閑夜さんは、呪術師になった。








なった、という言い方は実際には適切では無い。彼女が元々は呪術師であったことは以前聞いた事がある。今回の一件で彼女は総幹部に頼み込み補助監督から呪術師へと転向した、というのだ。俺がそれを聞いたのは家入さんからで、居ても経ってもいられずに閑夜さんの所まで走っていけばひどく驚いた顔をされたのが記憶に新しい。伏黒くん、と呼ぶその顔は俺のよく知る彼女のままなのに、確かに変わってしまった立場に彼女が居る事を意識するとなんだか少し胸の奥が苦しくなった。呪術師に戻ったって本当ですか、と不躾に聞いた俺に「……そうだよ」と笑いかけた表情は不思議と穏やかで、落ち着いた物に感じられる。自分から此処に来たのに何を話せばいいか、何を言えばいいか分からなくなり、黙り込んだ俺の肩にそっと触れた閑夜さんは、改めてよろしくね、と相変わらず人当たりの良い笑みを浮かべていた。


……どうして彼女は、笑えるのだろうか。きっと笑えるような状況ではないはずなのに、それでも閑夜さんは何も変わらないみたいにそこに立っていた。それに安心する自分と、不安に思う自分がいる。彼女はきっと、無理をしている。根拠も無くそう思った俺は気付けば「大丈夫ですか」と漠然とした問いを投げ掛けていた。ゆらり、と俺を見つめていた瞳が小さく動いた。でも、それでもやっぱり、ゆっくりと頬を持ち上げた彼女は言うのだ。"大丈夫だよ"と。




渋谷の一件以来、東京は変わってしまった。あちこちの建物が倒壊し、少し街を歩けば直ぐに数え切れないほどの呪霊と鉢合わせする事になる。常に人手不足の呪術界でこの現状を立て直すのは最早夢のまた夢。千万以上の呪霊を祓い切るのは無理がある。それに今の状況が知られれば知られるほど人々の恐怖や負の感情は蓄積されていく。……まさに、いたちごっこなのだ。手の空いている術師は呪霊の討伐と一般人の保護、避難誘導に当てられており、閑夜さんもその1人だ。それどころか彼女は俺の任務まで代わりにこなしてくれている。勿論本当はそんなことさせたくないが、虎杖を探すために乙骨先輩と行動している以上、今の俺では任務に当てられた呪霊の討伐が難しい。乙骨先輩に相談すると彼は「……閑夜さんに甘えてみようか」と言い出したのだ。当然最初は反対した。彼女の心労をこれ以上増やしたくないし、負担させたくもない。だけど上層部に知られると何かと都合が悪いのも事実で、先輩に説得される形で彼女がカモフラージュを行うことになった。






「……うん、分かった。それで私が手伝えるのなら協力するよ」
「ありがとうございます閑夜さん。虎杖くんの事は僕達に任せて下さい」
「…………」
「……伏黒くん?」
「……無理は、しないでください。対処出来ない時はすぐに教えてください」






思い出すのは渋谷での共闘。彼女の計らいで前線へと押し上げられた俺は閑夜さんを置いて呪霊の元から離れなければいけなかった。結果的に彼女は大きな怪我もなくこうして生きているけれど、もしも、の可能性はゼロではない。あれが最後の邂逅になっていたかもしれない、そう思うと気が気では無かった。彼女は俺の真剣な視線に目を開いていたけれど、応えるようにそっと頷いて何かあった時は伏黒くんに助けてもらうよ、と笑う。……それが何処まで本気なのかは分からない。ただ、俺に出来ることはその言葉を信じることだけだった。後ろ髪引かれつつも乙骨先輩がお願いします、と頭を下げたのに続いて俺も体を折り曲げる。行ってらっしゃい、緩やかに手を振った閑夜さんを見て俺は、どうしてもその姿を失いたくない、そう思った。










