「……硝子が居ない?」
「あぁ……何処へ行ったか知らないか?」
すっかり木々が新緑に移り変わった日。教室でもう1人の生徒を待っていた私に夜蛾先生が声を掛けてきた。今日は五条くんと夏油くんは朝早くから任務に出ていて、私と硝子が夜蛾先生の授業を受ける予定だったのだけれど……どうやら硝子が居ないらしい。先生も彼女がそういうタイプなのは分かっていたので廊下を通った時にノックしようとしたけれど、部屋のドアが中途半端に開いていて、おかしいと感じた彼が断りを入れつつ中を覗くとベッドはもぬけの殻だったようだ。電気も消えている中、窓だけはしっかりと換気されていたらしく、彼女が早朝までは部屋にいた形跡は残ってい。
……確かに彼女は、案外気分屋なところがある。硝子はさっぱりとした性格で楽天家。あんまり物事を深く考えるタイプでもないし、後腐れのない女の子だ。今まであまり友人に居なかったタイプではあったけれど、彼女と仲良くなるのに時間はかからなかった。可愛い顔にクールな髪型、そして極め付けの煙草、と、ちょっぴり悪いところもあるけれど、それもまた愛嬌として捉えられるのが彼女の魅力だと思う。一度その術式なのにどうなのか、と言ったことはあるけれど適当に流されてしまうのを見るに、我を通すタイプでは無いけれど、それなりに自分らしさを大切にする人でもある。茶目っ気もあって五条くん達のことは2人まとめて馬鹿なんて呼んでいるし、彼らもそれをなんとなく受け入れている節があるのが中々私達の中での彼女の"らしさ"を表しているようにも思えた。
彼女が授業に遅れたり遅刻をすることは何も珍しい事ではない。先生もある程度は諦めているし、彼女の才能は目を見張るものがある。夜蛾先生の事だからどちらかと言えば前者で彼女の性格を理解している方に近いだろうけど。……それに、彼女は天才肌だ。私が理屈っぽく考えることが多いのに比べて硝子はかなり感覚派で、彼女に何か聞きたいことがあっても明確な答えが帰ってくることは極端に少ない。というか基本的に無い。あの五条くんですら彼女の反転術式の原理は当てにならないと匙を投げているし、硝子は根っからの才能を持っているタイプだ。
そんな彼女でも、任務の時は少しだけ雰囲気が変わって見える。硝子の術式は色々な意味で特別だ。他人を治せるレベルの反転術式は歴史上遡っても多くは存在しない。実際今の呪術界で一線を張っておる中でもあまり名前を聞かない。恐らく、彼女のレベルでの治癒は非常に珍しいのだと思う。だからこそ高専でも彼女は重要な役割に当てられることが多い。私達が受ける任務とは毛色が違って、既にプロとして働いている術師と動くことも多く、それなりに危険な任務にこそ多く依頼されていることが多い。勿論呪術師側からすると彼女が術式を使えない程度の怪我を負えば大きな損失。後方で控えながら怪我人を回復し続けるのが硝子に課せられたある種の"使命"のようなものだ。彼女は私達とは違った想いで任務に臨む。少しでも塩梅を間違え、自分の呪力が切れてしまえば……助かる命が助からないかもしれないというリスクを常に背負っている。だからこそ硝子は大きな任務の前には事前にコンディションを整えてから向かう「ちょっくら行ってくるわ」なんて軽い調子で笑いつつも、そういう時の彼女がいつもより緊張していることは、3人とも分かっていた。
……だからこそ、今日彼女が授業を受けないのは違和感がある。今日の授業内容は「救急時の対応・過去に起こったケースの確認」なのだ。彼女は任務の時は間違っても遅刻はしない、何なら少し早く現場で控えることも多い。そんな硝子がこの内容の授業をサボるなんて……私は中々考え辛かった。気付けば私は眉を下げて困った表情の夜蛾先生に「硝子、探してきます!」と宣言して、そのまま逃げるように教室から飛び出していた。先生の指示を待たずに振り切ってしまったのは心苦しいけれど、何となく胸の奥が騒ついたのだ。
「あれ?七海、捺先輩だ!」
「……そんなに急いでどうしたんですか?」
