「勿論。……2人には内緒だよ」


「本当だって。もし悟が信じられないのなら、私の事を信じてくれればいい」

「私を変わらないと言うのはきっと君くらいだよ」


「君の言葉を借りるなら……私が君の"友達だった"から、かな」


「…………悟達を、頼んだよ」











その姿を目にした時、彼と過ごした時間、彼との思い出、彼の言葉、全てが頭の中にリフレインした。ボロボロになった虎杖くんに駆け寄るパンダくんの後ろで私は、導かれるようにふらり、と立ち上がる。昔より少し痛みが目立つ黒髪、切長の瞳、そして幾度と無く報告書の写真で見かけた重そうな袈裟……私の記憶の中より少し大人びた雰囲気の彼が、そこに居た。話は聞いていた筈なのに言葉を失った私は、一歩、また一歩と足がその人に吸い寄せられていく。周りで誰かが叫んでいる気がするけれど、爆発に遭った直後みたいに耳奥に金属音がして、上手くそれが聞き取れない。私の口は、ごく自然と、何年も発していなかったその名前に動かされていた。





「…………夏油、くん?」





日下部さん達の方を向いていた狐目が、ゆっくりと私を捉える。オニキスみたいな深い闇。一瞬表情を失った彼は、私を見つめ続け、あぁ、と何かをやっと思い出したみたいな反応で笑った。その表情は私の記憶の中にいる彼のどれにも属さない顔だった。優しく、柔らかく、仕方なさそうに眉を下げて笑う、私が好きなものとは程遠い、嘲るような、笑み。知らない、私はこんな彼を、知らない。自身の記憶と目の前で起こる現実の違いに私の頭は混乱していく。彼は本当に夏油傑なのだろうか?呪力の気配は彼1人というより、数多の呪霊のものが混ざり合い、はっきりと認識できない。かれは、彼なのか?





「久しぶりだね、捺」





立ち込める黒い霧の中に稲妻が走ったような衝撃。人は、誰かを忘れるときに声から記憶を失っていくと昔何処かで見た気がする。実際その瞬間まで私はあんなに仲が良かった彼の声をとっくに思い出せずにいた。だけど、私を捺と呼ぶその声は、紛れもなく夏油くんのものだと奥底に仕舞い込まれた彼の残穢がはっきりと示している。この声は、夏油くんだ。






「……げとうくん、なの?本当に……?」
「そんなに疑われると傷付くなぁ……公園での事、忘れちゃった?」





公園、という単語にびくりと肩が揺れる。私と彼を繋ぐあの場所を、目の前に立つ彼は覚えていた。信じられない、信じたくない。私は七海くんから彼の名前を聞いて、偽物や幻影、そういった類の術式を持つ呪霊か呪詛師だと思い込んでいた。そうとしか考えられなかった。だって、彼は去年親友の手によっていってしまったのだから。もう2度と会えない場所で、遠い場所で久しい平穏の時を過ごしている、そう思っていたのに「捺さん!!」後ろから虎杖くんの声が聞こえた。我に帰り、反射的に振り向きかけたのを微かに残った思考で押し留め、グッと奥歯を噛み締める。……何を考えていた、私は。分かっている筈だ。本当はちゃんと、理解できている筈だ。夏油くんが生きていたなんて都合のいい現実が存在しないことぐらい、分かっているんだ。彼は死んだ、もういない。敵から視線を逸らすなんてあってはいけないことだ。






「……夏油くん、私ずっと聞きたいことがあったの」
「……へぇ、何かな?」
「ッ捺さん!そいつは……!」
「捺!中身は別の……」





必死な声で私を引き止めようとする彼に返事をするように、私は後ろ手で指を2本立ててゆらり、と揺らした。大丈夫、その意思を伝えるピースサインはきっとパンダくんと虎杖に届いたのだろう。彼らはグッと押し黙るように口を閉ざす。そうしている間にも私の聞きたいことを待つ夏油くん"らしき"人物は一定の間隔を保ちながら此方を見つめていた。……私が、聞きたかったこと。ずっと知りたかったこと。どうして彼はあの日"私に勝ちを譲ったのか"