……そう、思っていたのに。






虎杖の捜索から一度戻って高専に帰ってきた俺が見たのは、夜空を静かに見上げながら頬に涙を伝わせる閑夜さんの姿だった。足音が絶えた夜更けの高専は静かで、星の瞬く音すらも聞こえそうな中、彼女は声もあげずに泣いていた。廊下の窓に寄り掛かりながら空を見つめている青白い月に照らされた横顔は場違いなくらいに美しくて俺は何も言えなかった。もう時期冬が訪れるというのに大した防寒もせずにぼんやりと、ただ宙に視線を向け続けるその姿は虚しさすら感じさせる。彼女が何を思うのか、何を考えているのか分からない。でも、俺はそれを深く思案するより先に踵を返して自分の部屋へと足を進めた。






「……閑夜さん」
「…………ふしぐろ、くん?」





俺がそこに帰ってきても彼女はまだ立ち尽くしていた。小さく息を吐き出してから声を掛けると、全く俺の存在には気づいていなかったらしく慌てて目尻を拭って頼りない笑顔を貼り付ける。どうしたの?なんて、明らかな強がりに奥歯を噛み締めながら半ば押し付けるようにして持ってきた上着を彼女に手渡した。え、と戸惑ったように俺と上着を交互に見つめた閑夜さんに風邪引きますよ、と返してから堂々と彼女の隣へと並んだ。……気になったんだ。そんなに熱心に見上げる空が、どんなものか。


山奥にある人工的な明かりが少ない高専から見る星空は確かに見事だった。透き通って宇宙が覗き見えるような無数の宝石が散らばる夜空はまさに満天、と称される魅力がある。だけど、それが彼女の顔を歪めさせる原因になっているとは思えなくて微妙な引っ掛かりを感じる。きっと彼女が馳せている想いや感情は今俺が感じたものとは少し、違うのだろう。





「伏黒くんごめんね、気を遣わせちゃって……」
「俺がそうしたかったんで謝らないで下さい。……いつも此処にいるんですか」
「……いつもっていうか、ええと、」
「誤魔化さないで下さい」





閑夜さんを困らせたい訳ではない。でも、彼女が無理をする人なのはこの一年弱を通して分かっているつもりだ。眉を下げた申し訳なさそうな顔で俺を見ているのが質問の"答え"なのだろう。……深い溜息を吐いた。きっと彼女はあの日以来ずっと此処にいる、そう考えて間違いは無さそうだ。窓枠に掛けられた細い手首の上に俺の手をそっと重ねた。伺うように見上げてくる瞳はこんな時間でも良く映える美しい色をしている。明日も来ます、そう告げた俺に閑夜さんは目を丸くさせて驚いてから「わ、私、明日は来ないよ」なんて焦ったように言葉を紡いだ彼女は、どうやら誤魔化すのがあまり上手くないらしい。





「別にそれでもいいです、俺は来ます」
「ッ伏黒くん、私は……!」
「その上着は持ってて下さい、明日返してもらえればいいんで」





そこまで言い切った俺は彼女の返事を聞かずにその場を後にする。……俺の今の行為は褒められたものではないという自覚がある。子供っぽい理屈だとも思う。でも、彼女の善意に漬け込んで、此処までしないと閑夜さんは一人で抱え込んでしまうだろうという確信もあった。どちらにせよ結果は明日分かることだと無理を通し、ほんの少し緊張しながら過ごした次の日の夜、同じくらいの時間に同じ場所で、俺の服を腕に抱いた彼女がそこに立っていたのを見て安堵の息を漏らしたのは語るまでもない。が、結局彼女は俺の服を忘れないように考え過ぎたせいで自分が羽織るものを"また"持ってきていなかったので、俺は再度同じ上着を今度は半永久的に貸し出すことに決めた。







