『届いていますか』
 


 
 端的な文章に彼の性格が表れているようでこんな状況にも関わらず、くすり、と笑みを溢してしまった。
 


 へし折られたガードレールに腰掛けながら常にポケットへ忍ばせているメモ帳にサラサラと「届いているよ、大丈夫」そう記してから近くに飛んでいた烏の影に触れて呪力を、否、生命を流し込む。飛んでいる彼から独立して動き出した影はゆっくりと首を傾けて私を見つめた。特別命令した訳ではない。でも生命を与えた私に対して影達は好意的なことが多かった。使役する主従関係というよりはそれこそ……血の繋がった母と子供のような、そんな形に近しい。
 

 
「……これを、伏黒くんのところまで届けてくれる?」
 

 
 黒で塗り潰された顔には表情は窺えない。けれどもカラスは嘴を開いてから半壊した誰かの車の影へと飛び込み、音もなく沈み込んでいった。――幸いなことに、私の術式で付与された魂は結界に「私」だと感知されなかった。羂索にとって取るに足らない穴だったのか、それとも想定外なのかは定かではないが、この事実は私がこちらに残った意味を確かなものへと昇華させる。……よかった。思わずそうやって息を吐いてしまうのを、許してほしい。
 
 

 虎杖くんたちが死滅回游に参加してから数日が経過した。伏黒くんからの報告には早々に離れ離れになってしまったと書かれていて心配になったが、今は合流出来たようだ。天使と呼ばれる術師が無事に見つかった時には報告の後「意外と見た目で分かりました」と彼の主観が少しだけ追記されており、荒んだ気持ちが少し丸くなったのが分かった。……伏黒くんは本当に良く気がつく子だ。文章だけのやりとりなのにどうしてこうも気遣いが得意なのか、見習いたくなる。
 

 
 彼からの返事を待つ間、無尽蔵に湧き出る呪霊を祓うために奔走した。そこら中を駆け巡り、影に魂を与え、喰わせる。小さな呪霊が固まって形を成したモノもあれば、巨大な体で押し潰さんばかりの奴らもいる。其処彼処に滲んだ血液は古いものから新しいものまで様々で、どれほどの命が散ったのか、もはや観測出来なくなっていた。それでも、私は祓い続ける。硝子達が控えた建物から高専にかけてのフィールドが、今の私の管轄だった。
 
 

 女性か男性か。それすらも分からない遺体に群がる羽虫のような呪霊達。私に気が付くと、生きている呪力に向かって一斉に飛び掛かってくる彼らは黒いガスの集合体のように見える。……少しだけ、思い出した。私は、彼らが変わったあの日もこんな呪霊と相対していた。
 どうにかしたくて、何も考えたくなくて、必死に祓い続けたあの時と現状。比較すると今の方がよっぽど最悪なはずなのに、頭の中は不思議とクリアだ。……最低限の呪力で的確に。細かい標的はまとめ上げてから一発で。術師人生……戦いの中で得た気付きやコツを意識しながら祓っていく。ガス欠で倒れていたあの時とは違う。彼に、彼らに教えられたことを全うしたい。影で作った弓矢を飛ばして真ん中で射抜き切り、最後の一本を放つと同時に周りの呪力反応が消える。これで、この辺りは殆ど祓いきった。
 
 

 
 ……そう、思った時だった。
 
 

 
 突如、激しい落雷のように空が弾ける。光と音が僅かに遅れて聞こえて、次の瞬間には山手が明るくなり、火が立ち上る。暫くの間理解が追いつかず呆然と立ち尽くしたが、その方角が何を意味しているのか悟った瞬間、私はすぐに影の中へと飛び込んだ。
 
 
 光の無い世界。目を開けても真っ暗な、影で出来た海が少しだけ暖かいと知っている人間は世界にどのくらい居るのだろうか。影から影を渡り継ぎ、泳いで、やっとのことで辿り着いた呪術高専にはまるで、隕石でも落下してきたかのようなクレーターが……クレーターと呼ぶにも深すぎる深淵がぽっかりと口を開けていた。いったい、何があった? 必死に辺りを見回して、少しでも情報はないかと彷徨う最中、知った存在の呪力を微弱に感じて瓦礫を横目に進んでいく。倒れていたのは、男性だった。
 
 
 

「……脹相さん!」
 

 
 