どの教室にもいないし、廊下を回っても居なかった……もしかして外だろうか?そんなことを考えながら廊下をキョロキョロと見回しながら走る私の名前が不意に誰かに呼ばれ、声のした方へと顔を上げる。そこには爽やかな笑みで手を振る灰原くんと怪訝そうにこちらを見つめる七海くんの姿があった。最近出来た私達の後輩の男の子達はお互いあんまり性格が似ていないみたいだけど、見ている限りではそれなりに仲良くやっているらしい。一緒に特訓したり任務に行くこともたまにあるけれど、何方も私達4人と比べて圧倒的に良い子で、初めて会った日に少し感動したのは今でもよく覚えている。でも、流石に今は少し急いでいるので謝って走り抜けようかとも思ったけれど、広い高専を探す上で誰かからの情報があればよっぽど絞り込むのが楽になると考え直し、そっと足を止めることにした。
「ごめん2人とも……今日、硝子のこと見なかった?」
「私は見ていませんが……」
「僕も見て……あっ!」
「何か知ってる!?」
もしかして!と大きな目を丸くした灰原くんに詰め寄ると、彼は思い出すように少し上に目を向けて「今朝走り込みしてたら窓から誰か出てきて……」と呟いた。窓から出てきた、という言葉に思い出したのは夜蛾先生の言っていた"窓が開いていた"という発言。あの硝子が窓から飛び出して逃げた?そんな事あり得るのだろうか、と思案したけれど手がかりはこれ以外には無いし、それに相手はあの硝子だ。思い切りの良さは結構あるし否定は出来ない。校舎の中は結構見たけれど見つからなかったし……行ってみる価値はある。
「灰原くん、それってどの辺りで見たか覚えてる?」
「あ、ハイ!確か裏門の方でした!」
「裏門って言うと硝子の部屋もあるし……うん、ありがとう!ごめんね引き止めて!」
今日もがんばってね!と声を上げながら私はまた駆け出した。灰原くんの言った通りならば彼女の窓が開いていた理由も説明が付く。丁度私や彼女の部屋のある方は裏門だし、可能性は大いにありえる。硝子、と心の中で彼女の名前を呼びながら、私は一目散に非常扉を押し開けて高専の外へと飛び出した。
「捺さんのあんな姿珍しいね」
「……というか閑夜さんのこと名前で呼んでいるんですか?」
「うん!いいよって言われたから甘えてる!」
「五条さんがいるのによくそんな事できるな……」
残された2人にそんな風に言われている事なんて知らない私は、この時もひたすら校舎の外周を走り回り、硝子の姿を探していた。硝子さん見つかると良いな、なんて2人の思いも肩に乗せつつ、息を切らせながら、ただ必死に足を動かし続けたのだった。
「硝子、落ち着いて聞いてくれ」
「……っくそ、なんで、何であいつが……!!」
「捺は、私達を庇って……」
「なんで、あいつが死ななきゃなんねぇんだよ!!!」
「死んだ、ねぇ……」
チ、チ、チ、と音を立ててポケットから取り出したシルバーのジッポで先の方に火を付ける。カッコつけて昔買った、普通のライターよりも重たいコレは正直携帯するには全く向いていないが、見た目が良いので一応は良しとしていた。紙が燃える……決して綺麗だとは言えない私には慣れた匂いが肺を通って、ムカムカと不思議な不快感を巻き起こす。少し尖らせた唇で咥えたそれを深く吸い込んで、溜息と共に吐き出した。裏門の階段で呟いた現実味のない言葉は煙と共に空へと昇り、ゆっくりと掻き消えていく。嗚呼全く、妙にへこんだときの煙草ほど不味いものは中々存在しないだろう。
……現実味が無いことは当たり前だ。だって彼女は今も生きている。今日の任務はあのバカ二人だし、捺はそこに同席していない。何なら今までもあの2人と彼女という組み合わせの任務なんてありはしなかったし、何でこんな夢を見てしまったのかも分からない。ただ、酷く目覚めの悪い最悪なものだったことには違いなかった。
