段々と冬が近付く寒空の下、汗をかきそうなくらい全力で走る俺の頭には彼女の顔が浮かんでいる。ぎりっと拳を握りしめて少しでも早く、少しでも前に進めるように地面を蹴った。自分1人では感じられない恐怖がすぐ後ろに迫っているような気がして、大きく舌打ちする。無事でいてくれ、と祈りながらやっと辿り着いた廃屋の中央で、捺は頭を前のめりに傾けながら入り口に背を向けて座っていた。






そこに踏み入れた瞬間に感じた生臭い匂いと、真っ赤に染まった部屋は異質な雰囲気を放っている。いつも結んでいる髪が解け、だらりと前方に流れる様子に、俺という他の人間が来たのに反応が無い事に、嫌な予感がした。捺、と名前を呼んで彼女の肩に触れる。いつもなら笑えるくらい飛び上がるのに、彼女は何も言わなかった。捺の様子を気に掛けつつも辺りにアンテナを張り巡らせるが呪力の反応は無い。ただ、強烈な残穢だけが彼女の周りを無数で取り囲むように落とされている。もう一度名前を呼んで強く肩を揺すった。しっかりしろ、そんな思いを込めて覗き込んだ彼女の腕の中には"何か"がいた。






「……お前、それ……」
「……車から降りてすぐ、襲われたの」
「捺、」
「追いかけたけど、ダメだった」






女、だろうか。その判別が付かないくらい顔面に無数に開いた穴からは彼女の赤黒く染まった制服のスカートが見える。完全に貫かれ、一眼見ただけで命が灯っていないことが分かった。スーツを着ているのを見るに恐らく補助監督の誰かだろう。右腕は無くなり、顔も潰れ、挙げ句の果てには言葉通り首の皮一枚だけで辛うじて繋がっている頭部と上半身がグラグラと、まるで何かの蓋のように揺れている。凄惨なんて言葉では言い表せない光景に口を噤んだ俺へと振り返った彼女は、笑っていた。溢れ返るような悲しみや怒りでバランスを取れなくなった感情に釣り合いを持たせる酷く痛々しい仕草に、俺は殆ど反射的に捺をその場に気絶させていた。ぐったりと重力に従って倒れようとした体を受け止めて抱き上げ、離れた地点で待機させている俺をここまで連れて来てくれた補助監督に連絡して車を回させた。無垢な少女のようにあどけない表情で気を失っている彼女が、起きた時には全て忘れられたらいいのに、と願ってしまう。ここ最近の捺は……いや、捺に限らず俺達は顔を合わせる暇がないくらいに忙しかった。忙しく、なろうとしていた。任務に集中していれば何も考えないでいられる。傑のことも何もかも、忘れられる気がした。そんな都合のいいことある訳がないのに。





「五条くん、閑夜さんは……」
「……生きてる。補助監督は手遅れ」
「……そう、ですか。遺体は……」
「一応あった。正直見るに堪えないとは思うけど……回収は?」
「アイツ……上田には旦那と子供がいます。お手数をおかけしますが、」





ハンドルを握った補助監督の手に血管が浮かんだ。きっと知り合いだったのだろう。彼が頼むより先に了承し、彼女を後部座席にそっと、少しの振動も与えないように乗せてやってからもう一度廃屋の中へと足を踏み入れる。血で出来た水溜りに伏している女性の胸元には"上田"と書かれた名札と地方限定らしいストラップが吊るされている。それには見覚えがあって、つい、手を止めた。捺の携帯にも確か色違いの物が付いていたはずだ。それに上田という名前には聞き覚えがある気がする。これ以上遺体が損傷しないように細心の注意を払いながら持ち上げて、カツ、カツ、と何も居なくなった静かなコンクリートの上を歩いた。






「これ、上田さんとお揃いで買ったんだよ」
「へぇ、いいじゃん。結構可愛いし」
「何処につけようかなぁ……財布?携帯?」
「アンタ本当あの人の事お気に入りだよねぇ」
「だって私が初めて担当してもらった補助監督さんなんだよ?緊張してた私に凄く優しくて……!」
「はいはい、その話何回も聞いたって」






