「……来たな、閑夜捺」
「……はい」







荘厳とした雰囲気が漂う日本の呪術界を取り仕切るその場所。薄暗い空間が広がる中、柱に埋め込まれた常に煌々と燃え続ける蝋燭と頭上から中央を円形に照らす灯りだけがここに光を生みだしている。立った人間を値踏みするかのように衝立を円座状に並べた光景は私にとってあまりに異様な光景だった。


丁度正面の衝立の奥から嗄れた声が私の名前を呼んだ。当たり前なのかもしれないけれど、この人達も私の事を知っているんだな、なんて現状とあまり関係ない事で脳を動かす。巫山戯ている訳ではない、ただ何かを考えていないと落ち着かなくて、緊張が解れてくれそうになかった。全ての方向から見られているという漠然とした不快感にじっとりと汗が滲む。こんな場所に何度も足を運んでいたなんて、やっぱり五条くんのメンタルには恐れ入る。ゆっくりと喉仏を上下させて唾を飲み、意を決して「一介の補助監督の私にどんな要件ですか?」と尋ねた私にヒヒ、とファンタジー映画でしか聞かないような笑い声が何処からともなく響いてきた。……一体何が可笑しいのか理解に苦しむ。






「お前は今回の事件の首謀者、そして協力者である五条悟、夏油傑の同級生だ……違うか?」
「……私は確かに2人の同級生でしたが、首謀者や協力者という言葉に心当たりは無いです」






そんな話聞いたこともない、と態とらしく肩を竦める。実際私は2人からそんなことを教えられた覚えもなければ、百歩譲って体だけを使われている夏油くんが首謀者として挙げられるのは理解出来ても、五条くんまで一括りにされる意味は全く分からない。上からの通達の内容は彼を共同正犯とする物だったが、なんとも理解し難いと唸ってしまった。元々信用出来ないと思っていた上層部を見限るきっかけを与えてくれたのは助かったが、今回の事件に彼を1人で向かわせておきながら封印されたら呪霊界を永久追放なんて明らかな私怨だ。……むしろ私怨であれば分かりやすい。今の呪霊と術師の関係や力量差を見ていても最強である彼を追放する"意味"を勘繰ってしまうのは仕方がないだろう。腐ったみかんと称される彼等が本当に呪術界と行末を案じているのか、そうでは無いのか……考えるだけ不毛だ。私が今日ここに来たのはそれを追及する為ではない。私はここに"お願い"をしに来たのだ。





「嘘だ!」
「お前も夜蛾の下で育ったんだろう、共犯じゃないと何故言い切れる?」
「……確かに夜蛾正道は私の担任でした。ですが記録にもある通り、私は術師を辞め、補助監督になっています。補助監督としてのキャリア自体は京都での楽巖寺学長との付き合いの方が長いです」
「今年度は東京高専に戻っているじゃないか」
「"あの"夏油傑の計画は綿密に練られた物でした。だから私達も総監部も対応が遅れた……今年で私がどうにか出来る物ではないでしょう」





あくまで冷静に。落ち着いて事実を述べていく私に総監部は口を閉ざす。ヒソヒソと囁き合う声が木霊するのを聞きながら小さく息を吐き出して、気は進まないが「私みたいな女に何か出来ると?」と言い放つと小さな相談はピタリ、と止んで、クツクツと楽しそうな笑い声があちこちから私を包んでいく。……これだけで、それもそうだ、と笑うのも、根強い女卑も本当は気に入らない。補助監督として接してきた生徒には女の子も沢山居るし、性別のせいで差別されてきた経験のある子も多かった。本来ならその子達の未来を明るくするために大人が身を削る必要があるのに、今の私は無力だ。まだ事を荒立ててもいけない、兎に角上層部の信用を得るのが先決だ。





「……良いだろう。今はお前の主張を信じ、認めてやる」
「……ありがとうございます」
「ただし、此方もこれ以上の波乱や面倒事は避けたい……呪術界を裏切らないことを証明出来るかね?」





