「人類の未来、それは……呪力からの"脱却"だよ」
「違う。呪力の"最適化"だ」







突如現れた一陣の風、九十九由基は加茂憲倫に人類の未来についてを語り始める。それを即断するように否定した彼にやれやれ、と肩を竦めて私達を見た彼女に虎杖くんはサッパリだと微妙な顔をしている。2人は自身の描く理想や世界について言葉を交わしているが、私もまた虎杖くんと同じようにどうにかついていこうと耳を傾けるだけで精一杯だった。九十九さんは加茂憲俊の考える手段について諸国からの圧力、呪力の源が人間であることから起こりかねないリスクについて話しているが、袈裟姿の彼はそれを笑い飛ばしてしまう。




「そもそも目的が違うんだ。私は呪霊のいない世界も牧歌的な平和も望んじゃいない」




愉快そうに喉を鳴らし、自身の手を見つめるその顔の真意は読めない。ただ、この男が語るのは明確なビジョンではなく、あくまでただの興味に過ぎない事だけはひしひしと伝わってくる。加茂憲倫……いや、元々は他の何かの可能性もあるが、少なくともこの男は呪術師というよりは科学者に近いのかもしれない。彼は自分の中にある可能性や思考はあくまで自分の予測域から出ないと語り、それを憂いている。高尚な精神がある訳ではない、ただなんとなく、知りたい。そんな漠然とした興味と好奇心で動いているに過ぎないのだ。ぐ、と拳に力を込める。そんな事のために彼は……夏油くんの体を使っている?そう思えば思うほど胸が締め付けられ、同時に怒りが湧き上がった。だめだ、我を忘れてはダメだ。そんななけなしの理性を繋ぎ合わせ、ただ邪悪を睨みつける私なんて気にも止めず、加茂憲倫は右腕を広げた。





「分かるかい?私が創るべきは私の手から離れた混沌だったんだ……既に術式の抽出は済ませてある」





術式の抽出、という言葉は馴染みのない響きだったが、九十九さんはそれを聞いた瞬間に一番近くに立っていた虎杖くんへと勢いよく振り返り「真人とかいう呪霊がいるだろう!!」と人間を改造できる特級呪霊の居場所について尋ねたが、虎杖くんは加茂憲倫が取り込んだ、と説明する。呪霊を取り込んだ?そして術式の抽出……その不穏な二つの単語にぞわり、と嫌な予感が背筋へと上り詰め、喉元をぐっと握られたような感覚に陥った。加茂憲倫が呪力が篭った右腕で思い切り地面に触れると、瞬間的に電気に似た衝撃が辺りを走り抜け、そのまま宙に紋を描くように浮かび上がる。術式の遠隔発動、と彼女が驚愕したように声をあげ、夏油くんの顔をした最悪の呪詛師は嗤う。





「マーキング済の2種類の非術師に遠隔で"無為転変"を施した」




遠隔での術式の使用は非常に高度な技だ。元々報告では特級呪霊の使用していたこの技は触れた相手にのみ有効だった筈……非常に厄介な術式なので資料をよく読み込んだ時の記憶がこの瞬間でも鮮明に思い出せる。加茂憲倫に取り込まれる前に運悪く覚醒してしまっていたのだろうか。何にせよ明らかに厄介な事に違いはない。加茂憲倫は虎杖くんのように呪物を取り込んだ存在、吉野順平のように術式を持つが脳が追いついていない存在を一斉に「動けるように」変えてしまったのだという。……そんなことが本当に可能なのかは分からない。でも、少なくともこの男は今日の渋谷での出来事を踏まえても用意周到であることは確か。真実だ、と考えて動くのが正しいだろう。加茂憲倫は呪力が込められ、結ばれた証を破り捨て、自ら封印を解くと、自らから術式によって脳を弄り、術師と成った存在に殺し合いをさせるとまで言い切ってみせる。彼にとってその人間達はあくまで研究材料もでも言うのだろうか。