…………こうして、俺と彼女の密かな真夜中の密会が始まったのだ













「閑夜さんは星が好きなんですか?」
「ん?うーん……そう、かな?」
「……曖昧ですね」
「ほら、その……北極星とか綺麗じゃない?」





俺の上着を少し丈を余らせて着ている彼女は、傍にココアの入っていたマグカップを置いて今日も空を見ている。今日の月明かりは少し弱く、いつも以上に疎らな星が眩しく見えた。俺は別に星には詳しくないけれど、こうして毎日彼女と並んでいると流石に少しの違いくらいは分かってくる。……そして、彼女が真っ直ぐ見つめる星がひとつしかない事にもまた気付いていた。


暗い空で一際輝く恒星、彼女が北極星と呼んだその星はいつ見ても閑夜さんの真上に浮かんでいる。それはまるで、今は居ないあの人のようで。それを見つめる彼女の柔らかくて、暖かくて、それでいて寂しそうな視線に気付くたびに俺の胸の中は真っ黒な絵の具で塗りつぶされたような気分になる。俺が淹れたココアを美味しいと笑ってくれても、俺の服を着ていても、彼女の中にある彼の存在は消えない。たとえ今側に居なくても"五条悟"という男が閑夜さんに与えている影響は俺が想像出来ないくらいに、大きい。





「伏黒くんは星見るの好き?」
「……好きでも、嫌いでも無いです」





ガキみたいだ。分かっているのに冷たい返しをした。俺の言葉に少し眉を下げてからごめんね、と申し訳なさそうにする彼女の姿が想像出来ていたのに俺は敢えてそう言った。……俺は北極星が嫌いだ。彼女を泣かせるあの星が、きらいだ。冬の冷たい空気に揺れる閑夜さんは氷みたいに溶け出しそうで見ていて不安になる。夜明かりに揺らいだ瞳に「泣かないで下さい」と呟いた俺に彼女は一拍置いてから……泣いてないよ?と曖昧で下手くそな笑顔を見せる。俺はそれが、嫌いだった。






「俺には、そう見えます」
「……そう、かな」
「はい。……大人だからとかそういうの、泣きたい時には関係無いでしょう」





彼女が無理をするのは決まって俺達子供の前にいる時が多い。死傷者も多く、学生を導くための存在が居なくなったからなのかは分からないが、彼女はここ暫くずっと、オトナ、だった。俺は子供だからその全ての機微を理解出来ているわけではないが、大人であろうとしている事は伝わってくる。狼狽する彼女の手を今日は重ねるだけではなく強く握った。自分の心に寄せた波は戻らずに、俺は、閑夜さんの腕を引き、そのまま自分の中に収めていた。びくり、と揺れた肩と固まった全身。毎日呪霊を祓い続けている彼女の体は俺より何倍も小さくて、すぐに壊れてしまいそうだった。閑夜さん、そうやって彼女の名前を呼ぶ俺の声には熱がある。






「俺が、護ります」
「……!!」
「……五条先生の封印も解いてみせる。だから、今はここで泣いてください。一人で、泣かないで下さい」






緩やかな力で押し返そうとしていた彼女の腕の動きがピタリ、と止まった。ゆっくりと、それでいて確実に、伸ばしていた肘が折れ曲がり、力無く胸元に収まった閑夜さんは俺の服をギュッと、強く、強く握りしめる。そして数秒後、俺の腕の中から啜り泣く声が聞こえてきた。俺が彼女の涙を見たのは、これが2度目だった。普段なら他人の服にシワを作るのすら慌てそうな閑夜さんが、それに気が回らないくらい弱っている。苦しくて仕方ないのに、俺を少しでも頼ってくれた事が心の底から嬉しくもあった。酷い男だと思う。彼女の弱みに漬け込むような真似、フェアじゃない。でも、それでも、彼女を置いていくあの人よりはマシだろう、そう自分に言い聞かせた。そうしないと自分に少しの勝ち目も無いことなんて、俺が一番分かっていた。護るだけで止められなかったのが何よりの証拠だろう。きっと、俺が護るだけじゃ足りない。悔しいが、彼女を本当の意味で安心させられるのは五条先生だけなんだろう。