「証明」という単語に少し目を伏せて考えるフリをした。やはり向こうの手口はこれなのか、と聞いていた情報と一致した事に安心しながらも呼吸を整える。……本当の正念場は恐らくここからだ。化かし合いならぬ、言葉遊びとでも言おうか。こほん、と咳払いをしてから総監部にどういう意味か、と尋ねると右後ろからヤジを飛ばすような声が上がる。





「"縛り"だ」
「……縛り、ですか。私はそれで構いませんよ」
「話が早くて助かるねぇ……さてどんな縛りがいいか……」
「ですが、私からも1つ総監部に頼みがあります」





……ほう?と語尾が上がったその口調から私の頼みに興味を示しているのが分かる。滑り出しは好調、後はこの申し出がどう受け取られるかに掛かっている。若干強ばった体を解すように手をグーパーと握ったり開いたりするのを繰り返し、小骨が喉に突っ掛かったみたいに声が発し辛いのを無理やりお腹の底から押し出した。声の上擦りを抑えるため意図的に低いトーンで、それでいて私の意思を真っ直ぐに伝えられるような堂々とした口調を崩さずに。







「私、閑夜捺を呪術師として復帰させて下さい」







ざわめき。一瞬で私に向けられる視線は驚愕に染まった。なんだと、まさか、なんて声が確かに聞こえる暗闇の奥を真っ直ぐと見据える。例えそこに誰もいなくても、付け入る隙を与えさせない強さというのはいかに焦りを見せない事にある。少しでも強く、少しでも厄介そうな女に見せられるよう自意識を殺してただ、そこに胸を張って佇んだ。伸びた背筋と今回の決意は同じくらいに上を向いている。森の中の木々が風に揺られて触れ合い、葉を擦り合わせるような賑わいを見せる総監部に私はそのまま追撃するように言葉を続けていく。






「今回の渋谷での一件で私達呪術師側は多大な被害を受けました。東京の壊滅、ただでさえ希少な術師の死傷……放たれた無数の呪霊を祓うための手段は少しでも多い方がいい、違いますか?」
「…………」
「一級術師である七海建人は死に、冥冥は消息を断ち、私達が今まで頼り切っていた唯一の存在……五条悟はもう居ません」
「……だから自分が戻ると?」
「これからの呪術界の安定のため、そして日本の平和のため……人手がいる。夜蛾正道の指示の下動いていた"特例"も今では意味を成しません」







「全ては、未来のために」






体を直角に折り曲げて深々と頭を下げた。そう、私が総監部に来た理由はこれだ。渋谷での一件以来、現場で動ける多くの高専付きの術師は怪我、酷ければ死亡している。去年の百鬼夜行以上の甚大な被害を受けた東京は最早都市としての力を失っていた。現在東京を中心として放たれた呪霊は実に1000万にも上るという。きっと残っている学生達もその処理に回される筈だ。その負担を少しでも減らすため、彼の代わりにはなれずとも、近くで支えるためにはこれが1番だと判断した。夜蛾先生が敷いてくれていた特例も彼が都合のいい死罪の烙印を押されたときに恐らく破棄されているだろう。ならば、いっそ、こうすべきだと考えた。


一緒に北海道の任務に行った時にも思った。きっと術師としては優し過ぎた七海くん。立派な、誇れる私の後輩。苦しんだ彼がもがきながらも術師としてこの場所に戻って来ていたのに私はずっと目を逸らしてきた。誰もそれを咎めなかったし、五条くんに至っては私が術師を辞めた事を安心したとすら言っていた。それは私の周りの人の優しさで成り立っていた事であり、きっと私の甘えでもあった。……当時は若くて、何もわからなくて、目的も無くただひたすら呪霊を祓い続けていたけれど、今は違う。




居なくなってしまった人の意思を継ぎたい、これ以上居なくなる人を減らしたい、未来ある彼らを護りたい。そんな明確な目標が私の中に宿っている。私は今私にできることをしなければならない。彼という指導者を失った学生である彼らを、五条くんが愛した生徒達を傷つけさせてはならない。そして、その心を壊さないように大人である私達が立ち上がらなければならない。






