『クライ、クライ、クライ!!!』






不快感が込み上げる鳴き声に眉を顰めつつ、じわじわと侵食される範囲が広がって行く光景にゆっくりと息を吐き出す。細長く落ちた影に触れ具現化させて槍のように投げても、一部が削れるだけで本体にダメージが蓄積している様子はない。檻の一本一本を手足のように自在に動かし、私を貫こうとしてくる呪霊の攻撃を避けながらどうにか本体の行き先を特定しようとするも、やはり持続的な呪力が感じられず地点ごとにしか予測することが出来ない。通常の呪霊であれば残穢がタイヤ痕のように残り、私達呪術師にはナメクジが這った後に近しいビジョンとして道筋を視認できる。そこから次の移動先を割り出したり、場合によっては移動後の攻撃で間に合う術式を持つ人間も存在する。……だが、コイツはどういう訳かそれを見るのが難しい機構として成立している呪霊らしい。


面倒なタイプだ。まるで巨大な蜘蛛の腹の下に囚われているような感覚。それでいて急所であろう腹部分が足を伝うように自在に移動するのだからタチが悪い。そしてこの大口を開けて高笑いをするような仕草を見るにこの呪霊はきっと私を"弄んでいる"のだろう。1級に近い呪霊に知性のようなものがある、というのは既に知られている情報だが、相手にとって本当に私が脅威であればその知性を使って真っ先に本気で殺しにくる、もしくは比べ物にならないくらいの実力差があれば逃げ出すという例もある。その何方にも当てはまっていない今、つまり私は舐められているのだ。呪霊が楽しむ為のおもちゃとして見られている。


勿論それは遺憾だが、かと言って私もそこまで血が上っているわけではない。ふ、と定期的に呼吸を整えて、できるだけ冷静に行動のパターンを分析しようとここまで動き続けている。私が得意なのは単純な力での殴り合いでも、術式による遠距離攻撃でもない。兎に角相手のパターンを見極め、自分でも勝てる状況を導き出す、そんな過程なのだ。





『ニゲロ、ニゲロ、ニゲラレナイ!!!』

『くらい、コワイ、くらイ!!!』

『ヒヒヒヒヒヒヒ!!!』





単純な戦闘向きとは言えない術式。その代わりに汎用性ではおそらく抜きん出ているであろう、術式。それを活かすも殺すも自分次第なのだ。父から受け継いだ、この"陰影操術"は想像と解釈次第では何処までもいけると信じている。父の苦しみを晴らすためにも私は私なりの戦い方を確立して今日まで生きてきた。……集中しろ。いくら相手が自在に動けているとしても、何かカラクリや弱点はある筈だ。呪いは人間の負の感情から生まれた存在なのだから、この呪いにも恐らく元となった人間が根本的に恐れた"モノ"がある。それが何なのかを大体把握出来れば私にだってやりようはある。そしてなにより、私はこんなところで長々と足止めされる訳にはいかないのだ。七海くんから彼の封印を聞かされてからずっと私の頭の中から、記憶の中から、綺麗な彼の姿が離れない。五条くんの全部を抱擁するような目から、逃げられない。今だって瞳を閉じればすぐに彼の姿が思い浮かんで、と、ぎゅっと瞼を閉じたその瞬間、





「……っ!!」
『ギャア!!!?」





肌に感じた刺すような瘴気に体が動いた。劈くような悲鳴と同時に弾けたような音が響いて、呪霊の右頭部が抉れ、空中に融けていく。何で今場所が急に分かったんだ、と生じた疑問を解決するために思考を回そうとしたが、呪霊が苦しそうにのた打ち回りながら檻代わりに使っていた足を同時にバタつかせたそのタイミングを私は見逃さなかった。一旦難しいことを端に置いて滑り込むように牢獄から抜け出した私にがむしゃらに呪霊の手足が伸びてくる。焦りからなのか、明らかに命中力が落ちた攻撃を躱し、一体今何が起こったのかを必死に考察し続けた。私が今行ったのは五条くんを回想したこと……?記憶が鍵になる、ということだろうか。いやでもそんな要素今まで見せていなかったし、思い返すなんて行為はきっと無意識のうちに何度も戦闘中に行っているだろうからこの線は薄いかもしれない。ならば、私は他に何を、そう考えている内に目の前の建物に向かって勢い良く足の一本が振り下ろされ、咄嗟に地面を転がる。ひり、と掌に擦れたような嫌な痛みを感じつつ、立ち上った砂埃に反射的に目を閉じてゴホゴホ、と咳き込んだ。煙幕のつもりだろうか?これでは目が開けられず碌に敵の位置が見えない……見え、ない?






