かる。
 

 彼という指針を失って、私なりに駆け抜けた。頑張った、つもりだ。彼にとってはちっぽけかもしれないけれど、それでも、生き抜いた。……五条くん。貴方に再び会うことが、どれ程までに私の支えだったのか、顔を合わせて伝えたい。いなくなっても尚、私は五条くんの存在に助けられた。
 ぎゅ、と提げ続けたネックレスを握る。こんなにも時間があったのに、彼にどんな言葉を掛けるのか決まっていない。いや、決められなかった。溢れる感情がまとまらなくて、彼を迎えるのに一番良い言葉が見つからなかったのだ。

 
 
 狗巻くんの一声と共に目を開けていられないほどの光が溢れ、咄嗟に瞼を閉じる。チカチカと眩んだ視界の中、生徒達が獄門疆へと駆け寄ったのが分かった。……そこに彼の姿はない。虎杖くんたちが顔を見合わせたが、次の瞬間地面を劈くような轟音が鉱山全体に響き渡る。経験したことのない大地の動きは一瞬の内に最高潮に達し、何処からか、姿の見えない大量の鳥達が一斉にけたたましく鳴き始めた。……その場に居た皆が予感する。これは、自然現象ではないと。
 

 
 揺れはすぐに収まった。思わずその場に蹲み込んでいた私が立ちあがろうと顔を上げた時、闇を裂く青い雷鳴が、走る。目眩を感じるような鋭さと、懐かしさ。伏目だった白い睫毛が瞬き、視線が交わる。
 
 
 


 
 
「…………捺、」
 
 
 


 
 
 ───宇宙の全てを閉じ込めたみたいなその瞳は、私の弱さ全てを見透かしているみたいだった。彼は私に無いモノ、いや、他人にないものを全て持っていた。羨ましい、そんな感情すらも掻き消えてしまうほどの絶対的な存在。それでも彼は……五条くんは、綺麗だった。

 
 私の目の前にまで歩いてきて膝を折った彼は、整った眉を寄せて「その傷、」と痕の残った首筋に手を伸ばす。真っ直ぐで真剣な水晶玉には私への心配が色濃く映し出されている。五条くんの手には、熱が通っていた。彼の手は、あたたかかった。……あぁ、本当に、いる。ここに、彼がいる。そこでやっと私は、彼が帰ってきたことを実感した。止まっていた時計の針が今、時間を刻み始める。
 

 自身の腕では到底包み込むことが出来ない大きな身体。それでも私は手を伸ばし、彼の肩口に顔を埋める。優しくて、透明感のあるしゃぼんのような香りがした。ごじょうくん。そうやって確かに名前を呼んで、切なさと、幸せと、混ざり合った感情に胸が詰まった。ドクン、ドクン、と肌を通して伝わってくる彼の鼓動を聞きながら、目尻に溜まった雫を頬に流すように私はそっと目を閉じる。そして数秒後、捺、と呼ばれた自身の名前に自然と首を持ち上げた。
 

 
 
 
「約束、覚えてる?」
「っ、おぼえ、てる……!」
「よし。───暴れちゃ、ダメだよ」

 
 

 
 聞き覚えのある言葉だと思った。ただ、以前に聞いた時はもっと意地の悪い声色をしていた気がする。今耳元で響いたのは極めて優しく、不思議なほどに実直で何処かあどけなさを残した声だ。凝り固まっていた私の全てを解してしまうような口調には、拒否するなんて選択肢は存在しない。

 
 ……この後何が起こるのか、私は身を持って知っている。先程までより強く彼の体にしがみ付き、彼もまた私をしっかりと抱き締める。重なり続けた視線を一瞬だけ私から外した彼は、足組みしながら椅子に腰掛ける硝子に顔を向けると。ひらり、と一度手を挙げて得意そうに揺らした。酷く簡素な挨拶と主張だったが、彼女にその意図はしっかりと伝わる。硝子は明らかに肩を落とした大層なため息を吐くと、同じように片方の腕を中途半端な高さに持ち上げた。その動作を確認した五条くんは今度こそ、ニンマリと満足気に口角を持ち上げた。
 
 

 
 

「じゃ、皆! また後で=I」
 



 
 
 五条くんの突飛な宣言に「ええ!?」とそこにいた半数が騒めき、残りの半数が察したように呆れた顔を作ったのが私にも分かった。それでも彼を引き止める人が現れないのは、きっと、彼が止まらない人間だと知っているからだ。再び蒼いオーラを纏った彼と私の体はきっと、瞬間的に消えた♀Oから見ればそんな様子に映ったに違いない。
 

 
 ───何もかもが変わった世界で、五条悟は、何も変わらずに帰ってきた。残された高専関係者が集う木呂子鉱山の背後には彼のように澄み切った秋の空気が覆い被さり、薄い雲が揺れている。すっかり早くなった日の入りに、冬はもう、間近に迫っていた。
 
 
 

また後で!



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