脹相さんからの情報を聞いた真希ちゃんはすぐに伏黒くん達のいる結界へと直接赴くために走っていく。……彼女が禪院家を本当に滅ぼしてしまったこと。真依ちゃんが、いなくなってしまったこと。話としては聞いていたが、こうやって彼女自身と顔を合わせるのはそれ以来だった。以前と明らかに雰囲気の変わった真希ちゃんは天元が攫われたと聞いても落ち着いている。不思議と、あの時、あの任務で変わってしまった五条くんの姿を思い出した。きっと真希ちゃんも、違う場所へと上り詰めた、上り詰めてしまったのだろう。
「……真希ちゃん、」
「……捺さん。私は大丈夫だよ」
「うん。知ってる…… 全部、やっつけてきたんだね」
悪い奴らを。そう続けた私の言葉に彼女は何度か瞬きをするとニヤリと口角を持ち上げて「そういうことだな」と不敵な笑みを浮かべた。きっと、陳腐な励ましや同情は今の真希ちゃんには必要ない。最後にヒラリと手を振った彼女は美しいフォームで階段の先へと駆け抜けていった。
……私の傷は、私が思う以上に深いものだったらしい。硝子の元に着くなり、すでにある程度の治療を終えていた脹相さんが私を見つけてくれたが、そこで私は完全に気を失ってしまった。目が覚めてすぐに飛び込んできた硝子の怒っている℃桙フ顔に何かと覚悟したのはいうまでもない。
「あと数センチずれてたら動脈に傷が付いてオジャン、分かってんの?アンタ」
「……す、すみません」
丁寧に巻かれた首元の包帯に手をやりつつペコリと頭を下げた。痕残るよ、ソレ。なんて不機嫌そうに吐き捨て、硝子は処置台の側で堂々とタバコを吸う。目尻を尖らせるのを見るによほど心配をかけたようだ。同時に呪力消費の激しさも指摘されて「何があったのか」と尋ねられ数秒逡巡したが、この後に及んで私に嘘を吐くつもりなのかと迫られて、あっさりと羂索と相対し、特級相当の呪霊と戦ったことを話せば、今度は肩を深く落として「……言葉も出ないわ」と呆れられてしまった。
「……悪運強いんだか、何なんだか……起きたら五条にチクるよ」
「それはちょっと……困る、かも」
「大体アイツがそのケガを見たら私にしつこく聞いてくるだろうね」
せいぜい搾られとけ、と悪態をつく彼女に曖昧な笑顔を浮かべた。硝子の怒りも、感情も、全て正当なものだ。こんな状況になっても尚、護られるようにこの場所に縛り付けられた彼女はきっと、今一番不自由な人だ。秩序も何もかも崩壊した東京で、彼女はその特異性故にここに居る。軽々しいことを言うつもりはないが私が彼女の立場なら……きっと、歯がゆい。
死なないだなんだと宣言して死にかけるトモダチを持つ身にもなって欲しいよ。チクチクと懐かしい嫌味を溢す硝子の背中には言い表せない寂しさが滲んでいる気がした。
彼女は責任感が強くて、優しい人だ。昔から変わらない、硝子の本質はきっとそこにある。だからこそ反転術式を持つに値して、この世界で生きてこられたのだと思う。呪術界から逃げ出さなかったのは、否、逃げだせなかったのは、きっとこの性格のせいだ。
「……硝子、」
「何?」
「全部終わったら、何がしたい?」
……は? 間の抜けた声と同時に彼女が私に振り返る。その表情に頬が緩んで、もう一度「なにしたい?」と私は問いかけた。……全部終わった時はもう終わり≠ナしょ。そう吐き出す彼女の言葉はひどく現実的だ。そうじゃなくて、前置きをするように私は続ける。
「色んなしがらみとか、仕事とか、役割とか……全部全部終わったら、何がしたい?」
「……全部?」
「そう、ぜんぶ」
当惑に眉を顰めていた硝子はそこで初めて、視線を落としながら沈黙する。その顔が彼女が何か考えている時の物だと私は知っていた。トン、トン、と右手に持つボールペンが一定のリズムで揺れる。静かな部屋での沈黙は「……酒、」と彼女の呟いた一つの単語で破れられた。
「酒?」
「世界で一番高い酒、飲みたい」
「へぇ……!なんてお酒?」
「……昔調べてもボトル自体がダイアモンドだから……みたいなふざけた酒しか見つかんなかったんだよ。だから、」
本当に美味しくて、金を掛けてもいいと思える酒を探したい。そう語った硝子の瞳は少しだけ、子供みたいな色をしている。……大金をかけてお酒を買う。それは子供とは到底呼べないような夢だったが、彼女のしたいことはそれについて調べる≠アとから始まるのだと伝えられて、少し胸が詰まった。満足いくまで探すのもままならない生き方だったのか、それとも空想のままで終わらせるつもりの夢だったのか。どちらにせよ、その裏にある息苦しさが汲み取れてしまう。……他には?と、もっと彼女の言葉が聞きたくて追求すれば、うーん、と硝子は天井に視線を向けた。
「……外国のデカいカジノでギャンブル、とか?」
「勝ちたいとか当てたいじゃなくていいの?」
「そんな簡単に当たらないだろうしね。気持ち良く賭けて、楽しめたらそれでいいや」
「硝子はなんか当ててそうだけどなぁ」
「……アンタは外してそうだね」
少しだけ意地の悪い微笑み。揶揄いにも似た感情を乗せた彼女の笑顔に「えぇ?」と反論しつつ私も笑う。教室で二人、しょうもない話で盛り上がった学生時代を思い出すやりとりだった。