「……良いだろう、閑夜捺。お前を以前の階級である"準一級"からの復帰を許可する」
「……ありがとうございます」
「して、閑夜。お前は呪術界に何を誓う?」
「"獄門彊の封印を解かない"ことはどうですか?総監部は私と彼らの繋がりを疑っているようなので悪くはないと思います。……たとえ罪に問われても裏切りをする人間に呪術規定は通用しませんので」






提案を聞いた総監部は馬鹿にしたような嘲った声で笑う。そして機嫌良さそうに良いだろう!と1人が声を上げ手を打ち、他の全員も一斉に拍手し始める。パチパチパチパチと静かな空間に反響するそれは不愉快だったが、私の要望は通じたらしい。軽く首だけをもたげる様に四方に感謝を表した私は頭の中で言うべき事柄について整理を始める。……縛りは言葉のままに結ばれる。ここを誤っては水の泡。"彼"からの助言を思い出しながら紡ぐ言葉を探していく。






「改めてここに宣言しよう!我々は呪術総監部は閑夜捺の呪術師復帰を許可する!」
「……そして私、閑夜捺は自らの手で獄門彊を開門しない事を此処に誓います」






締結!!!と叫ばれた声は裁判官がガベルを鳴らすようだった。一瞬電撃が走った様な不思議な感覚が体を駆け巡り、それが私達の間の"縛り"が結ばれた証だと悟る。他者との間に結ぶなんてあまり出来る経験じゃないなと自嘲してから私は身を翻して暗闇の中を後にする。……あぁそうだ、もう私は術師だった。そう気付いてすぐに足元から沈むようにして影の中に溶けていく。深くて光すらもない黒は先程まで居た部屋に似ているようで、似ていない。悪意が篭った闇ではなく、私が生まれた時から私を包み込むその場所は何処か心地良さすら感じられた。……これからもよろしくね、と静かな願いを零して掻き分けるように腕を動かして泳いでいく。私は今日から、呪術師だ。












急遽の総監部からの呼び出し。気が重く、足が中々前に進まない。呪術総監部は一般の術師、ましては補助監督の私なんかが1人で行く場所じゃない。大方今回の呼び出しは渋谷での事件の事情聴取、もしくは五条くんや夏油くん……夜蛾先生との関係か。パソコンにもメールとして通達された彼らの処遇に怒りで震えたのは記憶に新しい出来事で、私も硝子も伊地知くんもみんな納得出来ていない様子だった。もう上層部は信じられないし、信じたくもない。それに、虎杖くんの処刑も、その執行人のことも……





「……捺さん?」
「……え?」





不意にぱしん、と手首を掴まれた。突然の出来事に抜けた声を吐き出し、顔を上げたそこには、呪術高専には珍しい白い上着を着て、長細い物を背負った男の子が立っていた。中央で分かれた黒髪と穏やかな顔付き。……どうしてだろう、初めて会った筈なのに私はこの人を知っている気がする。思わずじっと青年を見つめてしまったのに彼は戸惑ったように視線を彷徨わせて「あの、えっと、」と眉をハの字にしていた。彼を困らせている、と気付いた私が直ぐにごめんなさいと謝りながら頭を下げると、彼もまた掴んでいた私の手首を離して、此方こそ!なんて言いながらワタワタと体の前で両手を振っている。なんというか、不思議な子だ。まだ随分若く見えるし学生だろうか?にしてもこんな子高専に、と、そこまで考えてから、はた、と気付き、もう一度青年を見つめた。背負った刀、陰陽師を思わせる白いカスタムの制服、つい最近見た気がする顔だち……もしかして彼は、