目を輝かせて"上田さん"について話すその姿と呆れまじりに息を吐き出す硝子。遠目に眺めて楽しそうだねと肘をつく傑に、その前でじっと彼女を見つめていた俺。ほんの1年前くらいのまだ新しくて、それでいて懐かしい記憶。きっともう一生体験出来ないあの瞬間。……大切なものは失ってから気付くとはよく言ったものだ。俺はあれを大切だとは言わないが、確かに失いたくないものではあったように思う。軽く唇を噛んだ俺を照らす太陽の光は皮肉な程に眩しい。ついさっきまでの曇り空が嘘のようで、明るい場所で映し出された無残な死体に視線を落として再度溜息を吐き出す。珍しい光景ではない、でも、慣れるわけでもない。運転席から身を乗り出した補助監督が俺の抱える人物を、その惨状を見て唖然とし、それから歯を食いしばったのが分かった。





「どこに乗せる?」
「……助手席で、お願いします」
「……一応聞くけど、シート弁償になるよ多分」
「いいんです。それくらいで済むなら……いいんです」





……分かった、と答えた俺は出来るだけ無理の無いように彼女の体制を整えて助手席へと座らせた。彼はシートの前方にある収納から白く一点の汚れもない布を取り出すと彼女の穴の開いた顔の上に優しく、労るように載せると、ありがとうございます、と俺に頭を下げた。僕は何もしてないよ、と返事をしてから捺の隣に乗り込んだ俺は、車が発進して暫くしてから今見てきたものを事細かく報告し始める。神妙に頷く彼はたまに窓を開けたり、ミラーの位置を変更しながらもじっと話を聞いていた。きっと、何かしていないと落ち着かなかったのだろう。最後まで聞き終えてから補助監督はもう一度俺に感謝の言葉を告げた。その後聞こえた押し殺すような嗚咽を耳から遮断するように窓の外に視線を向ける。呪術師もそれに関わる人間も消える時は一瞬だ。生死が紙一重で決まるような世界で俺達は、如何にか生きている。隣で眠る彼女と今回死んだあの女性が逆だったらと考えるほどに恐ろしくなる。確かな死体を乗せた車内で、あぁ、良かった、と感じてしまう俺は、悪魔と大差ないのかもしれないと自嘲した。








捺の救援要請に向かってから数日、彼女は現場に復帰していた。硝子曰く捺自身はあまり大きな怪我をしていなかったらしい。一応医務室に顔を出しに行った時には何でも無いような顔で硝子と談笑していて、不意に扉近くに立つ俺を見つけた彼女は「助けに来てくれてありがとう」と普段と変わらない笑みを浮かべながら感謝を述べる。……だが、俺はそれにどうにも違和感を覚え、愛想無い返事をして直ぐにその場から離れてしまった。机に置かれていた彼女の携帯には以前まで付いていたストラップが綺麗に無くなっていた。






傑が高専からいなくなって、もう2ヶ月になる。傑は硝子と俺に顔を見せたその後、捺の元にも向かったらしい。中々外出から戻ってこない彼女に硝子が連絡したら電話越しに物凄い泣き声が聞こえてきたと以前話していた。結局日が落ちた頃に泣き腫らした赤い目で帰ってきた彼女の左手には包帯が巻かれていて玄関で待っていた俺が何があったのかと問い詰めたが、彼女は「夏油くんと会った」以外のことは俺にも硝子にも、他の誰にも言わなかった。せめて傷を見せろと言った硝子にさえも大したことないと頑なで治療もさせてもらえなかったと嘆いていた。


あの日から捺は傑の分の仕事を全て自主的に引き継ぎ始めた。一度は夜蛾先生が止めたらしいが、聞かなかったようだ。あくまでも笑顔で大丈夫だと答える彼女は任務をこなし続け、遂には準一級にまで昇格した。以前までは消極的で階級が上がることにすらも申し訳なさそうにしていた彼女は、ただ「ありがとうございます」とだけ告げて更に任務に没頭し始める。最近は医務室に来る怪我もしなくなった、と揶揄いまじりに話す硝子が少し寂しそうに見えたのはきっと、幻覚ではない。経験を積むにつれて術師として洗練され、負傷が減るのは喜ばしい事のはずなのに、同級生である俺達はただただ不安が募っていく。……そして、それが的中したように今回の補助監督1人の死傷者を出した事件が起こったのだ。