 無数の傷跡と怪我の数々……そして、生臭さ。駆け寄りながら近くの影を捕まえて、一番酷い切り傷へ押し当てるように使役する。浅い呼吸を繰り返す彼の手には獄門彊裏が握られていた。彼の居る位置からすぐ近くの穴は一際深く、少し覗き込むだけで眩暈がしそうになる。薨星宮にまで届いたソレに嫌な予感がした。……ここにいたのは脹相さんと、九十九さん。そして天元≠セ。彼だけが弾き出されたように此処にいる意味を数秒考えてからすぐに首を振り、その場にある幾つかの影に脹相さんの体を硝子の元へと運ぶように命じた。何が起きたのかも、何があったのかも、助かった彼に聞けば分かる。脹相さんが運ばれていくのを見届けてから、念の為獄門疆を自分の影の中へ沈め、私は地下深くへと一縷の望みを込めて飛び込んだ。
 
 
 
 奥へと誘われるように影を飛び移りながら進んでいく。その度に色濃く感じる彼≠フ残穢に思わず顔を顰めた。……此処で何が起きたのか、全て明白だ。薨星宮の中心部。無数の傷を白い肌に残した黒髪の男は私の姿を見るなり不機嫌そうに顔を顰めた。
 
 
 

「……今、キミとやりたくないんだけど」
「……私は、いつでも動けますよ」
 
 

 
 ――羂索。彼とは違う響きの名前を口にすると同時に、此処に降りてくるまでに触れた影全てを私の元へと呼び戻した=c…最悪の可能性を踏まえ、影を使った移動にも呪力を流し込んで正解だった。私の術式は影を溜めておくことは出来ないが、触れることに対しての解釈や定義には揺らぎがある。そう気付いたのは東京が壊滅してからすぐのことだった。
 

「何体いるんだよ」愚痴でもこぼす様な口ぶりで羂索は笑う。私は彼を見据えながら腕を引き絞る様に動かして、戻ってくる影の形を尖った雨の様に作り替えた。……影踏。その言葉と共に槍の雨が男に降り注ぐ。
 
 


 
「ッ、随分!物騒なことをするじゃないか!」
「……影踏=I」
 

 

 
 人の話を聞けよ!頬に汗を流しながら男は槍を避けようと身を翻すが、全てを避けることは不可能だ。現に体には無数の切り傷が刻まれて、肌を赤く染めている。今の羂索は、疲弊している。叩き込むには絶好のチャンスだ。……もっと遠くの、もっと触れてきた影達をこの場所に集める。エコーロケーションのように私の地点から呪力を飛ばし、影達に感知させろ。長くは持たない。今、この瞬間に全てを……!
 
 


 
「……あー、このままじゃ本格的に良くないな」
「……何を、今更!」
「私も疲れてるんだよ。……仕方ないか」
 
 

 

 仕方ない。その言葉が何を意味するのか考えるより先に私の身体は動く。槍の雨で行き場を限定し、長く棍棒のように伸ばした影を思い切り振り被った。あと、一歩。あと一振り。……これなら届く!
 
 
 

「……バクッ=v
「……ッな、」
 
 

 

 指先で半端に口が開いた狐のようなマークを作った羂索は厭味な笑顔を浮かべる。反射的に腕を引き、真っ直ぐ男に向かって影を投げ込むと槍の先端が右肩を貫いた。鮮血が舞い、痛みに少しだけ顔を歪めた羂索が「ひどいな」と悪びれず呟く。あんなヤツでも血は赤いのだな、と頭の何処かで考えながら追撃しようとしたが、ふざけた効果音を口遊み、指先を合わせるのと同時に男は丸呑み≠ノされたのだ。抉れた地面から跳ね退くように受け身を取りながら背後に転がる。
 

 ……羂索は自身の体を地中から這い出た呪霊に呑ませると、そのまま地面の中へと潜り込んでいく。逃してたまるものか、そんな感情で呪霊を追いかけようとしたが、彼が消えた穴の前に立つ攻撃的な気配に足が止まる。ひやり、と背中に汗が伝った。……なるほど、これが仕方ない≠フ内訳というわけだ。そう悟ってしまうほど強大な悪意の塊。明らかな異形ではない、ヒトガタを取った呪霊。複数の人間を歪なオブジェのように不規則に接着した、生理的嫌悪感を覚える姿。
 

 
 
『……足、アナタの足、ココに、此処に、ココニ……』
 
 

 
 カク、カク、と本来なら曲がらない方向に関節を屈曲させ、自身の右肩らしき部分を指す呪霊は私の足を求めているらしい。粗雑に取り付けられた誰か≠フ四肢の一部は無理に折られたせいなのか骨が露出しており、見ていて気分の良い物ではなかった。……これは、一級か。それともそれ以上か。はっきりと聞き取れる言葉を話し、意思を持っている。嫌なタイプなのには違いない。
 