「私が厳選した子や呪物達だ。千人の虎杖悠仁が悪意を持って放たれたとでも思ってくれ」
「千人か……控えめだな。それに人間の理性をナメすぎだ、力を与えただけで人々が殺し合いを始めるとでも?」
「物事には順序があるのさ、その程度の仕込みを私が怠るわけないだろう……質問が軽くなってきているよ」





にっこり。そんな音が聞こえそうな笑顔の彼は、かれに似ている。それが気分悪くて顔を歪めると、突然私を拘束していた氷が水へと還り、同時に他の皆の体を覆っていた厚い氷の壁が一気に溶け出したのだ。着ていたスーツがぐっしょりと重くなり、髪が顔に張り付くのをぐいっと拭うように後頭部へと撫で上げる。動けるようになった生徒達が自分に向き直り体勢を立て直すのを息を吐きながらつまらなそうに見た加茂憲倫はまだ話の途中だよ、と呆れたような声で呟く。






「私が配った呪物は千年前から私がコツコツ契約した術師達の成れの果てだ。だが、私と契約を交わしたのは術師だけじゃない……まぁ、そっちの契約はこの肉体を手にした時に破棄したけどね」
「まさか、」
「……呪霊、操術……!!」






「これが、これからの世界だよ」






この体、という口振りが指す意図に気づいた私はまだ満足に動かない体を動かして加茂憲倫へと走り出す。あの男が契約した呪術師以外の存在、そして、夏油くんの体を手にした時に契約の破棄できる存在なんて一つしかない。必死に止めようと手を伸ばしたが、ニヤリと笑った男はそれを押し戻すように自身の背後から闇を呼び、その隙間から飛び出すようにして数多の"呪霊"が解放される。止まることを知らないその流れと物量に私の本能が先に足を止めた。加茂憲倫は懐から異様な気を放つ目が無数についたキューブを掌に乗せて此方へと見せつける。後ろで虎杖くんが五条先生!!と叫んだ。あれは、獄門彊。あの中に、彼がいる。届くかも分からないその名前を「五条くん、」と掠れたように零れた声を聞いた加茂憲倫は言う。






「じゃあね、虎杖悠仁。君には期待しているよ……それに、捺にもね」
「その声で、私を呼ばないで……!!」
「冷たいなぁ"友達"だろ?」






この男は、何処まで彼を馬鹿にするのだろうか。燃え上がるような激しい憤りが渦巻いて全身に熱として広がるのを感じる。ジンジンと音を立てるような鋭い嫌悪の感情は、私が生きてきて感じた事がない程大きな怒りだった。あまりの腹立たしいさに自制出来ないくらいに震える体と張り裂けそうな神経は名状し難いものだった。拳に筋が浮き出るほど強く握り、血が止まって指先の色が消えていく。胸の奥に吹き抜ける殺意に近しい想いがもう、止まらない。






「聞いているかい?宿儺……始まるよ、再び呪術全盛平安の世が…………!!」





大見得を切るように虎杖くんの中にいる両面宿儺に話しかけた加茂憲倫は呪霊の間を縫うようにして裏梅と呼ばれた白髪のおかっぱの人物と焦りもせず奥へと歩いていく。ここで逃がす訳には……!と追いかけようとしても体が大きい呪霊とその数に阻まれ上手く身動きが取れない。今呼び出されたこいつらの階級も分からないし、まだ動ける私がここを離れて被害が出たら此方の負け。今満足に戦えるメンバーが揃っていない以上、彼らは既に逃げ切りに成功したと言えるだろう。今溢れ出した加茂憲倫が千年かけて集めた悪意は最早堰き止められる状態でもなければ、この人数でまともに捌ける域をとっくに超えている。混乱し、混沌とした状況下で戦闘に移行している生徒達と、地面を割ったように現れた黒い穴から際限なく湧き続ける呪霊達。影を飛ばしてこの区画から逃げないように呪霊を捕まえても、その傍からまた新たな呪霊がすり抜けていく。もう数えきれない程の呪霊が東京に放たれているのが覆る事のない事実なのだ。このままでは埒が開かない、思わず舌を打ちたくなる気持ちを抑えながら影を使役し、それぞれの学生の元へと送りフォローさせ続ける。もう呪力も殆ど限界だが、私がここで倒れてお荷物になるのだけは御免だった。