別に、彼女に何かミスがあったわけではない。たまたま呪霊が彼女達が乗っていた車に先制攻撃を仕掛けてきた、それだけだ。高専が想定していた以上の呪霊で殺される前に殺す、そんな知性を持っていた不運な事故と言っても良い。でも、捺がそれで納得するようなタイプじゃないことは分かっている。だからこそ知り合いが死んでも馬車馬のように働き続けているんだろう。



「ちゃんと見てあげてよ。多分、無理してるから」
「……硝子がそんな事僕に頼むの、珍しいね」
「前までよく話を聞いてくれてた上田さんは死んだし、私はココで缶詰。気持ち悪い一人称でヘラヘラしてるお前のが自由だろ」
「……おい、気持ち悪いは余計だろ」



矯正途中の俺を笑いつつ、医務室から追い出した硝子はアレでいてそれなりに真面目な相談のつもりなんだろう。元々対して俺達にも興味が薄いところがあるし、こんな風に頼まれるのは非常に珍しい。まぁ、別に頼まれなくとも関係は無い。元々俺は今日、アイツと話すつもりだった。校舎を出て夕方の高専の周りをゆっくりと練り歩く。この道を通るのもなんだか久しく感じた。俺が彼女を本質的な意味で知ることになったあの場所、きっと彼女はそこに居るという根拠のない確信があった。……ぼんやりと、掻き消えてしまいそうな儚さを纏いながら非常階段に座る小さな背中と人影。あの日呼べなかったその名前を、背後から口にした。






「捺、」
「…………五条くん?」






目を丸くして俺を見た彼女は泣いていなかった。返事をするより先に人1人分空けて同じ段差に腰掛けて、足を下ろした。確かにここから見る景色は高専より下の街まで一望できて悪くない眺めだ。何も言わずに座った俺を戸惑ったように見上げる捺は1年生の時よりも随分大人びて、綺麗に、なったと思う。初めてこうして彼女と並んだ時はどうすれば良いのか、何を話せばいいのかも全く分からずにひたすら黙っていた気がする。思い出すと痒くなるような話だが、俺にとってあの時の捺はよく分からない人物だった。それが不思議なもので、今の彼女が何を考えているのか手に取るように分かる気がするのだ。俺も随分彼女を知り、見てきたんだなと思うと中々感慨深い。





「……痩せ我慢すれば良いってもんじゃねぇぞ」
「……!!」
「分かってるだろ自分でも」





俯いていた顔を持ち上げた捺は瞬きと共に長い睫毛を震わせる。そんなことない、彼女がそう言おうとしたのを視線だけで制するとぎゅっと唇を横一線にして黙り込む。きっと彼女は、傑の離反から進み始めた止まれないレールに乗ったように無理を続けている。アイツに何を言われたのかは分からないし気にはなるが、俺から尋ねる事ではないと思っている。だから、確証はない。だが少なくとも……傑の在り方や生き方に何かしら影響を受けた上で無理をしているのは明白だろう。迷惑をかける訳にはいかないと誰かに話すこともせず抱え込んで、破滅を迎えるようなソレが美徳とは思えないし、俺は彼女にそうなって欲しくはない。だから俺は質問を続けた。





「なんでお前、補助監督が死んだ時……泣かなかった?」
「それは、私が泣いても迷惑を……」
「掛けるからって?違うだろ。お前は認めたくなかっただけだ」






ゆらり、と空を映すような透けた瞳が揺れる。きっと彼女は忘れようとした。酷い事件を思い出さないように、受け入れないで済むように。……捺も馬鹿ではない。すでに無茶を続けている体に自覚はある筈だ。だからこそ、今立ち止まってしまったら自分がどうなるか想像が付かなかった。親しい人物との死に向き合った時、自分が1人で立ち上がれるのかどうか分からなかったのだろう。彼女は選んだ、見なくて済む方法を。





「お前が今どんな思いで呪術師をやってんのかは知らない」
「……」
「……でも、お前みたいな馬鹿が泣いて掛かるような迷惑は俺には関係ないだろ」
「五条くん……」
「……聞いといてやる。話せよ」






ぶっきらぼうでどうしようもない促しの言葉。それでも捺は少しずつ、ポツポツと落とすように自らの想いを語り始める。それはこの3年で彼女もまたきっと、俺のことを理解した故のことだろう。俺が何を言いたいのか彼女は理解していた。"私は正直夏油くんの気持ちが分かる"という切り出しで始まった彼女の吐露には苦しさばかりが溢れていた。このまま術師を続けても何も変わらないし、変わるとも思えない。自分はその中でも出来るだけ被害者を減らしたいと思ってここまで術師としての道を歩んできた、そう語る彼女は悲しそうだった。