「……"影踏"!」
『ッグ、ググ!?』





勘と呼ぶには正確すぎる狙い撃ち。紅葉した街路樹の陰を手裏剣の要領で強く分かりやすい気配に向けて飛ばし続け、くぐもった声が聞こえたことで私は、確信した。……思えばそうだ。伏黒くんを助けて影の中に潜った時も視界は殆ど黒に染まっているのにも関わらず、私も彼も自然と呪霊の位置を寸分違わず把握し、攻撃を仕掛けたではないか。その時はこの呪霊の気配を私達は確かに感じていた。しかし、地上に出て悍ましい姿を認識してからは少しも感じなくなり、探そうとするほどに読み辛くなっていた。そしてこの呪霊の「暗い」「怖い」という人間の言語を模倣したような話し方から溢れた言葉はきっと"そのまま"の意味だった。





『イ、イタイ、イタイ!!』
『ニガサナイ、ユルサナイ!!!』





月に照らされた無数の獰猛な牙がギラギラと赤く光っている。先程の場所では分からなかったその存在に思わず奥歯をかみしめる。もう既にコイツは誰かを食ってしまった後だったのか、と、どうしようもない無力感に苛まれながらも、私はゆっくりと左手をネクタイの結び目へと触れさせた。ぐ、と引っ張って解けていく赤は、私が補助監督である証に等しいものだ。そして風に靡いたネクタイをそのまま目元に巻きつけて後頭部で外れないようにキツく、キツく結んだ。自ら望んで遮られた視界には何も映らないが、代わりに"気配"はハッキリと手に取るように分かる。流星が尾を引くように鮮明に感じ取れる呪霊の動きに少しだけ口元を緩めた。






「……私の術式は、触れた影を使役し操ることが出来るもの。影は知性を持ち、ある程度の指示だけでも私の意図を汲み取ってくれる」
『シネ、シネ、シネ!!!』
「暗いことは恐怖の象徴なのかもしれないけれど"私"は違う!」






一斉に向かってくる腕の気配。ギリギリで背後に倒れ込むように私は地面の奥へと沈む。立っていた場所に無数に残った呪力を認識しつつ、体全体で触れた影に命じる。この付近の影から敵を包囲するように攻撃をしろ、と。それに従うように次々と体を出して行く影を見ながら私はまた、呪霊の後ろへと回り込む。幸か不幸か、また私たちはあの場所へと近付いている。初めにコイツが出てきた壁、まさに今呪霊は背中を向けていた。遠距離から打ち出され続ける影で出来た弾に気を取られているそこは、隙だらけだった。






「ッは、あっ!!!!」





影から飛び出した勢いで体を捻り、全体重を乗せた蹴りを繰り出した。斜め上から刃物を振り下ろしたような厚みある蹴りは呪霊の体を波打たせ、数秒後圧力が加えられた水風船のように破裂した。右脚から伝わってくる肉にしては柔らかすぎる独特の感覚に若干顔を顰めつつ、同時に触れた黒い体に「"影響"!」と叫んだ。さっき擦れた手に滲んでいた血が呪霊の体内に吸収され、血管のように浮き出したのが見える。……そして私は一言、契約した呪霊自身の体に呟いた。





「……"食い尽くして"」





ドクン、と見えない視界の中で私の声に呼応するように呪力を脈打った血管は先程までとは比べ物にならないスピードで呪霊の体へと根を張り始める。慌てて飛び降りて距離を取り、巻いていたネクタイがずるり、と首にまで垂れ下がる。見守る私の前で悲痛そうに転がる"暗闇への恐怖"を具現化した呪霊はみるみるうちに大きかった体を縮ませていく。不定形だった体もいつの間にか無くなり、本体である大きな口だけとなり、そして、最後にはタバコの吸い殻のように萎んで、消えてしまった。私との契約を果たした影もまた近くの影に吸い寄せられるように居なくなり、私だけになった通りは途端に静けさを取り戻す。周りに他の気配は、ない。






