「捺との任務は久しぶりだね」
落ち着いた夏油くんの声に同意するように頷く。じっとりと汗が流れるような心地の悪い夏の日の元を2人で歩きながら私達は本当に久しく、同じ任務に配属されることになった。月日が流れるのは早い。3年生になった今は特にそう感じる。少し前までは4人で教室に集まって、取り留めのない話をしていたのが常だったのに、私達全員が揃う時間は減っていった。別にそれは私達だけに限った話ではない。高専には基本的に人手が足りていないので、3年生にもなると学生も殆ど一人前の術師として扱われることが多かった。特にこの代は色々な面に秀でている人が多かったので自然と単独での任務が増えていた。昨年度に災害や大きな呪霊に関する事件が多発したこともあり、今年の夏は皆が皆忙しそうにしている。よく私を担当してくれる補助監督の上田さんが言うには「ここまで毎日何かが起こるのは珍しい」らしい。彼女もベテランだし、今までの夏を経験している分比較して教えてくれているんだろうけど、それはそれで何となく複雑な気分になった。いつかこうなると分かっていたはずなのに、いざ彼等と顔を合わさない日が出来ると寂しくて仕方が無かった。
「……今日はどんな呪霊かな」
「それ……懐かしいね」
「あぁ……そうだね、懐かしい」
「いつも大体五条くんと硝子がふざけるんだよね、2人の予想当たったことないもん」
「そう、だったね。そうだった……捺の勘が冴えていることが多かったんだっけ」
夏油くんが不意に呟いた言葉にシャボンが弾けたみたいに顔を上げた。蘇る懐かしい記憶にきゅ、っと目を細めてノスタルジックな気分に浸る。朝一の任務では皆中々……特に、今いない2人に気合が入らない事が多いからいつも夏油くんがこうして話を振ってくれていた。もとより答える気もない彼と彼女がその日の気分で何の因果もない呪霊を予想し、最後に私がそれなりに真面目な答えを提示する、そんな流れ。初めは私達の交流を取り持つために彼が計画してくれていた"それ"はいつしか当たり前になり、最終的にはピタリ賞が出たらジュースや駄菓子を他の3人が奢るシステムが構築されて、本気のクイズ大会になって……私も私でたくさん奢ったし、たくさん奢られた、良い思い出だ。
いつからこの風習が無くなってしまったのか、ハッキリとは覚えていない。硝子は学年が上がるにつれて術式の特異性が更に評価されて、彼女と共に現場に出ることは減っていた。それでも暫くは3人でも遊んでいた筈なのに、いつからやめてしまったのだろうか。仲間内での流行りが廃れることなんてよくある話なのに、ぽっかりと穴が空いたような気持ちになるのは何故なのだろうか。たった今、彼が言い出さない限り私はずっと忘れてしまっていたのかと思うと、人間の記憶力は本当にちっぽけで大したことのないものなんだなと痛感してしまう。少し視線を地面に落とした私を夏油くんは黒い目で静かに見つめると小さく息を吐き出して、ごほん、と態とらしい咳払いをしてみせる。
「捺は、今日はどんなやつだと思う?」
「……そう、だなぁ……今回は住宅街だし、仮想怨霊とか?」
「いいね、見た目は?」
「女の子かな、児童とかそれくらいの」
以前の感覚を手探りで探すような会話。昔はスラスラと答えられていたのに、と老いを感じるお爺さんやお婆さんの気持ちをほんの少しだけ理解出来た気がする。こんな歳で理解したくはなかった、というのが本音だけれども。鬱憤とした気持ちを振り払うみたいに今度は私から「夏油くんは?」と声を掛けると、彼は以前より長く伸びた、お団子から飛び出した尻尾を揺らしながら、そうだな、と思案するように顎に手を当てる。考え込んでいる夏油くんの横顔を盗み見るように見上げて、薄く隈が貼った目元に1人眉を顰めた。眠れて、いないのだろうか。
五条くんが指摘していたように彼の頬の周りは前よりもすっきりしたように見える。すっきり、というのはあくまで建前で、歯に絹着せずに言うとすれば"痩けて"しまっている状態に近い。最近の呪霊は飛び抜けて強大なものは少ないが、兎に角、数が沸いた。人間の負の感情というゴミ溜めに集る蝿のように、祓っても祓っても減らないそれらに私ですら嫌気が差し始める。ここ1ヶ月程、夏油くんを見かけたのは朝の挨拶や夜寝る準備をしている時ばかりだった。ある日水を飲みに行こうとキッチンを目指して歩いていた時、疲れ切った様子の彼が電気も付けずに暗い玄関に座り込んでいるのを見つけたことがあった。一瞬身構えたが、それが彼だと理解してからは慌てて駆け寄り、こんな時間まで任務を?と尋ねると、夏油くんがそっと、曖昧な笑顔で「三件、一緒に回ってきたんだ」と答えたのに、聞いた私の方が苦しくなって、そっか、と気の利いたことも言えなかったのはよく覚えている。
