高専の門下が、ぱっと華やぐような鮮やかな紅と銀杏が音も立てずにはらはらと落下していく。澄み切った秋空に薄く斜めの雲が掛かり、爽やかな冬への移り変わりを助けているような気がした。黄金を敷いたような地面にアクセントとして散りばめられた紅葉の色彩が瞳の奥に焼きつき、それをぼんやりと見上げる小さく伸びた背中に自然と頬が緩む。名前を呼んだ僕の声に少し肩を震わせてから振り向いた彼女には鏡の破片が振り撒かれたような秋の日差しがキラキラと降り注いでいた。






「五条くん?」
「綺麗に染まったね」






捺の肩に器用に乗っかった一枚の葉を指先で摘んで、ふ、と息を吹き付けながら宙へと飛ばす。キョトンと瞬いた彼女はそれを見て少し恥ずかしそうにしながら、ありがとう、と感謝の言葉を口にした。ここで何をしていたのかと尋ね「今日は事務作業だけだったから」今は休憩だけど、と笑った彼女の眼は、また色付いた木の葉へと奪われていく。懐かしい、なんてぼやきながら見上げる捺はきっと昔のことを思い出しているんだろう。瞼を細めて、確かに残った思い出を探るように瞳をほんの少しだけ揺らすその仕草を見つめてから、彼女の視線を追体験するように自分も枝の方へと顔を向けた。学生時代は山奥のアクセスの悪い立地に位置する高専に散々文句を言った覚えがあるけれど、大人になってこうして見ると、現代には珍しく四季を感じやすい場所で、この溢れる自然は子供が過ごすには望ましい環境だと思う。僕が今度皆を誘って焼き芋でもしようかな、と呟くと、捺は明るく何度も頷いて、いいね、それ。と僕の提案に賛成してくれた。





「私達もやったよね、焼き芋」
「マシュマロとかも買ってな」
「そうだった……ほんと懐かしいなぁ」





楽しかったよね、と言う彼女の顔は言葉自体の意味とは裏腹に、寧ろ何処か寂しげにも見えた。思わず口を噤んだ僕は少し視線を落として思案し、そのまま、静かに立ち竦む高専の校舎へと目を向け首を小さく縦に振る。うん、と声に出した僕を見て不思議そうに首を傾げた捺に"まだ時間はあるか"と問いかけ、彼女が戸惑い混じりに大丈夫だと答えたのを見てこれは機会だと思い立つがままに手を握った。すっぽりと収まる小さな掌は何度こうしても可愛らしい。目を丸くして困惑する姿ににんまりと頬を持ち上げて「探検しようか」と言い放つと、たんけん……?と平仮名のような発音で捺は繰り返していたが、それをマトモに聞くより先に、制止されるより早く校舎の方へと歩き出す。空いた手でグイッとアイマスクを外してポケットの中に押し込み、軽く頭を振って浮き上がった髪を戻していく。幸いと言うべきか、今日は任務に出ている人が多いらしくて全体的に高専の敷地の中は静かだ。彼女がこんな風に僕に無理やり導かれていても拒否しないことに何とも言えない幸福を感じつつ、当時の記憶の欠片を引っ張り出しながら正面玄関へと足を進めた。





「此処でいつも任務に行くヤツを見送ってた……だろ?」
「うん……そうだね、帰ってきた人を迎えるのもここで、夜はお風呂上がりの子とばったり会ったり……」





ゆっくりと見回す彼女は玄関の石畳も、廊下に上がる段差も、その全てを感慨深そうに眺めている。木製の伝統ある下駄箱に手を伸ばし、這わせた指に付いた埃をなんだかくすぐったそうに見つめるその視線は柔らかいものだった。補助監督となった今、彼女が利用するのは裏門が多いだろうし、こうして玄関から校舎へと足を踏み入れるといった機会は実は学生時代の特権なのだ。……まぁ、僕は面倒で今でもたまに此処から入ったりもしているけれど。まだツアーが始まったばかりだというのに離れるのが惜しそうな捺にくすりと笑みを浮かべつつ、ほらほら行きますよ、と腕を引き靴を脱いで廊下へと一歩乗り上げる。

足先で適当に脱いで少し乱れた靴をその場に蹲み込んで僕の分まで律儀に揃えてくれるその動作は、他所の家に上がった時の奥さんみたいで胸の奥が柔らかい音を立てたのを感じる。こんなにも彼女の一挙一動にときめいていたら身が持たない、と嬉しい悲鳴を上げながら長くて軋みやすい木目の上を軽やかに掛けていく。捺も僕も職場自体は此処だから、物凄く新鮮だという訳ではないが、こんな気持ちで彼女と2人で見返す学校、というシチュエーション自体に意味が宿っている。あの頃は並んで歩く事はあったとしても、こんな風にお互いの手を真ん中で繋いで離れないように、離さないように握り込むような事態なんて早々無い。というかあり得ない。今後先にそんな未来が待ち受けているなんて想像すらも出来なかった。全く人生は分からないものだと鼻歌でも歌いそうなくらい上機嫌の僕を見上げてくる彼女の視線は、初めこそは当惑したものだったが、今は柔和で穏やかな視線へと変化していた。