「……あの時、夏油くんはどうして……」
「……」
「私を、連れて行かなかったの?」





またその男は見透かすような目付きを向ける。暫くの沈黙の後、ハッ、と声を上げた彼は嗤う。決まっているじゃないか、と大袈裟に肩を竦めてツラツラとあの日起きたことを男は話し始める。2人で夕日の中話したことも、棒倒しで私が買ったことも、全て、現実だ。彼が語る内容は嘘ではない。なら夏油くんらしきこの人物は彼の経験したことや記憶自体は共通している、と考える方が自然だ。夏油くんがあの日の事を誰彼構わず話してしまうそんな人だとは思えない。直接頭に作用している乗っ取り?それとも肉体に刻まれた記憶が読める術式?仮説を立てては打ち壊し、隅に押し込んで様々な可能性を探っていく。道化みたいに白々しいそれが、あくまで彼の声で再生されるのに若干の不快感が込み上げる。きっとこの男は私が信じていないことに気付いている。気付いた上で"あえて"反応を見ている。






「君のためを思っての行為だよ。分かるだろ?君を巻き込…」
「もう結構です。……貴方は夏油くんじゃない」
「……根拠は?」
「本当の彼のこと……あなたに教える必要ありますか?」






ぐっ、とバネ状に体を縮こませ、地面に写った大きな影に触れて具現化させる。ゴリラモードのパンダくんの影は真っ直ぐに男へと向かっていき、それを横目に私は兎に角手当たり次第に近くの影に触れ、実体化させた。男は少し目を開いたが、すぐに邪悪な笑みを浮かべて殴りかかって来る影へと対応していく。……やっぱり体術も硬い、ならばやはり手数と量で攻めるまで!戦場を走り抜ける私に続くように皆も構え始めるのを横目に想像力と柔軟性を最大限に活かそうと頭の中をぐるぐると回転させ続ける。呪霊操術の利点は手数の多さだと昔彼は話していた。そして同じ操術を冠する術式を持つ私に、やろうと思えばどんな利用もできると教えてくれた人の中に確かに夏油くんも居たのだ。


……男が答えた質問の答えは、厳密に言えばきっと間違いではなかったのだろう。夏油くんがあの日私を連れて行かなかったのは間違いなくわたしのためだ。夏油くんは優しい人だった。弱い私を最後まで貶したりせず、むしろ褒めてくれた彼。棒倒しにわざと負けた彼。夏油くんは夕暮れの公園で私が差し伸べた手を取らず、それでいて払い除けるわけでもなく、ただ私自身へとそっと、押し戻してくれた。その行為が私のためで無いのであれば、一体誰の為だというのか。


でも、彼がそんな想いをわざわざ言葉にするような人ではないことも私は分かっていた。ましては自分から「私のため」なんて台詞を吐き出すような人では無いと、知っていた。あの日私を誘ったのは彼であり、私はその賭けに乗ったまで。自分のために私を連れて行こうとして、私のために手を離した。そんな行動を夏油くんならきっと、何年経っても風化させるつもりもなく、誘ってしまった自分自身を責めるのだろう。夏油傑という人間の優しさや抱え込んでしまう儚さを思えば、あんなに横柄な態度を取ることなんて想像できなかった。だからあの男は夏油傑であり、夏油傑では無い、私はそう解釈した。





「"陰影操術"だったかな?今はそんな名前で呼ばれているんだねこの術式は!」
「……今は?」
「無知は損だよ、これは"そんなもの"じゃない」





ぱんっ、と破裂するような音を立てて相手をしていたパンダくんの影が霧散し、持ち主の元へと戻っていく。攻めの手を止めずさらに複数の影を送り込み、遠距離から矢のように飛ばし続ける私の鼓膜を男の不可解な言動が揺らした。陰影操術という名前が間違っている……?確かにこれは私が名付けた名前だ。父から受け継いだ影を操る術式……望まれなかった、失敗作の術式。それをあの男は知っている?私の一瞬の乱れに男は反応し、歪ませた空間から呪霊を飛ばして来る。鋭い爪が眼前に伸びて数秒後に走るであろう痛みに覚悟した私の前でソイツは"弾けた"





「っ、はぁ、ハァ……!!」
「……やぁ、脹相。気付いたようだね」





土を引きずるような荒々しい足音が私達に近付いてくる。明らかに負傷している頭の上で髪を二つに縛った謎の男は突き出すように構えていた腕を下ろしながら夏油もどきへと突き進む。……助け、られた?早すぎて何が起きたのか分からないが、彼の掲げた腕は確かに私の方へと向けられていた。気まぐれか、偶然か。審議は定かでは無いが、少なくとも脹相と呼ばれたあの人は夏油の味方では無いらしい。ギリ、と音が鳴りそうなぐらいに噛み締めた歯から唾を飛ばして、なりふり構わず叫ばれたその名前にその場全てが震撼した。