「結局……助けられなかった。上田さんも他の被害者も、みんな……」
「そうだな」
「夏油くんが言うように今のままじゃ変わらないし、連鎖は終わらないんだと思う。私は彼を否定しておいて、彼の思想を認めている………でも、」
「…………」
「わたしは……夏油くんみたいに強くもないし、思い切った決断も出来ない!!お母さんや普通に生きている人を殺すなんて考えられないし、したくもない……」
「……あぁ」
「……こんなの中途半端だよね……どっちにもなれないし、何にもなれない」






捺の声が感情の波に揺らいだ。叫びにも似た彼女の悲痛な訴えは夜が近付く高専の一角に響き、空気を震わせる。今にも泣き出してしまいそうな潤んだ瞳をしているのに、そこから涙は溢れない。……彼女もアイツも、つくづく厄介な性格をしていると思う。似ているようで似ていない。溜め込んでは自分の中で消化できない黒いものを抱えていく。生き辛そうな、馬鹿達。





「別に、中途半端で良いだろ」
「…………え、」
「何が悪いんだよ、つーか人間なんて大体そんなもんだろ。全部に白黒付けなきゃ気が済まないってか?」
「そ、そういうことじゃ……」
「似たようなもんだろ。そんなんだからお前も、アイツも真面目ちゃんなんだよ」





捲し立てるような俺の声に捺は大きく目を見張った。口を開いてパクパクと動かしているが喉を震わせるまでには至らないらしい。辛うじて溢れた息の音だけが鮮明に聞こえた。そんなに驚くようなことを言っているつもりはないが彼女にとってはそうだったらしい。こういうところが面倒くさいんだ、と肩を落とした俺はそのまま続ける。





「どうせ中途半端なのに泣けないとか思ってるんだろうけどな、そんな事ある訳ないだろ」
「……でも、五条くんは……そういう人あんまり好きじゃない、よね……?」
「……ッはぁ!?」
「だってこんなの面倒臭いでしょ……?もっと真っ直ぐで、分かりやすい人の方が……」





面倒臭い、という言葉をピンポイントで当てられてうぐ、と体を一歩引いた俺に捺は眉を下げて「ほら」とでも言いたそうな顔をする。ていうか大体、好きじゃないってどういう意味だよお前なんでそんな事気にしてんだ!?と急に暴れ出した心臓を気合で抑えるためにひっそり呼吸を深くする。確かに彼女の読みは外れてはいない。実際俺は面倒な奴は正直嫌いだ。ウジウジされてもやりにくい。でも、かと言って彼女がそれに当たるかと言われると違うと思っている。捺は無茶もするし1人でよく悩む。誰かを頼ろうともしないし、自分でどうにかしようとする。最悪だし面倒だし勝手だ。……でも、






「……それが、お前だろ」
「……!!」
「確かに面倒な時もあるし、後ろ向きなクセに頑固な所もあってややこしい奴だけど、それが別に欠点って訳じゃない」
「欠点じゃ、ない……」
「そうやって悩んで、足掻きながら……それでも被害を減らせるように尽くせるってのはお前の良いところなんじゃねぇの」






瞬きすら忘れたような眼で顎を落とした彼女の間抜け面を鼻で笑った。じんわりと滲み出すように膜が張り、縋るような視線が俺を見る。ひでえ顔、思わずそう呟いた瞬間、小さく唸りながら捺はポロポロと涙を零し始めた。光に反射して輝きながら落ちていくそれを見つめて、少しだけ距離を詰めてゆっくりと親指の腹で拭ってやる。ホント、手のかかるやつ。泣くのすらも我慢する強情な女。……風邪を引く前には中に戻るか、とぼんやり考えながら、情けなく震える声を聞いて俺はしばらくそこに座っていた。結局、夕陽が沈むまで泣き腫らした捺の背中に一瞬回しかけた腕を宙に浮かべて直ぐに戻した俺を何処からか見ていたらしい硝子に、晩御飯の時に「意気地なし」と指摘されて思い切りむせ返るのは、また別の話だ。





強情



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