 空を覆っていた雲の切れ間から一筋、二筋と月光が注ぐ。幸いこの場所は私の術式と相性がいい。ゆっくりと呪霊から目を離さずに地面に広がる瓦礫が寄せ集められた影に触れ、実体化させていく。闇夜に吠える狼を、北欧神話のフェンリルをイメージして、隣へと控えさせた。……力を貸して欲しい。そんな気持ちを込めて彼に魂を与える。蒼白い光を載せ、ぶるりと毛が逆立った。
 

 
『あ、あ、あ、ア、ア、アシ、アシ、アシ……!』
 

 
 地面に爪を立て、勢いよく走り出した狼は呪霊の手足を避けながら頭部へと思い切り噛みつく。金切り声を上げながら刃物のように磨がれた腕を振り回す呪霊に狼の体から影が漏れ出した。痛々しい姿に唇を噛みながら、私は狼が作った隙を突くように背後から滑り込み、長さの違う奇妙な脚を根本から切断する。がくり、と体勢を崩したオブジェから狼は口を離した。……その瞬間を、私は逃さない。
 
 
 

「――ッは、ぁああ!!」
 
 

 
私のパワーでは敵わない相手が多い。だからこそ肘を支点に一瞬で振り切る。構える時点では出来る限り力を抜いて、そして、インパクトの瞬間に全ての力を込めた。闇雲な特訓ではなく理論的に。テコの原理を使った、武術。その一太刀は確かに呪霊の首を吹き飛ばした。手応えもあった。溢れ出した呪力は死の合図……そう、思った筈だった。
 
 

 
『い、い、いたい、痛い、イタイ……! 』
『あたま、あたま、ない、ない、ない』
『あ、あ、あ、それ ちょうだい 』
 

 
 
 グルン、と勢いよく。骨の折れる音を響かせながら呪霊の体が折れ曲がる。その顔は無くなったはずなのに、目が合った気がした。……殆ど経験則から来る予測反射のようなモノと、ひとつまみの幸運。突如勢いよく伸びた呪霊の腕は、私の攻撃を模倣したかのように一閃する。首元にヒリリとした痛みが走り、靴の隅とアスファルトへ鮮血が生き物みたいに広がったが、予想よりも出血は酷くない。幸いにも頸動脈は傷付いていないようだ。……言葉通り、首の皮一枚が繋がった。
 


 狼を追うように呪霊は歪な手脚を伸ばして攻撃を続ける。地面を抉り取る勢いを見るに、あれが直撃すればきっとひとたまりもないだろう。不快な音階で笑い、闘いを楽しむ姿は実に呪いらしかった。
 
 


 ……このままでは、勝てない。
 


 
 気持ちで負けるな≠サれは、中学時代に私のクラスが体育祭で掲げていたスローガンだ。この言葉が採用された理由は単純な多数決だったが、他にも沢山の案がある中で何処か抽象的なセリフが選ばれた訳を、私や他のクラスメイトも子供ながらに知っている。……それは、確か実力差だ。他のクラスと比べて圧倒的に運動部が少なかったあの時……そんな自分達を鼓舞するような、はたまた言い訳し正当化するような言葉を無意識に選択していたんだと思う。実際体育祭では奇跡は起きず、順当な結果に収まりながらも打ち上げを楽しんだ記憶があった。
 


 ……なら、この状況は?
 

 
 今感じている自分の力が及ばない感覚は、きっと、正しい。一手先を読むことができても、それを覆す何か≠ェ足りない。このまま避け続けるだけではジリ貧になるし、かといって逃げる手段もあまり残されていない。うまく逃げられたとしてもこの呪霊を此処よりも上に向かわせる訳にはいかない。私に今、何が出来る?何が、
 

 
「ッつぅ、……!?」
『あ、は、は!アハハ!!』
 

 
 
 一瞬判断が遅延した。それを自覚するより先に私の体は瓦礫の中へと放り出される。背中に受けた衝撃に呼吸が止まり、喉が引っ付いて浅い呼吸が落ちた。これは肋骨がやられた、かもしれない。高専時代の嫌な記憶が蘇り、足の裏を付けながら如何にか体を持ち上げる。ズキズキとした痛みが確信に変わるまで、そう長くない。痛みを自覚すればパフォーマンスが落ちて、その結果……
 

 

『ひ、ひ、ひひ、ヒヒヒ』
 
 