それに、去年の事件以来、五条くんは前にも増して自主的な特訓を重ねることが多くなった。昔はよく夏油くんに付き合ってもらっているのを見かけたけれど、ここ何ヶ月かは私にも何度か声が掛けられるようになっていた。……とはいえ、彼の術式の特性上、基本的にひたすら自分と向き合って精度や呪力を持ち上げるのが大切らしく、他の3人に付き合いを頼む頻度は格段に落ちている。……前に、何故私を選んだのか聞いてみたことがある。五条くんは、ハァ?と不可解そうに目を見開いていたが、何か考えるように腕を組んでからぶっきらぼうな口調で「最近傑、しんどそうだし」と目を逸らして答えた。その言葉だけで彼の気持ちは痛いくらいに伝わってくる。五条くんが彼を心配する気持ちが、見える。最近の夏油くんはいつ見てもやつれて、疲れているようにも見えた。五条くんは、これ以上自分に付き合わせて無理をさせられないと思ったのだろう。私なんかに頼んでも大した成果は得られないだろうに、それでも、そうした理由には納得がいった。
五条くんは、強くなった。大人も含めて彼に勝てるような人は日を追うごとに居なくなっていった。巷では彼は今、呪術界最強とまで囁かれ始めている。一級という括りでは縛られないくらいに彼の呪力と術式は洗練され、だからこそ五条くんが出るような任務は徐々に限られ始めた。硝子と同じく、何かあった時の為の最終兵器として扱われた。だからこそ1番発生率が高い中堅の呪霊は私や夏油くんの担当になりつつあったのだ。後輩の2人や私も殆ど毎日各地を飛び回っているけれど、夏油くんに比べるとまだ休めている方だと思う。
夏油くんもまた、優秀な術師だった。私よりも器用で応用が効いて真面目な彼。そして、彼の持つ術式"呪霊操術"は今の溢れかえるほどの呪いを祓うのに向いているらしく、結果的に私達の中で誰よりも働き詰めになっていた。本当は、私も幾つか肩代わりをしたかった。五条くんも夏油くんに会うたびに大丈夫か、と背中を叩いていた。それでも彼はいつもみたいな整った笑みを浮かべて「私を舐めているのかい?」とその申し出でを当然のように受け流してしまう。責任感の強い彼のことだ、きっと、自分が受け取った仕事は最後までやり切りたいのだろう。夏油くんがこう見えて頑固なのは私たちはよくよく知っていた。だからこそ、それ以上は何も言えず、本当に大変な時は言えよとそこで心配を打ち切らざるを得なかった。
「私も、仮想怨霊にしようかな。ただ捺とは反対でお年寄りなんてどうかな」
「……ぁ、うん、いいと思うよ。鬼婆とかターボ婆ちゃんとかも色々あるもんね」
「それにこれだと勝敗も決まりやすいだろ?」
一瞬彼の予想を聞き逃しかけたが、子供っぽい表情で目を細めてみせる夏油くんに釣られて私の顔にも自然と笑顔が浮かんだ。こんな風に任務の最中に笑ったのなんて本当に久しぶりな気がする。一人でこなしているだけならば面白いことも、張り詰めた気が程よく抜けるような会話も存在せず、ただ無機質に呪霊と向き合い、祓い、帰るだけの味気ないものになってしまうというのに、彼と一緒にいるだけでいつもの何倍もの力が出せそうな気がした。先程まで青白くすらあった夏油くんの顔色も心無しか落ち着き、柔らかな表情を浮かべていている。少しは、気が紛れただろうか。……そう思った直後、途端背後で感じた確かな呪力に私達はその場を転がるようにして電柱に身を潜めた。ジ、ジ、と古くなった街頭が不気味な音を立てて点滅し、ゆらりと大きな動作で揺れ始める。私の向かい側の電柱に隠れた彼とアイコンタクトを取る。出所はまだハッキリとは特定出来ないが、この辺りに居ることは間違い無い。
「……公園の方だね」
「……え?」
「いこう、捺。まだ夕方だし巻き込まれる人が居るかもしれない」
