一瞬、何が起こったのか分からなかった。影から出たその瞬間、奥のビルに雷でも落ちたみたいな強烈な光が先行し、少し遅れて重々しい地響きが夜の渋谷に広がった。雲を照らすような明かりがビルの屋上から溢れて火の手が上がり、空より暗い人工的な黒い煙が立ち上る。……爆発、した?一体何故、そう考えている間に宙から全域へと響き渡るような悍ましい笑い声が聞こえ、またすぐに別の場所で連続した爆発音と建物が崩壊していく。一体何が起きているのか分からずにそれでも必死で走り続けた私は、目の前にやっと見知った人影を見つけた。






「……日下部さん!パンダくん!!」






その声に振り返った日下部さんは私を見て驚いたように目を開いてからキッと鋭い目をして刀を構える。それと同時に背後に感じた人の気配に彼の意図を察してその場に蹲み込むと、スパンッと勢いよく振られた刃によって頭上に鮮血が散らされた。気を抜くな、と声を上げた彼に謝った私を見てパンダくんはどうしてここに?とつぶらな瞳を更に丸めている。





「私は"特例"で今は術師扱いなの」
「特例ってまさみちが決めたっていうあの!?」
「お前、そこまでして五条の事を……」





日下部さんが何か言いかけた直後、今度は先程より近くに立っているビルの割れた窓から真っ赤な炎が噴き出される。まだ距離がある筈なのに熱風として私の肌を焦す熱に思わず眉を顰めた。これは並の呪霊の仕業ではない筈だ、1級、もしくは特級クラスが近くに……と、考えてすぐ、ビルの合間から見える空から巨大な火の玉が落下し始めるのが見えた。大きい、なんて言葉では足りない、間違いなく全てを飲み込み兼ねないその岩の塊は最早巨大な惑星として私達の住む地球へと向かってきているようにしか見えない。呆気に取られた私を一瞥もせず。いの一番にと身を翻した日下部さんが振り返ってそのまま走っていく。パンダくんが私の手を掴んで「逃げるぞ!」と引いてくれたけれど、もう、思考が追いつかない。目視で確認するには難しいけれど、山のような頭をした呪霊はいつかの報告にあった特級で、その相手をしている彼の服装は酷く見覚えのあるものだった。あれは、たしか、





「聞け呪詛師共!!なんでか知らねぇが特級同士が殺り合ってる!!」





日下部さんは自身の刀を鞘に収めながら叫ぶ。蟻の上で象がタップダンスなんて、普通に聞けば理解し難い例えなのに今ではそれが正しいとさえ思えてくる。異様で、異質で、きっと自分たちにはどうすることも出来ない事が目の前で起ころうとしている。避難誘導は終わっているのか、あれがこのまま街に落ちたら渋谷はどうなってしまうのか、考えるだけで恐ろしい。私たちも無事では済まされないだろうし、一般人もたくさん、死ぬ。そんなことあってはならないのに、所詮蟻の私達は無力だ。






「さっさと逃げ……ッ」
「ならん」





冷や水を打ったように私を含めた全員が息を呑み込む。たった一言、その一言で世界の全てを掌握したような自信が込められているようだった。決して大きな声ではないのに動物が獲物を弄ぶようなその言い方はひどく通って聞こえる。分からない。彼が分かりやすい声をしているのか、それとも私の本能が一字一句も聞き落とさんと聴覚に意識の全てを集中させているのかもしれない。それ程までに圧倒的な脅威がそこに、ごく自然と立っていた。私と日下部さんの間にいつの間にか現れた"ソレ"が纏う気配は外側の彼が普段持っている柔らかく温かな空気感とは程遠く、氷点下に位置するような、それでいて全てを燃やし尽くすような力が溢れ出ている。相反した二つの要素を自然と持ち合わせたその男はただ、ただじっと明るい空を見上げていた。






「これより四方一町の人間全員、俺が"よし"と言うまで動くのを禁ずる。……禁を破れば勿論殺す」






脅しではない。きっとこの呪いは……両面宿儺は出来てしまう。いとも簡単に私達の命を散らしてしまう。初めて対峙した圧倒的に邪悪な気配に私は唾を呑む事さえ出来なくなっていた。それすらも彼の禁に触れそうで流れる汗もそのままに私達はそこにいた。なんとか瞳だけを動かして見えた日下部さんも額に大量の汗を滲ませている。パンダくんが小さな声で「イタドリくん……?」と呟くのを聞きながら私は地面に映る影がどんどん大きく、そして赤く染まっていくのにひどい焦燥感を覚えた。






「まだだぞ」

「まだ、」

「まだまだ……」







脅迫であり、揶揄いの声。悪意に満ちた楽しそうな声に奥歯を噛み締める。迫り来る惑星はますます大きくなり、徐々に燃え盛るその音が背後から聞こえ始める。火事の現場に放り込まれたような火が、炎が、自分の身長以上に高く燃え上がる感覚。すぐそこにまで脅威と死が迫る感覚。まるで私たちを犬か何かのように扱う主人気取りの特級呪霊に悔しさと同時に逆らってはいけないという根本的な恐怖が植え付けられているのだ。……だめだ、そんなことを考えてもどうにならない。私が考えるべきは糸が張ったこの瞬間から解放された時どうするか、だ。ギリギリで解放されても彼にとってはこんなものきっとゲームのようなものだろう。私達が逃げられても、逃げられなくてもどちらでも良い。自分が死ぬつもりはないだろうしそんなビジョンも持っていない筈だ。現に宿儺は私達には目もくれず、火球ばかりをニヤニヤと口元を緩めて眺めている。ならば此方も真面目にこの勝負に取り合う必要はない。見極めろ、きっとあまり猶予はない……!