「捺ちゃん……だっけ!?もう此処はダメだ!深追いも禁止!一旦離れるよ!!」
「っ、九十九さん……!分かりました、生徒集めます!」





彼と同じ特級術師の九十九さんの判断に従わない理由はなかった。向かわせた影達に九十九さんの元へ生徒を連れて戻るように指示をして、完全に呪力切れを起こしている自身の体を気合いという名前の精神力で奮い立たせる。従わない理由は無い、そう言いつつも私の目は去っていったあの男の方へと向けられている。私の友人の体と五条くんを連れて行ったアイツをどうにかしたい気持ちと相反するように脳が限界を訴えかけている。呪霊と会敵していた全員を一堂に集めたのとほぼ同時に影は離散し、元ある場所へと溶け出す。隣に立っていた桃ちゃんがふと私の顔を見て血相を変え、捺さん!と必死に呼び掛ける。ダメだ、まだ、皆を安全な場所に届けるまでは、まだ……





「……大丈夫、もう十分助かったよ。後は任せて」





鼓膜を揺らしたのは安心感のある強い声だった。女性らしくもあり、それでいて芯の通ったそれが頭の中に反響する。いい術式だね、とこんな時でも笑える九十九さんの強さは五条くんと似通っている気がする。純粋な力や術式だけでなく、私みたいな普通の人間とは違う形の強さがそこにあった。ごめん、なさい、と最後に喉を鳴らした言葉は誰に対しての謝罪なのか自分でも分からない。此処で離脱してしまう申し訳なさなのか、夏油くんを助けられない歯痒さか、それとも、五条くんに届かない無力さなのか……


眼前に黒い幕が降りていくように視界は暗転していく。徐々に消えていく煙のような意識はまるで世の中がひとりでに遠のいていくみたいで弾き出された虚しさに心が支配されていく。舞台から消える役者のように、目の前で生まれ続ける悪意の塊達を目にしながら私のハロウィンは静かに、確実に終わりを告げたのだ。

















あたたかい。柔らかい。包まれるような感覚にぼんやりと体が揺らされる。心の奥底から安心出来るような不思議な感覚。それでいて少し硬くて、厚みのある物の上に私の頭は乗せられている。ゆっくりと導かれるように瞼を押し上げて、そこで穏やかな寝息を立てる彼に何度か瞬きをした。はくはくと動かした口と声帯からは何も音は聞こえない。確かに発した筈なのに、私の耳には届かない。でもそれを当たり前だと受け入れている自分がそこにいる。違和感なんてなくて、まるで元々そうであったように私はこの空間を受け入れていた。



真っ白な空間に横たわっているのに、真っ白な彼にはそれでもそこに溶け込むことない存在感がある。彼の髪は白というよりは輝きに近くて、光源の分からない光に照らされるその一本一本は最早虹色のような艶を持っていた。それは髪だけではなく、今は閉じられた瞳を象る長くて量の多い睫毛も同じで、美しさと言う概念全てを持って生まれた彼の容姿はきっと、私は何度見ても、どれだけ見ても飽きることを知らないんだと思う。



私が初めて彼を知ったのはもう何年も前の春の日。桜を咲き乱れると表現するには少し早い、でも、あたたかい日差しが差し込むそんな日だったと思う。山奥の自然に囲まれた校舎と荘厳な雰囲気に圧倒されて花の美しさを感じる余裕も無かった私がそんな状況でも美しさを感じ取れたのは彼だった。私よりよっぽど背が高い、黒い学生服を着た後ろ姿に反射的に声を掛けて、振り返った彼のサングラスの奥にある吸い込まれそうな瞳に私は声を失った。桃色の空と彼の白はとても相性が良くて見入ってしまったその姿に彼が不快そうに顔を歪めたのはひどく懐かしい。