「乙骨憂太……くん?」
「あ……は、はい!そうです!すみません急に呼び止めて……」





へにゃり、と効果音が鳴る安心したような笑みを浮かべた彼は露骨にホッと息を吐き出して肩を落とす。……そう、彼は今正に私が憂いていた処刑執行人である"乙骨憂太"その人だった。海外に行ってからの写真が無くて伊地知くんに見せてもらったのは日本に居た時の彼の姿だったけれど……随分雰囲気が変わったように思う。私が見た時はもう少しオドオドとした様子が伝わって来そうだったのに、実際こうして見る彼は身長も高く、髪型も変わり……何より何処か堂々とした自信が溢れているようにも感じる。想像していたよりも柔らかな空気感に思わず緊張が解けてしまった。真希ちゃん達の同級生でもある彼だけど、向こうで随分良い経験をしたのかな、と久しく忘れていた微笑ましさに口元を緩めたが、ふと彼に捺と名前で呼ばれた事を思い出す。そうだ、彼はどうして私の名前を……?私は補助監督として見る機会や名前を知る機会はあったけれど、逆に向こうで過ごしている彼が私のことを聞くタイミングなんて無いし、その必要性も感じられないのだが……





「五条先生から聞きました、その……先生のカノジョさん……なんですよね?」
「……それはちょっと違うけど五条くんが私を?」





え!?違うんですか!?と私の質問に答えるより先にギョッとして目を見開いた彼の反応になんとも微妙な気分にさせられる。また五条くんが素直な少年を騙していたのかと思うとあまりに申し訳ない「だって、先生めちゃくちゃ……」と彼は何か言い掛けていたけれど、何となくその先を聞きたく無くて誤魔化すように五条くんが何故私のことを彼に教えたのかと尋ねると、乙骨くんはそうだった!と懐から一枚の紙を取り出してそっと私に手渡した。開いて良いのか分からず、思わず彼を見上げたけれど乙骨くんがこくり、と首を縦に振ったので、そっと私は指先で捲るようにして折り畳まれた紙を開いた。





「…………これは……」
「僕が書いたものです。呪符になっているので僕と捺さ、……じゃなかった、閑夜さんにしか読めません」





乙骨くんが書いた、というその紙には丁寧な字でつらつらと彼の現状を示す言葉が綴られていた。事前に五条くんから大事の時の説明を受けていること、彼がこれから虎杖くんを助けるために動くこと、上層部を欺くために敢えて縛りを作り芝居を打つこと、何かあった時は閑夜捺を頼るように言われていることが記されている。きゅっと唇を噛み締めて、つい乙骨くんを見ると彼は柔らかな笑顔を浮かべていた。彼の持つ白は五条くんのものとは性質が違う。だけど、希望に溢れた温かいものであることは確かだった。



こくこくと何度も頷いて内容を理解したことを伝えると、彼はその紙を指先で弾き、ぽっと一瞬で燃え上がらせて塵にする。そして風に乗った塵が窓から出ていくより先に壁に滲み出した黒いシミから這い出るように出てきた鋭い歯の生えた大きな口が全て"飲み込んで"しまったのだ。乙骨くんは「ありがとうリカちゃん」なんて言いながらそれを当然のように受け入れていて、なんというか、色々と衝撃的だ。勿論私も乙骨憂太の秘匿死刑と祈本里香の関係性は知識として知ってはいるが、こうして目の前で行われると感心すらしてしまう。祈本里香は解呪されたと聞いているけれど……一体どういう原理なのだろうか。






「……閑夜さんも今から総監部に?」
「あ、うん……呼び出しされちゃって」
「アイツらは自分達のプランが崩されるのを嫌います。閑夜さんにも縛りを強要する可能性があるので、」
「わかった、気をつけるね」
「……なんていうか、僕が言う事じゃないですけど……落ち着いてますね」






自分が落ち着いている、と評されたことに思わず目をぱちぱちと瞬かせて頬を緩めた。そんなことないよ、と答えた私の言葉に嘘はない。さっきまでは少しも落ち着いていなかったし、寧ろ焦っていたくらいなのだ。だけど不思議と彼と話し、五条くんからの確かな信頼に触れたことで燻りかけていた自分の魂や精神が湧き立ち始めた気がしたのだ。不安は拭いきれないが、立ち回り方はハッキリした。縛りも事前に知っていれば契約のラインを言葉の綾で誤魔化すことも出来る。