「私は硝子と北海道で食い倒れ旅行とかしたいけどなぁ」
「北海道まで行って食い倒れ?」
「イヤ?」
「……最高じゃん」
くるり、と遊ばせていたボールペンを一周させた彼女にそうでしょ?と得意な返事をした。色濃く残された隈を携えながらも、うん。と硝子は素直に首を縦に振る。それから態とらしく「はーあ、」と息を吐き出した。
「まさか捺に励まされるなんて」
「まさかって、酷くない?」
「いつも無茶すんのはアンタでしょ」
まさかくらい受け入れなよ。そう言いながら喉を鳴らした彼女は晴れやかだ。受け売りだけどね、と答えた私にこんな慰め方何処の男に吹き込まれたんだか、と、肩を落とした硝子は全て分かっているかのような口ぶりだった。彼女はコマの付いた椅子に品なくどっかりと腰掛けると長い髪を流しながら深く息を吐き出す。
「……アンタが私の言うこと聞いた試し無いから生きろ≠ニか怪我するな≠ニは言わないけどね」
「……うん」
「せめて、綺麗に死んでよ」
そう願う硝子の横顔はこんな時でも綺麗だった。学生時代とも、渋谷での一軒とも違う彼女の想い。全てが変化したこの場所で何処か現実的な、言葉だった。彼女に死ぬな、生きて帰ってこい、と言われたのが遠い昔のようだ。……私も彼女も思い知った。簡単に人は死ぬ。簡単に居なくなる。だからこそ、込められた感情がヒシヒシと伝わってきた。
「五体満足で帰ってくるなら……文句ひとつで許してあげるからさ」
「……硝子は、生きてね」
考えるより先に告げた言葉が残酷な自覚はあった。少し驚いたように目を開いてから「それ、言う?」とぼやいた硝子の言葉は尤もだ。それでも撤回しようとは思わなかった。……私は彼女に、生きて欲しい。きっと硝子はこんなところで死んで良い人ではない。私はその場からゆっくりと立ち上がると凝り固まった体をほぐすように、ぐっ、と伸びをする「……伏黒くん達の所、行ってくるね」ある種宣言のような形で呟くと、硝子は此方を見上げて何の為?と問う。……天元が奪われ、慣らしが終わった以上戦局が動く可能性は高い。そう答えれば彼女は少し目を伏せてから口を開く。
「アンタが行って、何も出来なくても?」
「その中でも……出来ることを探すよ」
真剣な顔で私を見つめた硝子は最後にはひらり、と両手を挙げる。……おみそれしました。そうやって巫山戯混じりに背中を押して送り出してくれた彼女に、私は甘えた。随分軽くなった体で飛び出して真希ちゃんの後を追いかけるように影の中を泳いでいく。……思えば、マトモな場所で眠ったのは久しぶりだったのかもしれない。誰かと次を語ったのも、久しぶりだった。
……ごめんね。影の中でぽつりと呟いた声は、友人には届かない。彼女はきっと、私に向かって欲しくはなかったんだと思う。世界に更なる変化がすぐそこまで迫っていることなんて、私も硝子も痛いほどよく分かっていた。でも私は、それでもきっと、歩みを止められない。止めては、いけないのだと思う。護るべき子供達が居る以上、向かわない選択肢は私にはなかった。
「っ、たすけて、ください……お願いします……!」
第一結界の端くれ。大きな物音がした場所へ向かった私に、脱色され傷み切った髪の青年が叫んだ。結界を跨ぐように半身を外に出す姿を見るに結界に関するルールが追加されたのだろうか?少なくとも彼がペナルティを受けている様子はない。出来るだけ冷静に状況判断しつつ、彼が必死に抱えている何かに目が止まる。肩口からどくどくと血を流している……背中に羽を携えた、女の子。危ない状態なのはすぐに理解できた。そして彼女が天元の言う「天使」だと言うことも。
完全に結界から這い出した彼を助け起こし、青年と私の影に触れる。また急患だと分かれば硝子に怒られてしまいそうだな、と考えながら天使を影で包み込むように運ばせた。ここで何が起きたのか、何が起こっているのか、残るべきか、帰るべきか。沢山の可能性を考えたが、もしこの道中天使が奪われる……もしくは、殺された場合、彼を復活させる手段がなくなる。それは即ち詰み≠セ。
「……落ち着いて。貴方も、この子も絶対に助ける」
私は、彼らと共に硝子の元へ戻ることを決断した。後ろ髪を引かれつつ、即座に踵を返して来た道を戻っていく。天使の体に傷としてと残された呪力は強大だ。そこらに隠れていた呪霊が蛆のように湧き出す。小さく悲鳴を上げる青年に足を止めないように伝え、私は二人を護衛するように祓い続けた。
到着するや否やすぐに硝子の治療が始まる。その間甘井と名乗った青年の傷を手当した私の元へ現れたのは、知らない男性と真希ちゃん、そして虎杖の姿だ。思わず駆け寄るがそこには彼≠ェ見当たらない。咄嗟に三人の顔を見つめた。名前は、言い出せなかった。呼んでしまえば、足元が崩れ落ちてしまいそうだった。
一番に口を開いたのは真希ちゃんだった。一呼吸置いてから彼女が私に伝えたのは「伏黒くんに宿儺が受肉した」という、想像すらしていなかった最悪の現実だった。
「……虎杖、くん」
今貴方は何を考えているのだろう。自分を責めて、苦しんでいるのだろうか?あまりに静かで、凪ぐような表情が何を意味しているのか私には到底分からなかった。