「ごじょうくん、」





やっぱり私の声は聞こえない。でも、長い睫毛がふる、と動いて呼応したかのようにそっと、薄い瞼が持ち上げられていく。一瞬焦点を失い、でも、すぐに交わった深い青が此方を視認した瞬間にゆるり、穏やかに形を変えた。少し色づいた唇が何かを示すように動作して、読唇術なんて習ったことすらないのに、それが捺、とたったそれだけのために動かされたのを理解した。声は聞こえない、でも彼が私を呼んでいるのは分かる。筋肉のついた左腕がぎゅっと私の肩を掬い上げるみたいに抱きしめて引き寄せられる。そこでやっと自分の頭が彼の右腕の上に乗せられていたことに気づいた。五条くん、五条くん、そうして名前を呼び続けて、何処か照れ臭そうに、でも嬉しそうに笑う彼の顔がぼんやりと歪んだ。




五条くんは驚いたように目を丸くしてから、人差し指で拭うように私の目元をなぞった。心配そうな表情でもう一度捺?と呼ぶその口はやっぱり綺麗に整った形をしている。不安そうに、それでも優しく私の髪を撫でて胸元に収めてくれる彼の中で深く息を吐き出した。これは、きっと……











目覚めたその場所は確かに白かったけれど何も分からないくらいの境界の無い白ではなかった。起きたか、と呆れたように呟く声は見知った人物のもので、隣で足を組む硝子を何も言わずにじっと見つめる。ちらり、と目を向けた彼女は少しだけ目を開いてから「……泣いてたの?」と尋ねてきた。その指摘に言われるがままに目尻を擦ると、そこには紛れもない涙が一つ付着する。……そうみたいだね、と呟いた声はきちんと音として発せられて、硝子は他人事か、と肩を落とす。






「……硝子」
「何?」
「被害の、状況は?」
「アンタ、それ起きてすぐ聞くことなの?」
「しょうこ……お願い、教えて……」
「……甚大。私達も把握出来ないくらいには酷いよ」






それと、と、そこで言葉を止めた彼女の顔にもう一度目を向ける。微かに開いた唇と続かない声に私はその先の内容をなんとなく悟った。彼女がこんなに言い淀むのは珍しい事で、自然とそれが何なのかは理解できた。黙り込む彼女はきっとそれを私に話すべきかどうなのかを考えているのだろう。その決定を待つように私も、ただ時間が過ぎていくのを受け入れる。暫くしてから硝子はふっ、と一つ息をついて「……七海が死んだ」と淡々とした調子で言った。その声は静かな部屋の中に通るには十分な声量で、すぐに私の耳にも情報として届けられる。確かに感情が揺れた感覚と、あまりの喪失感に、何の反応もできなかった。胸の奥が空洞になってそこに風が吹き抜けるような冷たい哀しみに全てが支配されていく。






「……わたし、呪われてるのかな…………」
「……かもね」
「七海くんに奢るって約束、したのになぁ……」
「捺、」
「わたしより先に、いくことっ……ないのに……!」






七海くんが約束を破るなんて信じられなかった。でも、はらはらと流れる涙も鼻の奥をツンと刺激するこの感覚も震えた唇も、全部、全部が真実で、変わらない事実だった。歯止めが効かなくて、救護室のベッドのシーツが濡れて少し濃く滲んでいく。綺麗なんて程遠い、苦しくて、どうしようもない醜い泣き方。溢れる嗚咽に息が詰まって呼吸が苦しくなる。硝子は何も言わなかった。ただそこでじっと、少しだけ私から目を逸らしながら辞めたはずのタバコを指に挟んで静かに座っているだけだ。机に置かれた彼女のコーヒーから立ち上る湯気が部屋の蛍光灯のところまでいってからふわり、と空気に紛れていく。決壊したダムは留まるところを知らない。この日……2018年10月31日に、世界の全てが、変わってしまった。





これにて御仕舞



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