「これも乙骨くんのおかげかな?」
「え!?僕は何も……!」
「ううん凄く頼りになったよ、ありがとう乙骨くん。五条くんが君に託すのも分かる気がするな」
「……それは、閑夜さんもですよ」





先生が信じる理由がなんとなくわかった、と照れ臭そうに微笑む姿はやっぱり学生らしくて彼の持つ呪力とのアンバランスな釣り合いを見せている。乙骨憂太くん、特級術師である彼も例外なく少し"変わった"ひとだった。なら五条くんの信頼と折角の君からの好印象を裏切らないようにしないとね、と戯けた私に、もう、と気恥ずかしそうに呟いた彼は手を振って私の背中を見えなくなるまで見送ってくれた。最後には捺でいい、とも伝えると彼は少しだけおろおろと困ったように腕を振ってから改めて私を捺さん、と呼んでくれたのだ。その声が、視線が、どれほど心強いものだったか、彼は気付いているのだろうか。……重苦しい扉が目の前に立ちはだかる。でも、私は決意に満ち溢れていた。まずは私の立場を勝ち取り、上手く縛りを作る。それが今回の使命だ。ゆっくりと腕を伸ばして深呼吸する。あくまでは私は私、向こうのペースに飲まれない、そう心に決めてから私はゆっくりと厳かな扉を潜っていった。













影を抜けた先ではすっかり辺りが夕闇に染まっていた。一度は補助監督の控え室に戻ろうとしたけれど、じきに私が補助監督を辞め、呪術師に戻ったという話は高専にも広がっていくだろう。態々言うべきでもないか、と思い直して、ただ私は夜の足音が近付くこの時間帯に校舎を練り歩くことにした。山奥に建てられた呪術高専は今回の渋谷での被害は及んでおらず、いつもと変わらない顔をしているのに、その中にいる人が随分と形を変えてしまった事実が重くのしかかる。最早悲しみなんて言葉では足りない感情を、他のみんなはどうやって昇華しているのだろうか。



学校の裏手の非常階段。当時よりも随分古くなってしまったけれど、相変わらずここはひっそりと存在している私の秘密の場所なのだ。渋谷に行く前日に彼と巡ったあの日は、本当に幸せだった。悩み多くて幾度と無く足を運び、私の不安を詰め込んだようなこの場所に1人で座っているといつも決まって彼が来てくれた。そう、こんな夕暮れ時にいつも。校舎が遮る夕陽が移動するにつれて私を照らして、涙も酷い顔も全部隠してくれるこの時間が私は好きだった。……でも、いくら待っても彼はここにやって来ない。日が暮れて地平線へと沈み、まるで世界が反転してしまったかのようだ。深みのある青にも似た夜が空の全てを包み込む。それでも私は静かにそこに座っていた。何かに縋りたくて、あり得ない希望を見たくて、現実から逃げたかったのかもしれない。ついさっき現実的な決断を下したと言うのに、本当に人間は矛盾だらけの生き物だ。





他よりも一等青白く輝く大きな星は、貴方に似ている。"ポラリス"という名前のその星はこぐま座の中にあり、北斗七星が分かれば簡単に見つけられるらしい。北海道で彼に少し教えてもらってから何となく調べて得た、知らなくてもきっと生きていくのに困らないであろう知識。……だけど、空でも一際目立つその姿を見失う事なんて殆どないんだろうな、と思った。常に光り輝いているそれは、どこに居ても自分が立つその場所の方角を知ることが出来る"導きの星"とも言える。



今思えば、私にとっての指針は彼だった。彼が呪術界に残っていたからこそ、私は逃げずに戦えた。今日この日まで生きてこられた。ついさっきだって乙骨くん越しに伝えられた彼の意思に背中を押された。私は何度も彼に助けられ、何度も彼の前で後悔した。数え切れないくらいに私は五条くんに支えられていたのだ。そう、私にとって彼は、きっと、