「加茂憲倫!!!!」
「……加茂憲倫も数ある名の一つにすぎない。好きに呼びなよ」
「よくも……!!よくも俺に虎杖を!!弟を!!殺させようとしたな!!!」





加茂憲倫。その名前は呪術に精通している人ならきっと知らない人はいないであろう名前。御三家の一角である加茂家の最大の汚点とさえ言われる呪術史上最悪の呪術師、そう称される彼の所業は人間のものとは思えない倫理的な視点が抜け落ちた物ばかりで思い出すだけでも吐き気がする。なぜあの人は中身が加茂憲倫だと分かったのか、疑問は尽きないが戦力が増えるのは有り難い……そうして構えた私だったが、追撃するより先に新たな人物が加茂憲倫と男の間へと割って入る。白いおかっぱの坊主、といういつか聞いた言葉が蘇った。私を助けてくれた彼は自らを"お兄ちゃん"と不思議な柔らかさを持つ愛称で呼びながら2人へ攻撃を始めた。


体から赤い液体を引き出し、圧縮して目にも止まらなく速さで撃ち出すそれは京都で見た加茂くんの赤血操術と同じもの。加茂家相伝の術式であるそれを使いこなす彼は一体何者なのだろうか。おかっぱを血で刺し、憲倫理に積極的に攻め入る動きには無駄がなく、洗練されている。……強い、これ乗じれば五条くんを奪還できるかもしれない。その考えは皆も同じだったらしい、一斉に踏み出し偽物へと走り出したその瞬間、底冷えするような冷気を肌に感じた。まずい、と思った時には遅く、ひり付く痛みに焼かれたような感覚に陥り、そして、私の体はガッチリと分厚い氷で覆われていた。咄嗟に体を捩ったので半身だけで済んではいるが動いて割れれば体ごと持っていかれるリスクがある。周りの生徒や日下部さんも同じように固められており、高度な術式であることがすぐに分かる。思わず術者であるおかっぱを睨むように見たが、気にも止めていない様子だ。憲倫は固まった私たちを見て少し顔を顰め「殺すなよ伝達役は必要だ。彼女も使える優秀な駒になり得る」と呟く。駒、という言葉と同じタイミングで交わった視線に嫌な予感を感じつつ、メッセンジャー、という単語を使う古代の存在に乾いた笑みが溢れた。現代に居着いて随分長いらしい。






「この程度の氷……!!」
「どの程度だ?」





明らかに苛立ったおかっぱが彼に危害を加えるより先に隣で固まっていたはずの虎杖くんが飛び出し、氷を破壊する。この厚みから抜け出せたポテンシャルに驚きつつ、空から落下するように急降下してきた桃ちゃんが鎌異断を繰り出すが、2人には通用しないらしい。腕の振り抜きで逸らされ、再度凍らせると、頭上に飛ばした氷柱でその体を貫こうとする。術式の扱いも当然のように上手く、汎用性が高い……!アレもきっと加茂憲倫と同じ類の物だ。虎杖くん!と荒げた声は冷やされた喉では掠れたようにしか聞こえない。パキパキ、と嫌な音を立てながらも必死に腕を伸ばし、数センチ先に出来た影に手を伸ばす。切り傷にも似た嫌な痛みが上腕に走り始めた。でも、やめられない。やめてはいけない。私がいくら怪我をしたとしても、彼の生徒は、学生達は護らなくてはいけない。久しぶりの痛みがなんだ、今までに何度骨を折り、何度血を流したのか、それに比べればこんなの、虫に刺された程度の事だ。だから私は……!!!







「……やめときな、跡になるよ」






ふ、と聞こえたのはハキハキとした女性の声。この現状に似つかわしく無い美しいプロポーションのその人は伸ばした腕を労るようにポン、と叩いてから私の隣を優雅に歩いて行く。不思議な生物を引き連れる堂々とした足取りとピンと伸びた背筋が妙に逞しく感じた。そして、ほんの瞬きの瞬間に氷柱は跡形もなくなり、ダイアモンドダストみたいに夜を彩った。






「久しぶりだね夏油くん、あの時の答えを聞かせてもらおうか……どんな女が好みだい?」
「九十九由基……!!」






九十九由基、呼ばれた名前にまつ毛が揺れた。五条くんと同じ特級に位置する呪術師、私も会ったことのない自由を愛するその女性は余裕と茶目っ気と呪力をたっぷり携えてそこに現れた。策略が渦巻く渋谷の一角で、今、確実に何かが変化する足音が聞こえ始めた。




ニセモノ



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