私の戸惑いに気付かなかった彼は一目散に奥に見えた公園へと走りながら呪霊を何体か出現させていく。呆気に取られた私は少しずつ遠ざかる夏油くんの広い背中を見つめたが、すぐに我に返って続くように足を進める。……違和感。特筆すべきほどのものではない、ちょっとした乱れ。今の呪力であそこまで自信を持って居所をほぼ完全に把握することなんて出来るものなのだろうか。元々索敵に優れているタイプなら可笑しくはないが、夏油くんは私の知る限りそうでは無かったはずだ。いや、でも、彼とこうして現場に出るのは暫くぶりだし、最近更に過敏に成長したのかもしれない。幾らでも説明はつく。……だけど、この妙な胸騒ぎはなんなのだろうか。地面を見つめて残穢を辿ろうとしたけれど、残されているのは夏油くんのものにしては少し澱んだ跡だけで、それ以上は何もわからなかった。
「……あんまり、嬉しくないね」
つい、口から零れた本音に夏油くんは苦く笑って頷いた。それでも勝ったのは君だと私の手に冷たいリンゴジュースを握らせた彼と私は静まり返った公園のブランコに腰掛けて足を揺らしていた。今回の呪霊は子供だった。自分が呪霊となっていることに気付かないくらいの、年端のいかない女の子だった。砂場でお城を作る彼女の服は見窄らしく、破れた袖やズボンからは真っ青な肌とポッカリと赤黒い穴が無数に口を開けている。先に現場に着いていた彼は女の子を見て言葉を失っていて、後から駆けつけた私も同じように立ち尽くすことしか出来なかった。
「女の子……?」
「……この気配は全てこの子が担っていることは確かだ。でも、今のところ敵意は感じられない」
冷静に、私にだけ聞こえるような声で夏油くんは呟いた。確かにこの呪霊は私達にすら目を向けず、必死に手らしきもので砂を掬っては積み上げ続けるばかりだ。おそらく、何か悪意を持ってそこに存在する訳ではない。脳裏に浮かんだ言葉は"地縛霊"の3文字。この子はきっと、死んだことにすら気付いていない。……死後呪いに転じる事例は少なくないが、少なくとも私はこんな小さな子が呪いになってしまっているのを直接見たのはこれが初めてだった。相手が子供である故に下手に刺激してしまうと手が付けられなくなる可能性もある。無邪気で純粋な恐怖は時に悪意よりも強大な力を生み出すことがあると昔先生に習った事を思い出した。夏油くんは暫くそうして少女を見つめていたが、軽く息を吐き出してから事前に外に出していた呪霊を空間へと押し込め、敵意を解き始める。同じ呪霊を寄せるのはリスクが高いと判断したのだろう。とは言えこのままでは埒が開かないの事実で、彼は私を見てから「一度、」と何か言おうとした。
「ば、化け物よ……やっぱりあの子!!」
「ッんだよ…コイツいつまでもいつまでも……!!大人しく死ねよ!!!」
だが、彼の提案は突如響いた劈くような金切声に阻まれる。揃って視線を向けた先にはまだ若い男女のカップル、のような2人が砂場に指を指して大声を上げている。まずい、このままでは……と彼等を止めるために走り出そうとしたが、夏油くんは私の手首を思い切り掴むとそのまま自身に引き寄せてしまう。男性の力で動きを封じられた私は驚きのままに彼を見上げたが、そこに滲む明らかな敵意と憎悪の表情に息を呑み込んだ。それは私に向けられているものでは無かったが、彼の怒りが肌を刺すように此方まで伝わってくる。その間にも男女は砂場に俯く少女に近付き、終いには男が少女を思い切り蹴り飛ばした。つい目を背けてしまった私はそれをただ見据え続ける夏油くんに、どこか恐ろしさを感じた。今彼は、なにを考えているのだろうか。
男の足は少女の体を貫通したので、彼女が吹き飛ばされるような事態にはならなかった。しかし、その行動から直ぐにあたりの街路樹が突発的な風に揺られ激しく動き、ブランコがぐるぐると何の力も加わらず1人でに動き出す。ジジジ、とさっき見たように電灯が点滅し、明らかに呪力が高まっているのが分かる。腰を抜かしたように砂場に倒れたカップルがどんどん蟻地獄に呑まれるように埋められて、もがき苦しみながら助けを求める目を私達に向けた。……夏油くんは、動かない。
このままではいけない、警笛が私の頭に鳴り響いて、私は咄嗟にその場に蹲み込んだ。少し夏油くんのバランスが崩れ、それと同時に彼と私の影に触れて「"影踏"!!!」と声を張り上げた。2人を助けるように指示を出し、何とか使役したそれに巻きつかれる形で砂から這い出ることに成功したカップルだったが、それを逃すまいと砂はまるで触手のように追いかけてくる。近くに触れる影は無い、祈るような気持ちで夏油くんを見上げ、彼と視線交差させたほんの一秒。澱んでいた気配は途端に晴れ渡り、砂場にいた少女の霊は夏油くんが砂場の下から呼び出した呪霊に丸呑みにされていた。