風呂場、洗面所、トイレ……と順に水回りの側を通り抜け、朝は場所の取り合いだとか、此処の水道だけ水圧が弱くて人気がなかった、なんて思い出話に花を咲かせる。ちょこちょこと彼女の口から呈される苦言の原因が大抵自分かアイツかで、俺の反応を確認しては「やっぱり五条くんのせいだったんだ……」とジトリとした目を向けてくる捺に時効だろ、と笑い飛ばしていく。もう、と不満そうにしていても引かれるままに俺の後を続いて歩く姿がなんともこう、たまらない。視界の端に見えた、太陽光が差し込む廊下に映し出される2人分の影が一瞬あの時の自分達に見えて苦笑する。浮かれ過ぎてる自覚はそれなりにあるけれど、たまにはこうやって過ごすのも、きっと悪くは無いはずだ。当時は俺達の部屋だった個室の前を横切り、此処が誰の場所だった、と会話して、ふとした時に訪れる沈黙にどちらからと言う訳でもなく、お互いがお互いの手に力を込める。何年経っても居なくなった人物の名前を出すのはどうしても憚られて、途端に少し曇る彼女の表情に複雑な想いが込み上げる。……捺にそんな顔は似合わない。くい、と軽く導くように彼女の細い腕を揺さぶって次の角を右に曲がって見える光景は、俺の中の何かを刺激する。何度通っても身構えてしまい、何度歩いても未だに少し慣れない場所。俺の青臭さが詰まりに詰まっている一つの扉。





「……ここ、」
「……捺の部屋。覚えてる?」





じっと暫く扉を見つめてから小さく頷いた彼女の手がゆっくりと、大切なものに触れるような優しさを込めてドアノブへと伸びていく。今は野薔薇が使っているその部屋は当たり前だけれど鍵が掛かっていて開く事はない。捺もまた剥がせるシールでデコレーションされた扉を見て今の部屋の主が思い当たったのか、くすり、と含み笑いを溢していた。……馬鹿な俺はこの廊下を通るだけで毎回必要以上に緊張していたし、4年になってからは唯一此処が彼女と確実に会える場所でもあった。硝子から暗に「捺と会う機会を作れ」と伝えられ、夏の暮れのじっとりとした夜に、初めて俺は捺に贈り物をした。贈り物なんて言ってもそう大したものではなく、カモフラージュの為に買った甘い菓子と、シルバーの安っぽいネックレスの2つ。あの頃の自分がなんて言って渡したのかはあまり覚えていないが、どうせ思い出しても過去の自分に腹立たしくなるような碌でも無い言い方に決まっている。……今では考えられないが、あれがあの頃の俺の精一杯だったのだ。




「大切な人はいるか?」露店が立ち並ぶ通りで不意に怪しげな老婆に声を掛けられ、持ち主の代わりに厄を引き受けてくれると謳われているソレを衝動的に購入したのだけは何となく記憶に残っている。今見れば多分、大した価値もないような装飾品。それでも俺はあの"星"が彼女を護ってくれると信じていたかった。……今もその片鱗は残っているが、当時の捺は兎に角死に急ぐような人物だった。自身の能力を客観的に把握するのが苦手で過小評価ばかりを積み重ねる割には、ある程度の無茶はものともしない。誰かを助けようと走り続ける女だった。学生時代の彼女はいつ居なくなってもおかしく無いような、そんな危うさを常に持ち合わせるようなそんな人間だった。だからこそ、あんな物にも縋りたくなってしまった。出来るだけ、せめて自分が居ない間には、大きな怪我も無く生きて、俺を迎えてくれる事を願っていた。恥ずかしい話、俺は彼女のことが本当に……ほんとうに、大切だった。



ちらり、と捺の首元へと目を向ける。遠目に見てもやっぱり安っぽいチェーンが木漏れ日を眩しいくらいに反射した。その事を思い出したのは、最近になってふと彼女はそのネックレスを付け始めたのがきっかけだ。どんな心境の変化があったのか、どんな思いなのかは正直計りかねているが、あんなに安っぽいネックレスを好んで毎日付けてくれる意味には、期待しても良いのだろうか。本当はもっと高価で今の彼女に似合うものを見繕ってやりたい気持ちの方が強いのだけど、捺が遠慮するのは目に見えているので、今の所その計画はもう少し水面下で動かしていく予定である。