思わず手を伸ばして、その輝きに触れようとする。何百光年も離れた宇宙の先で、地球から見上げる人間に返事をするように瞬き続けている、目を離せなくなるほど美しいその星に向けて、私は、北極星に手を伸ばした。








「あれって、北極星?」
「そうだね、天球のてっぺんに近くて、北斗七星も向こうにある……本当は黄色っぽいんだけど、青白く見えることもあるみたいだし、多分あれかな」
「五条くん、詳しいね」







……不毛だった。なんで私はこんなにも、寂しく感じているのだろうか。貴方に会いたいと思ってしまうのだろうか。ぎゅ、と手に力が篭る。指を折り畳んで握っても、その星を掴む事は出来なかった。行き場を失った右腕が首元へと伸びて、磨かれたチェーンにぶら下がる私にとっての一等星に触れる。渋谷で千切れて赤く染まった星は今は元の輝きを取り戻し、新たなネックレスへと変化していた。何年も前に彼から貰ったこの星は、あの時私に何を伝えようとしていたんだろう。




じわり、と水を塗った紙に絵の具を垂らしたように夜が滲んだ。いつのまにか頬を伝っていた水分をそっと拭って深く深く息を吐き出す。私は生きている。彼も、生きている。彼は生徒を残して死ぬような弱い人ではない。頭では分かっていても、それでも……抱え切れないほどの不安で胸が苦しい。月に照らされ艶めく、真っ白な髪を揺らす貴方に目を細められたらどれほど幸せなのだろうか。長い睫毛に囲まれたこの世の青と美しさ全て閉じ込めた瞳に見つめられると、どれほど息が詰まるのだろうか。都合が良すぎるなんてわかっている。それでも、私は彼に会いたかった。







「五条くん、」








もう何度こうしてあなたの名前を呼んだのか思い出せない。拭ったはずの水滴が溢れて止まらなくなっていく。何度目元を擦ってもそれは留まることを知らない。捺、と楽しそうに私を呼ぶ声も、視線を合わせる為に決まって屈んでくれるスラリとした長身も、大きくて暖かくて私を包み込んでくれる掌も、全部。全部が恋しくて堪らない。私は彼と2人で並んだ時の首の痛みも、距離感も、歩幅の違いも、覚えている。鮮明に思い出せる。今は触れられない、感じられない事実とさびしさに胸の奥が震え、どうしようもなくなる。彼がいない日々は空気まで妙に稀薄になってしまったようで、息がくるしい。




……やっぱり私は弱くなってしまったのかもしれない。苦しくて、辛くて、悲しくて、混ざり合った感情が何なのかさえも自分では分からなくなっている。そして、確かにそこに芽生えた想いを、張り付いた花弁を、取り除くことが出来なくなっていた。奥深くに刻まれた遠い憧れだと思っていた。見ないふりをして拒絶した。それでも彼は、優しかった。五条くんの瞳は真っ直ぐで絶対的な輝きを見せる時もあれば、どこか寂しげな迷子のような儚さを写す時もある。彼の感情や私が彼を見るその場所によって表情を変え、それでいて彼の持つ青は不変で決まって美しい。今も夜空に無数に散らばる星々の概念そのものを身に纏い、包含する瞳。私は彼より綺麗な人を知らない。







「これでも結構我慢強いって知ってた?待つのには慣れてんの」
「っ……」
「俺の気持ち分かってんなら後は、捺に俺を好きになって貰えばいいだけじゃん」







毎晩夢を見る。この1年間にも満たない僅かな時間で彼と過ごした日々を何度も、繰り返して夢を見る。俯瞰したように自分と彼のやりとりを見ている"今の私"は五条くんが浮かべているどうしようもなく愛おしそうなその顔に、やっと気付かされる。何でもなさそうに笑う彼の目が決まっていつも愛に溢れていたことにやっと、気付いた。私は今まで、私がこんなにも彼に愛されていた事を、本当の意味で正しく理解出来ていなかったのかもしれない。そして私がやっと彼の名前を呼んだ時、決まって視界は無機質な天井へと変化しているのだ。それがあまりに虚しくて、辛くて、