「よしっ」





ぱんっ、と手が打たれた時にはもう、背後の建物が壊れ始める音がしてた。既につかんでいたパンダくんの腕はそのままに咄嗟に地面に伸びる大きな影に触れて彼を押し込んだ。日下部さん!と呼び掛けた彼にはきっと伝わる筈……!そうやって祈るような思いで目を向けると走り出そうとしていた彼はすぐさま飛び込みの体勢へと変化させて、飛沫を立てるように影の中に入っていく。最後に私が見たのは未だ少年らしさを残したその背中が炎に飛び込んでいくその瞬間で、虎杖くん、と呟いた声は黒の中に溶けていった。











とぷん、とぷん、とぷん。





揺蕩うように影の中にいる2人を引いて兎に角一旦遠くにまで離れることにした。あの近くでは宿儺と他の呪霊との争いに巻き込まれ兼ねない。五条くんのところに行くためにはあそこが一番近かったけれど、それで私が死んでは元も子もない。遠回りになるが違う道を探すほうが建設的だ。それに2人は陰での移動に慣れていないし、一旦何処かで上がったほうがいい。特有の浮遊感の中、くるりと振り返って水面を指して、上がります、とアピールするのを汲み取るように日下部さんとパンダくんは頷いてくれた。






「っげほ、ごほ……っ」
「く、ぅ……こりゃ疲れる……」
「あ、2人とも大丈夫!?今引き上げますね……!」






日下部さんから手を伸ばして影の外に引っ張り上げ、続いて2人でパンダくんを持ち上げる。2人とも見る限り大きな怪我はしていないようだ。良かった、と息を吐き出しつつ周りを見回したけれど、少し離れたとはいえやっぱりこの辺りにまで瓦礫は落ちていて特級同士の争いの跡を感じさせた。あんなのとまともに渡り合うなんて夢のまた夢だろう。






「……閑夜のお陰で助かった、礼を言うぜ」
「そうだな。捺が居なかったら俺らも瓦礫の下敷きだったぞ」
「……かもしれないね。良かったです、色々間に合って……宿儺に邪魔もされなかったし」






宿儺、という単語を聞いた日下部さんは少し複雑そうな顔で視線を地面に下ろした。そして、ぐるりと私がしたみたいに全体を見渡して深く深く息を吐きだす。まるで、現状を憂うような……何処か決意したようにも見えるその表情に少しだけ嫌な予感がした。日下部さん?と呼び掛けた私に彼はぽりぽりと頬を掻き、どこか言い辛そうに口を開く。





「閑夜……お前や五条が虎杖のことを気に入ってるのは知ってるが、話が違うじゃないか」
「……いや、アレは宿儺……」
「"肉体の主導権"は虎杖にある、そういう話だったろ」





日下部さんの言いたいことを察した私は思わず黙り込む。虎杖くんが処刑から免れていたのは五条悟という何かあった時に宿儺を殺せるストッパーが居たからだ。それが今はどうだ?五条くんは封印され、さっきのを見るに虎杖くんの意識は無く、アレは完全に宿儺が主体となっていたに違いない。虎杖くんが大きなダメージを負ったせいなのかは分からないが、呪術師にとってそういったダメージは付き物であり、切り離せるような穏やかな関係ではない。今後彼が宿儺を抑え込めるのかも分からない。彼はきっとそういうことが言いたいのだろう。





「……日下部さん、」
「……俺は虎杖悠仁の処刑に賛成だ」





重い言葉だった。日下部さんもまた教師という職を選んでいる以上きっと生徒や子供たちを簡単に殺す決断を手放しで賛成できる人ではないだろう。そんな彼が、虎杖くんの処刑に頷いている。私はそれを否定することが出来なかった。パンダくんは困ったように私と彼を交互に見つめていて、どうすればいいのか分からず戸惑っている。きっと、さっきの火の玉で散った命がある。私には見えていなくても、押し潰された人がいる。私達も例外ではなくついさっきまで命を握られていた。彼のような考え方をする人がいてもおかしくは無いどころか……もしかしたら、そっちの方が多数派なのかもしれない。




「や、本当だって!!すげー美味かったよ!!!」




でも、私は……私が知る虎杖悠仁くんは、私の作ったカツ丼を笑顔でひたすら食べ尽くしてくれるようなそんな子で、自分にできなかったことに責任を感じるような少年で、誰かを殺すのに心を痛める、普通の男の子だった。太陽みたいに笑う顔が素敵で、誰かを照らすために生まれてきた、そんな子だ。