西側の空に月が沈み始めた頃、彼女の声は止まり、辺りには沈黙が降りていた。チラリと覗いた閑夜さんの耳が赤く染まっているのにどうしようもない優越感と興奮を覚えて、俺は彼女に回した腕の力を少しだけ強めた。もう閑夜さんがとっくに泣き止んでいるのは分かっていた。分かっていて、それでも離したくなかった。これはただの俺の我儘。そして彼女は恥ずかしそうにしながらも、そんな俺を受け入れるように背中に細い腕を回し、優しく優しく撫で始める。……さっきまで俺が彼女を甘やかしていたのに、逆転してしまっている。幼児を宥めるようなその行為が不服で、でも彼女に触れられるのは嬉しくて、複雑な心境が絡み合った。





「……伏黒くんは、優しいね」
「…………」
「ありがとう、凄くすっきりしたよ」





狡い。閑夜さんは狡い。ほんのり掠れた鼻声で俺を撫でて、甘やかす。結局彼女は大人だし、俺は子供だ。無言で彼女をもっと自分の体へと抱き寄せる事でしか俺はこの気持ちを訴えかける事ができない。この数日の密会の時だけ世界の苦しさを忘れられる気がした。自然体で、俺がそこに立つことを許してくれる彼女に憧れを抱いた。憧れだけでは留まらない感情を知覚した。……それに付ける名前が何なのか、未だに俺はしらない。でも、これだけは分かる。





「……すきです」
「伏黒くん、」
「閑夜さん、好きです」
「…………ありがとう」





絹のような声が俺の耳をくすぐる。応えるようにしっかりと強く抱きしめてくれた彼女はそっと俺を胸元を押し返し、腕の中からするりと抜けていく。その返事が残酷な物だと理解しつつも俺はその優しさに浸るように、はい、と頷いた。閑夜さんは少しだけ赤くなった目元を緩めてきちんと整った唇に仄かな笑みを形作る。彼女はもう一度ありがとう、と俺に伝えた。夜空を背景にする閑夜さんは目を細めたくなるくらいに綺麗なのに、彼女の背後に丁度位置したギラギラと輝く"北極星"の姿に思わず俺も乾いた笑みを零す。……監視でもしてるつもりかよ、と悪態を吐きたくなるのを許してほしい。





「……閑夜さんは五条先生が好きなんですか」
「……うん、そうみたい。私やっと気付いたの」





伏目がちに語る表情は穏やかだ。きっと元々そこにある事が自然なように彼女の気持ちは彼に向けられている。そう、ですか、と震えそうになる声を抑えながら口の奥を噛み締める。言葉通り、きっと俺は眼中にない。それでも俺はきっとこれからも彼女に寄り添いたいと思うし、彼女には笑っていてほしいと願ってしまうんだろう。不毛で、どうしようもないのに。一筋の光を信じるように、はたまた少しの興味を込めて、








「……もし、俺と先に出会っていたら、俺を好きになってくれましたか」







なんて。世界で最も価値のない問いを彼女に吐き出した。閑夜さんは驚いたように何度か瞬きをしてから息を吸い、一言。やさしい答えを導き出す。……聞かなきゃ良かった。そう後悔してももう遅い。俺がもっと早く生まれていれば、だとか。そんな空想は現実にならないのだから。俺にその役目が務まらないことなんて、きっと先生にしか彼女を癒せないなんて、誰が見ても明白なのだ。



だから俺はせめて、今この瞬間の悲しみを埋められるように、彼女を支えるため生きるしかない。戻ってきたあの人が自分が居ない間に彼女が俺の前で泣いた事を、たとえ少しでも、俺の腕の中に閑夜さんが居たことを後悔させてやる。……そして、あの人がもう二度と、彼女を手放さないと誓えるように。閑夜さんが誰よりも幸せになれるのであれば、きっとそれ以上に喜ばしい事なんて無いのだから。だから早く帰ってこい、戻ってこい。彼女の一番を引き出せるのはアンタだけなんだから。








「きっと、ね」



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