「ごじょう、くん……っ」







最強の貴方ですら居なくなってしまうんだからきっと、世の中に絶対なんてことはあり得ない。貴方にこんな想いを抱くなんて、数年前までは想像すらしてなかった。



涙越しに見る高専の山奥の星空は無駄な灯りがなく、澄んで美しい。網膜に掛かっていた霧が晴れたようなその感覚は、視界自体はぼやけているのにどうしてか今まで以上に鮮明に、何にも囚われる事なく夜を見つめられた気がした。まるで古代に恒星をなぞって作られた星座のように、私の中にあった長い年月を掛けて散りばめられた彼への想いや感情が点と点を結び1つに繋がり、収束していく。








「…………すき、」








小さく息を吸い込み、ゆっくり、ゆっくり、焦ったく肺から押し出していく。すき、と零れた声はあまりにも小さく、でも、確かに消えることの無い真実だった。恋愛小説で読んだ雷が落ちたような衝撃も、線香花火が弾けたような感覚もない。静かで、あまりにも呆気ない"気付き"だった。私は、五条くんが、すきだ。





運命的な響きでも、よくある恋に落ちるような表現でもない。けれど、理解してしまった時に溢れ出して止まらなくなるのは本当だったみたいで、今度こそ星も見えないくらいに目の前が歪んでいく。噛もうとした唇が震えて逃げて、堪える事が出来ない。頬を伝う無数の涙が首筋にまで流れて胸元さえも濡らしていく。幾つかは耳の縁に引っ掛かり、雨垂れみたいに地面を濡らす。それでも止まらない。表面張力で補える量をとっくに超えたそれは合わさった歯の隙間から嗚咽となって零れ落ちる。もう見ていられなくて私はついに膝を抱えて顔を埋めた。どうしよう、私は五条くんがすきなんだ。こんなにも、好きだったんだ。







「ひでえ顔」







啜り泣く私の隣に、不意に何かの気配を感じた気がして勢いよく顔を上げた。けれど、何もいない。当たり前だけどそこに五条くんは、いない。自分が態々1人分空けて腰掛けた階段のスペースを見て思わず少し笑ってしまった。こうまでして彼の居場所を作るなんて、私は彼のことがすきすぎるのかもしれないな、なんて。相変わらず涙は止まらないのにそれでも私は笑っていた。こんな顔、きっと彼に見られたら笑われてしまう。……いや、それとも優しく拭ってくれるのだろうか。寧ろもう五条くんは私の泣き顔なんてとっくに見慣れてしまってるのかもしれない。






「返事は、はい、の時だけ……」






自信に溢れた五条くんらしい意地の悪い笑顔が脳裏に浮かんだ。少し震える指先を折り畳み、小指だけを持ち上げて五条くん、と名前を呼ぶ。今ではその響きすらも尊くて、失くしたくないものに感じられた。……ねぇ、五条くん。私、五条くんに会いたい。会って、おかえりを言いたい。遅いよってちょっとだけ理不尽に怒りたい。ご飯も一緒に食べたいし、今なら五条くんがしたいって言うなら貴方のベッドに2人で寝てもいい。沖縄だって、北海道だって、他の場所にだって一緒に旅行に行きたい。前に見せてくれた夜景も、もう少し穏やかに連れて行ってくれるなら何度だって見たい。



五条くんに抱きしめられた時のあったかさも、何も考えられなくなるくらい安心する匂いも、貴方に呼ばれる"捺"という名前も、全部、全部が大切で、覚えておきたい。刻んでおきたい。2人でこの指に誓った約束も、絶対に守るよ。あなたがここに座ってくれる日が来るまで忘れないように大切にする。そして、今度こそ私から、ちゃんとこの気持ちを伝えるから、だから、








だから、はやく、かえってきて。







北極星に手を伸ばし、



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