 
 耳を塞ぎたくなるような骨折音で、過去に殺した誰かの腕を捻じ曲げながらオブジェは私の首を捕まえる。必死に足蹴にしながら抵抗するも、呪霊は私の呪力の外郭を押し破り、ギチギチと徐々に力を込め始めた。少しずつ息が苦しくなり、視界がぼやける。……まだ、だ。あと少し、確実に触れられる距離まで。当て付けのつもりなのか、楽しげな呪霊が私の顔を覗き込む。苦しむ顔を見たいのだろうか?趣味が悪い。だけど、これで、



 ……月明かりが呪霊の半身に影を落とした。私の手が、同じようにコイツ≠フ首に届く。わたしは、この瞬間を待ち侘びていた。


 
 
 


「………領域、展開=v
 




 
 
 掠れた声で唱えたその術式。瞬きする間に私と呪霊は一点の光すらない闇の中に取り込まれる。知性があるせいか驚き、周囲を見渡した呪霊の体に背後から無数の手が伸びた。抵抗虚しく呪霊の体は磔にされ、私はオブジェから解放される。何度かむせ込みつつも影で出来た床に降り立つと、呪力が体に漲るのが分かった。とぷ、と私の体を支えるようにフェンリルが顔を寄せ、甘えるように擦り付いてくるのをそっと撫でてやる。……ここは、私の領域だ。
 
 

「……常夜晦冥≠アの中では私の呪力と、影の呪力。全てが共鳴している」
『あ、あ、あ!?』
「今は私の意思で彼らを使役しているけれど、自我を持たせることも出来る」
 

 
 
 影で出来た球体の中で術式の開示を行う。呪霊はその場から逃げ出そうとさらに歪な形へと自身を変貌させるが、呪霊の影自体がこの領域に同化しているので逃げ出すことはできない。……瞼を閉じて、そっと地面に手を付いた。この領域の中では影響≠ノ使用する担保はこの領域内にいるすべての存在が対象になる。少量の呪力を流し込み、ドクン、と空間が命を持ったかのように鼓動した。
 
 
 
「……影響¢ォりない分は、アレから食い尽くして=v
 
 
 
 ――そこからは、一瞬だった。我先にと言わんばかりに無数の影が呪霊の口から押し入り、皮膚を食い破り、荒らしていく。苦しげな悲鳴をあげた呪霊だったが、すぐに声帯すらも取り込まれた。……おそらく、この領域は対人よりも呪霊と相性がいい。呪力で形作られた存在全てを、産み落とされた影の命たちは取り込もうとする。私の呪力だけでは足りない飢えた影達が散り、領域が解除されていく。そこにはもう、何も残されていなかった。
 
 
 

 
「……っ、はぁ、」
 
 

 
 
 私は、緊張の糸が解けたように思わずその場へと倒れ込む。空はもう、白み始めていた。前に五条くんから聞いた「術師の成長曲線」の話は、きっと、こういうことなのだろう。私のきっかけは今日この時だった。イメージ自体は前から重ねていたし、もし、何かがあった時にアドリブをする心構えは一応、作っていた。同じく影を扱う呪術師である伏黒くんが領域展開を会得した時から、ずっと。
 
 本当はこのまま目を閉じてしまいたかったが、カァ、とすぐ側から聞こえた囀りに首を傾ける。一枚の紙を咥えた顔のない烏は私にそれを差し出した。
 
 
 

「……良かった ありがとうございます=v
 
 
 

 数秒書かれた感謝の意味を考えて、先ほど自分が届いている旨を伝えるメモを渡したことを思い出す。……それに対して律儀に返事をくべるのが、伏黒くんらしい。体には擦り傷も切り傷も無数にある、正にこんな状況ではあるが、やはり私は彼の言葉に笑みを浮かべた。……感謝するのは寧ろ、私の方だ。伏黒くんの領域がないと私は、ここに辿り着けていなかったかもしれない。
 
 
 

「……硝子のところ、行かないと」
 

 
 
 ぐ、と体に力を入れて立ち上がる。久しぶりにこんなにも血を流したせいかぼんやりと頭が揺れた。……少し、懐かしい。勿論こんな形で懐かしさを覚えるのもどうかと思うけれど、それでもやっぱり懐かしい。
 
 今度こそ私は伏黒くん達に伝えなくてはならない現状が沢山ある。それを整理するためにも脹相さんと話さなくてはならない。だから、いかないと。私はゆっくりと、薨星宮の残骸に溶けるように影の中へ沈んだ。

常夜晦冥



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