「ここも、結構傷んじゃったんだね」
「……10年は経ってるしな」






そっか、と言いながら風で靡く髪を押さえつつ、一度俺から離れるように手を解いた彼女は慎重に確認するように階段へと腰掛けて一息吐いてみせる。こじんまりとした背中は昔と何も変わっていない。違うのは、そこに浮かんでいるのが泣き腫らしたような顔でも、目を見開いて驚いた顔でも無く、五条くんは座らないの?とでも言いたそうな人懐こい表情に変わっている事だけだろうか。誘われたのに乗っかるように、一応気を付けながら律儀に空けてくれているスペースへと座り込んだ。彼女との間に隔てる壁は見つからず、いつも人ひとり分開いていたそこは今ではお互いの手が無理なく置ける程度の距離へと縮まっていた。



学校の裏手の非常階段。彼女を深く知るきっかけとなる出来事は、大抵この場所から始まる事が多かった。そこは元々悩みやすい捺が1人になれる特別な場所だったのだろう。ちょっとした秘密基地に近い感覚だったのかもしれない。興味と不安を煮込んだような不思議な気持ちで初めて此処を訪れて、燃えるような夕陽の中、ボロボロと溢れる涙を止めようともせずに流す姿が何よりも綺麗だった。折れた翼でも懸命に羽ばたこうとする芯の強さが美しかった。俺を"かっこいい"と認められるお前の方が随分カッコ良かったのに、彼女にその自覚はきっとない。





「……この場所にも、五条くんにも……いっぱい助けられたなぁ」
「……俺も?」
「だって……私が辛い時はいつも五条くんが隣に座ってくれてたでしょ?」





今みたいに。と答えた彼女の言葉と当然だとでも言うような口振りに世界がひっくり返ってしまった気がした。俺が思っていた正しいと思っていた事とか、思い込んでいた出来事が全てくるりと反転するような衝撃。捺は……俺に助けられていた、らしい。それも、いっぱい。俺は学生時代、彼女を救いたいだなんて大それた想いを明確に抱いていたつもりはない。ただ、とにかく放っておけなくて、何かと首を突っ込んでいただけのようなものだ。それが彼女にとって本当にプラスになっていたのか、迷惑では無かったのか、その答えが分からないままに突き進んでいた。所謂お節介や押し付けにも近しく、見る人にとっては悪意とも取れるその感情が、きちんと。彼女への助けとして、彼女自身に届いていたらしいと、今初めて自らで知覚した。

……嬉しい、とは少し違う。安心に似た気持ちがじわり、と湧き水みたいに溢れ出す。捺、と呼んだ名前に上睫毛と下睫毛が揺れて青い空を背景にした彼女が「ん?」と頭を傾けた。目的があって呼んだ訳じゃないからそれ以上の言葉が思い付かなくて、誤魔化すみたいに透明感のある毛先に撫でるように優しく触れる。くすぐったそうな笑みが咲いて、なに、と可笑しそうに震えた声が俺に向けて掛けられた。……なんでもないよ、そう言いながらもつるりとした質感を指先に絡める感覚がどうしようもなく愛おしい。彼女は次第に恥ずかしそうに目を逸らして立ち上がってしまったけれど、それがどうにも勿体なく感じてしまうのはきっと性と言うやつだ。




「……次いこ?」




……でも、それでも俺が追いかけてくるのを待って、なんなら自然と、恐らく無意識に自らの手を少し持ち上げている彼女に堪らなくなり、すぐに手を握ってしまったのは言うまでもない事だろう。もう離す気はないぞと力を込めて、そのままの足で向かうのは今は使っていない旧校舎。その建物が近付くに連れて彼女の足取りが心無しか早くなったように感じる。俺達にとって馴染み深いその場所に近づく為に、木製の階段を一段一段登り、ギィ、ギィ、と音を立てるそれがカウントダウンのようにも思えた。建て付けが悪くなった横開きの扉を少し力を込めて引っ張れば、ガタン、とそれなりの音を立てて視界が開け、溜まった埃が宙を舞う。




今使っている教室よりも日当たりが悪く、少し薄暗い旧校舎。ブラインドなんて無い窓から注がれた光で見知った机と机の丁度中間に四角く、歪んだ図形が描かれている。隣に立つ捺が少し息を呑み込んだのが分かった。彼女の固まった足を引くように、落ち着いたペースで照らされた2席へと歩みを進める。何の因果か、それとも運命か。並んだそれは俺達の"特等席"だった。