はぁ……と深い溜息が溢れて体の力が抜けた。首輪のように落ちたネクタイを解きながらへなへなとその場に座り込んだ私は穏やかに浮かぶ月に少しだけ笑い掛けて、ありがとう、と言葉にしていた。私の戦いには影を作ってくれる存在が必要不可欠で、太陽や月といった大きな光源には感謝してもしきれない。そしてまた、あの呪霊も似たような存在だったのだろう。元々掴みどころが無く、すぐに変形する体を不思議には思っていた。なんとなく感じていた違和感と既視感の正体が私と同じ"影"に近しいものだと気付けたのが今回の勝因だろう。


暗い、怖い、逃げろ……という語彙に真っ黒な体。挙げ句の果てに目を閉じないと……いや、何も見えない状態、見ないという"意思"を持たないと感じられない呪力。変わった条件で動く呪霊は恐らく、人間の漠然とした暗いもの、暗い場所への恐怖心から生まれたものだろう。本質的に暗い場所を嫌う人間は多いため、ここまでの強さを誇っていたのも頷けるし、少なくとも大外れでは無いはずだ。向こうの誤算はきっと、私が能力の都合上暗いことに慣れていたこと、学生時代にその恐怖とはとっくに向き合っていたこと……だろうか。逆にそうでなければもっと苦戦した相手になっていたかもしれない。奥の手が残っていた可能性もあるし、本当に今回はたまたま相性が良かった。






「……久しぶりに、やったなぁ……」





大の大人が独り言なんてどうかと思うけど、言わずにはいられなかった。掌に残る確かな傷跡と、右脚の気だるさ。戦ったんだなぁ、という実感がじわじわと湧いてきて最早笑ってしまう。確かに私が得意なのは相手のパターン把握だけれども、近距離も遠距離も苦手な訳ではない。というか、苦手だったけれど矯正された、に近いだろうか。私の能力は確かに戦闘に向いてはいなかったけど、それで生き残れるほど呪術師は甘く無い。そう教えてくれたのは紛れもなく私の唯一無二の友人達だ。私の友達は皆各々特別な才能があって、それを惜しみなく私が出来る形で伝授してくれたと思う。……流石に反転術式はどうにもならなかったけれど、近接戦や敵との対峙について教えてくれた彼等にはやっぱり感謝しか無い。ひたすら投げられ続けて受け身と影を使っての回避が上達したのは五条くんのおかげだし、2人ほど体格の無い私でも出来る近接の技やノウハウを教えてくれたのは夏油くんだ。そして怪我した時はいつも硝子に助けてもらって……そんな経験は今でもこうして色濃く残り、ブランクがあってもある程度は体に刻み込まれている。逆に言えば、ブランクがあっても大丈夫なくらいに真摯に向き合ってくれていた、ということだと思う。


それが嬉しいような、懐かしいような、少しだけ寂しいような不思議な気分が込み上げる。奇しくも今、私を含めた全員がここ渋谷に集っているなんて、まるで同窓会だと思ってからすぐに苦笑が零れる。皮肉にしても面白くなかったな、と反省しながらその場に立ち上がり、地面に触れていた部分の砂を軽く叩いた。スーツで戦うのはやっぱり大変だけど七海くんはよくあれで動けるなぁ、なんて。現実逃避のつもりで呑気なことを考える。腕時計に目を向けると時刻は22時39分を指していた。





……取り敢えずは渋谷駅に向かわないと話にならない。でもここから先はまだ確認出来ていないし、伏黒くんとは方向が違ってしまうけどストリームの方から副都心線まで向かった方がいいかな。そんなことを思いながらビルに映る影の方に歩いてネクタイを括り直そうとしたけれど、ふ、と思い立ったように途中でその手を止めた。赤いネクタイは、補助監督の証。でも今の私はきっと、そうではない。首に掛けたそれをするすると力抜いて内ポケットの中に丁寧に折り畳んで仕舞い込む。そしてまた影の中へとトンネルを潜るようにして足を進める。……束の間の覆われた視界と、溢れるように感じる呪力の動きは、もしかしたら五条くんがいつも見ている景色と近かったのかもしれないなぁ、だとか。そんなことを考えてしまう自分に危機感が薄い自覚がある。でも、こんな時でも普段の彼のことを思い浮かべるのは今を見たくないからなのか、それとも彼と過ごす普段が恋しいからなのか、真偽は分からなかった。





ネクタイと視界



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