……良かった。がくりと全身から力が抜けて立ち上がることが出来なかった。被害は、出ていない。カップルは気を失ってはいるが生きている。捺と呼ばれた名前に顔を上げると、酷く頼りない表情で瞳を揺らす夏油くんが「すまない、私は、」と自分でも信じられない、といった様子で喉を鳴らしていた。そんな彼に言うべきことが見つからなくて、
「……今日は夏油くんの奢りだね」
そうやって、私はただ、笑って誤魔化すことしか出来なかった。
自販機から買ったばかりの淡い黄色のリンゴジュースが夕闇に溶けそうに見えた。賭けに勝ったのは確かに私だったが、こんなにも喜べない奢りは初めてかもしれない。……あの後、目覚めた若いカップルに話を聞いて、彼女が彼等の子供だったという事が分かった。一週間前に自らの"過失"で死んだ娘の体をあの砂場に埋めていたらしい。酷く後味が悪く、辛い話だった。夏油くんは彼等の話を聞く間、ずっと強く拳を握っていた。あの子はきっと本当に悪い霊では無かったのだろう。それが、悪意に触れて呪力が増幅し、過去に受けた傷と共鳴してしまった……そんなところだろうか。生きていた時もきっと満足に暮らせてはいなかったであろう女の子。そんな姿を想うほどに胸が苦しかった。
「……捺」
「……ん?」
「私たちのしている事に、何か意味はあるのだろうか」
不意に彼が口にした言葉に、ふ、と唾を呑み込んだ。彼は、今……それこそどういった意味を込めて私にそう問いかけているのだろうか。静かな瞳で砂場をぼんやりと見つめる彼に「……分からないよ」と素直な気持ちを呟いた。そう、分からなかった。今回の事件では特にそうだ。私達は呪霊を祓うためにここまで来たのに、蓋を開けてみればその原因は最早、負の感情などでは形容できないほどの、ただの悪意に過ぎなかったのだ。
「私は……最近、分からなくなる。何が正しい事なのか、私達がしていることは正しいのか」
「正直……私も分からないよ。自分が正しいのか、何が間違っているのか……だけど、それを裁けるのは多分……私じゃないから」
これは責任逃れかもしれない。夏油くんの求める問いの答えになっていないのかもしれない。でも、私には何が正しいのか、何が間違いなのかの判断なんて付かなかった。いや、付けられなかった。もし自分で判断してしまった時に、私が間違っていた時に、どうしていいのか、どうすればいいのか、それすらも分からない私にはそんな勇気は無かったのだ。夏油くんは目を伏せて「……そう、だよな」と一言、それだけ言ってからまた黙り込んでしまった。私達の間には口を開けないほどの重い沈黙が流れている。
「でも……」
「………」
「さっきの女の子みたいに、私達が祓って……それで救われる魂があるのなら、その為に自分に出来ることをしたいと、思ってる」
夏油くんは少し驚いた顔をしてから、やっと頬を緩めて「……捺らしいな」と口角を持ち上げた。彼が笑ってくれたことに肩の力が抜けて、そうかな?聞き返すと夏油くんはいつもみたいに優しくて、穏やかな顔を浮かべながら、それが捺の良いところだ、と答えてくれた。あぁ、ちゃんと私の知っている夏油くんだ、と安心した私は彼に褒められた事を素直に受け入れ、喜びのままに口元を綻ばせる。人気のない公園の入り口に黒塗りの車が停車する。顔見知りの補助監督さんが窓から顔を出したのを見て、夏油くんの方を振り向き、帰ろうか、と誘った。
ブランコを背にふらりと立つ彼の体に、燃えるような西日が掛かって、もう半分は影に染まる。不思議な光景だった。夏油くんは私の名前を口にしてから「もし、私に何かを裁けるだけの力があったとしたら、どうする?」と世間話でも言うような口振りで声を発した。私はゆっくりと瞳を瞬かせてから、頭の中で想像する。もし彼に力があって、世界が変えられるとしたならば、
「……苦しむ人を、救ってあげてほしいな」
「……私も、そうありたいと思うよ」
絵に描いた微笑みを唇に浮かべた彼に私も笑った。いつか呪霊が生まれないようなそんな世界になれたなら、この忙しさも収まって、4人で何処かに行ける時間が出来るのだろうか。そんな夢物語を胸に抱きながら地面に長い影を二つ映して私たちは車の方へと歩いていく。私はこの時何も知らなかった。この後起こる全てを、何知らなかった。彼の想いや苦しみを何も、理解していなかった。ドアを開けてレディファーストだと戯ける彼が抱える物を知ろうともしていなかったのだ。そう、私は、
彼と2人で静かに会話するのが、この日で最後になるなんて、考えもしなかったのだ。