「……日下部さんの言うことはよく分かります」
「なら、」
「でも、私は生徒が望まない選択はしたくない。さっき見たのはあくまで両面宿儺であって、虎杖くんじゃなかった」
「……その生徒が今後それ以上に多くの人間を殺すとしても、か?」





それとも五条の決断だからか?そう続けた日下部さんの目は真剣だ。もしかしたら私を試しているのかもしれない。……確かに五条くんは彼を生かすことに決めた。それはきっと同情からでは無く、あくまで打算的な始まりでもあったのだろう。彼が理想とするのは呪霊の勢いが増しているこの世の中で自分の後継にもなり得る優秀な人材を見出すこと。その為に彼は虎杖くんの担任となり、彼を導こうとした。……私にはそんな高尚な決意はない。ただ、






「……私にとって虎杖くんは呪術師であり、大人が護るべき子供であり、優秀な生徒です。それ以上でも以下でもない」
「…………」
「私はただ、彼がいい子だって知ってます。彼が私達大人に助けを求めるのであれば力を貸し、生き方に悩むのであれば相談に乗る。……それだけです」
「なら処刑には反対、ってわけか?」
「……いいえ、私はあくまで彼の"選択"を大切にしたい。その為には彼が選択できる自由とその環境を整えるべきだと、そう思ってます」






ふ、と息を吐き出して私の考えや思うことを彼に言い切った。それからパンダくんの方へと振り向いて「ごめんね、大人の汚いところを見せてしまって」と苦く笑って謝った。本当はこんな話を同じ学生の彼の前でするべきではない。熱くなってしまってそこが見えなくなっていたのは反省点だな、と思いつつ、少し先から聞こえてきた轟音に耳を傾ける。また近くで誰かが戦っているのだろうか?術師か学生かは分からないけど、少なくとも加勢に向かうに越したことはない。私が、いきましょう、と日下部さんの方に振り向くと彼はなんとも言えぬ複雑そうな顔をしていた。





「?日下部さん、どうしたんですか?」
「……いや、お前結構ハッキリしてんだな」
「えっ、そうですか!?もしかして偉そうな口聞いてました!?」
「……そういう訳じゃないけど、」





五条が選ぶ理由が何となく分かる、そう言って彼は体をグッと伸ばすと音のする方へとゆっくり足を動かしていく。……それはどういう意味で受け取るべきだろうか、と少し悩みつつ私も彼の後へと続き始めた。隣のパンダくんは「褒めてるんだよ」と笑っていたけれど、あの口調がそうだとは中々思えない。本当かなぁ、と首を傾げつつ歩く街並みはまるで巨大地震にでもあったような、災害に襲われた後みたいに酷い有様で胸がじくりと嫌な音を立てる。去年の百鬼夜行も酷かったけれど、今回も別ベクトルで酷いな、と目を向ける瓦礫の下に失われた命があるのかもしれない、そう思って小さく頭を下げて形だけでも祈りを捧げた。その無念を何とか少しでも晴らせるように、そんな気持ちで悪い足場を踏み締める。……私はやっぱり虎杖くんを憎む人や処刑に賛成することを止めようとは思えなかった。かと言って彼を殺したいとも思っていない。私は彼が、彼なりに人生を選べることを尊重したい。中途半端な綺麗事の自覚はあるけれど、そんな綺麗事を諦めてしまえば今度こそ虎杖くんが自分らしい生き方を……死に方を、選べなくなってしまう。そんな気がしてならないのだ。




もしそうだとするならば、たった1人でも私は大人として彼を尊重したい。それが私の理想とする"大人"なのだから。さっき日下部さんは五条くんの影響なのか、と問いかけたけれど、私はそれに肯定も否定も出来なかった。確かに私は私なりに考えた答えを導き出したけれど、そこに五条くんの思想が全く無い、とは言えない。寧ろ、思想というよりもそれは……彼の生き方の話でもある。私はきっと少なからず彼の選んだ道が確かであったこと、間違っていなかったことを証明したいと思っている。五条くんの下した決断や生き方が認められる事を望んでいる。私にはその全てを量り知ることは出来ないけれどきっと、彼もこの職を選んで生きることに悩みがあった筈だ。失敗もしたんだろうし、勿論成功したこともあるのだろう。それが間違いでなかったと世界が認めてくれれば彼もまた、"何か"から解放されるのかもしれないと思っている。……これは本当に私のエゴであり、誰かに伝えるつもりのない感情だ。そういう意味では日下部さんの言う事は間違っていないのかもしれない。私の意思であり、私のわがままは彼によって形成されているのだから。私の望みは、彼に平穏が訪れることでもある。彼の平穏はきっと、学生時代に残されてしまっている。それは硝子も、私も、似たようなものなのかもしれない。


……少しだけ笑みが溢れた。私の根幹を作る人物を数人挙げるとするならば、きっとそこには彼の名前が刻まれるのだろう。なんて、馬鹿げた事を考えて。




思想と根幹



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