お互いに黙ったまま、そっと座った椅子が今では少し小さく感じる。捺もまた酷く懐かしそうに机の上をなぞり、美しい夢でも見るようにうっとりとした表情でそれを見つめていた。誰かに汚される事を知らない無垢にも見えて、それでいて不思議な色気を感じさせるその姿から俺の視線は外れる事を知らない。ずっと見ていたい、でも、こちらを見てほしい。相反した気持ちがぐるりと脳を巡回する。彼女は俺に見られている事なんてまるで気付かずに、堪能するように滑らかな動作で視線を移していく。捺の少し濡れた唇が小さく動いてそこに人名を浮かべていく。同時に浮かんだセピア調の景色に座るのはまだ髪の短い硝子、ゆっくりと彼女の視線がまた次へと移り、一瞬の戸惑いの後でパクパクと紡がれて、今度はそこに胡散臭く笑うアイツが見えた気がした。そして、最後に収束していくようにその瞳が、口が、おれに向けられた。






「……ごじょう、くん」
「……捺」






辿々しい呼び方。甘えるようにすら聞こえた音と片頬に掛けられた薄い光の布。柔らかな午後の日差しが象った彼女の輪郭が霞んで、パステル画のように温かく感じた。それが消えてしまわないように自らの掌を光が当たっている頬に伸ばして、包むように、壊さないように、優しく触れる。……柔らかい。じんわりとした熱が肌から伝わり、親指で撫でたきめの細かい白が吸い付くようだった。俺は彼女よりも綺麗な人を見た事がない。これから先もきっと、見ることは無い。彼女の美しさに気付けない奴等を哀れにも思うし、一生気付かなくてもいいとさえ感じる。ただ、俺だけがそれを知っていればいい。

狡い自覚はあった。反省も後悔もした筈なのに、俺の身体は俺の意思から離れていく。……いや、嘘。俺の意思も身体も、全部が彼女に向けられている。肩が浅く動くのに彼女が、捺が生きている事を感じた。彼女は俺の目の前でいきている。生きて動いている。今日の空を反射する鏡のような瞳は俺から離れなかった。それを肯定だと都合良く受け取った俺の顔が、そうすることが分かっていたように少しだけ傾いて、彼女の顔へと近付いていく。縮まっていく距離、早くなる鼓動、閉じられた瞼、感じた熱い吐息。その全てが混ざり合って、俺たちは、また、






「……五条せんせーい!!!」






突然外から響いた大きな声に俺の動きが反射的に、止まった。ほんの数センチの猶予を残して写真に収められたかのように固まった俺に、同じくして彼女の瞼が開いた。思わぬお預けに思考が一瞬何処かに飛んでいってしまったような気がする。……先に動いたのは捺の方だった。く、と弱々しい力で俺の胸に手をかけて、引き剥がすように後ろへと押されてあえなく遠のいていく彼女の顔。ただ、そこにあるのは俺を拒絶するようなものでは無かった。






「……呼ばれてる、よ」
「……そんな顔しないで」






思わず、頬に触れていた手が彼女の頭の上へと伸ばされた。ぽす、と静かな音を立ててあやすように撫でる俺を見上げるその目は涙と勘違いするくらいに潤んでいて、耳と首まで伝わるくらいに顔は紅葉色に染まっている。さびしそうな、置いて行かれた子供みたいな表情に無性に胸が締め付けられて、唾を呑み込むように、ごくり、と喉が上下する。自分の口から抜けた息に明らかな性の足音を感じてしまうのに言い知れぬ罪悪感と、高揚が渦巻いた。あぁ、可愛い。可愛すぎて色々なものが苦しい。確かに今、捺は俺を求めていた。それを感じただけで嬉しくて、幸せで、喰らい付きたくなってしまう。狡いのはどっちだよ、と髪の流れに沿って動いた手が首筋をなぞり、肩を抜けて、やっと、手の先にまで辿り着くと、ぎゅっと応えるように彼女の手を握った。





「呼ばれちゃったし、戻ろうか」
「……うん」





捺は控えめな力でそれを握り返し、軽く服を叩きながら立ち上がる。気をつけてね、と声をかけながら階段を降りて、僕を探している生徒を見つけるためにキョロキョロと視線を動かした。……勿体ない。なんて、少しはそう思ったけれど、先程の彼女の反応を見る限り、焦る必要はないのかもしれないと思い直した。大丈夫、僕達は進み出している。そんな確信を得ながらも昼下がりの秋空の下をじれったく、来た時よりも明らかに小さな歩幅で歩いていく。2人の時間が終わりを告げるのを少しでも先送りにするために、彼女ともっと過ごすために。収穫祭の前日の美しい秋晴れの中、僕たちのこれからを感じさせる音が、確かにそこに響いていた。





秋空のもと



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