捺は、私の最近出来たトモダチだ。今まであんまりつるんで来なかった典型的な真面目ちゃんタイプ。別にそれが悪いって言ってるわけじゃ無いし、私には到底出来ないような細かいところまでを詰めて勉強している姿は純粋にそこそこ尊敬している。適当にサボったりばっくれたりするのも兎に角苦手で、私の煙草にも良い顔は基本していない。嫌いなの?と聞いたことは前に一度あったけれど「硝子が肺癌で死ぬのは嫌だもん」と案外現実的な返事が返ってきてめちゃくちゃ笑ったのを覚えている。そりゃ私も肺ガンは嫌だな。今のところ辞めるつもりは無いし、何ならあの子にそうやって面白く注意されるなら他のレパートリーも気になるものだ。
術先は影を操るもので割と汎用性もある。本人は結構悩んでることも多いけど、今のところ割とどうにかなっている。けど、あの自分の体と取引する術式だけは少々頂けない。いくら私が治せると言っても限度はあるし、あの子はその限度を測ってそれを使うようなタイプでもなかった。日々あんなに真面目に細かく頑張ってるのに、自分だけのことになると途端にその境界が曖昧になる問題児には私も中々手を焼いている。最近は多少はまマシになっては来たけれど、これで合格をやるには、ちと早すぎる。ま、マシになれている理由がアイツなのはちょっとムカつく気がしなくも無いけれど。
そして、最近は今も出てきたアイツこと、あの"五条"に何故かバッチリ恋されてるめちゃくちゃな女。それが彼女。正直アイツが彼女を選んだことにはそれなりに感心した。何だ、案外見る目があるじゃないか、と。夏油も似たようなことを考えていたようで初めは一緒になって揶揄っていたけれど、最近は最早愛が溢れて面倒なレベルになりつつあるので若干ウザイ。まあ面白いのは面白いけど、あそこまで好きならさっさと伝えれば良いのに。捺も別にアイツのことを嫌っている訳ではなさそうだし、悪くない結果には落ち着きそうな物なのに。臆病な男はダル〜いものだとしみじみ感じた。
そんな彼女が今日、無惨にも死んで死体すら帰ってこない夢を見た。この世界に生きる上で死んだ時五体満足で体が帰ってくることは割と貴重だと思う。最近は先生の計らいで死亡解剖なんかにも少し携わることがあるけれど、大抵の場合が何かしらの欠損がある。足や腕の一本ならまだしも、上半身だけ、酷い時は下半身のみ、もしくは頭だけ、頭だけが無い……色々なパターンが存在するのが事実だ。そして、たまに全く、何も帰ってこなかった事例も過去に存在する。何パーセントの確率なのかは知らないけれど、その一つに捺が選ばれた夢を見た。今まで帰れなかった死体を見た時は確かに少しは虚しく思ったが、仕方がない事だと割り切っていた。私は大して動揺するタイプでも無いらしく、多分、本当にそんな案件に携わってもそんなに削られはしないだろうと思っていた。
……飛んだ慢心だった。今日は授業に出ようとセットしたタイマーよりもよっぽど早い時間に煩いくらいの動悸で目覚めて、ほぼ衝動的に部屋から抜け出した。廊下を出て誰かと鉢合わせるのも嫌で窓を思い切り開いて屋根を伝って外に踏み出す。アホみたいに目立つ白髪の長身と黒髪の長身が2人で門を潜るのを見て、そこに彼女がいないことに1人で胸を撫で下ろした。ただの夢だ、何でも無い妄想だ、そう分かっているのに煙を吸おうと思えないくらいに動揺している私がいた。ぼんやりと今朝のことを思い出している間に二口程度しか咥えていないのに短くなった嗜好品から、ただの灰が音も立てずにポロポロと地面に落下していく。環境汚染ってか、と自嘲して笑った私は、まだ形を保っているそれを踵で踏み潰した。そして、もう一本新しい物を指先に挟もうとしたその時、
「ッしょうこ!!!」
張り上げるような声で、恐らく私の名前が呼ばれた。一瞬理解が追いつかなくて動きを止めてしまったけれど、走って私の目の前にまで来た彼女の姿に思わず煙草を地面に落としそうになった。膝に手を付き、はぁ、はぁ、と荒い息を必死に整わせながら私を見た目があまりにも真っ直ぐで、つい、言葉が出なかった。しっかりと交わった視線、苦しそうな顔をしていた彼女は、ふ、と頬を緩めて、良かった、と笑った。
「……捺、なんで、」
「先生に無理言って……っ、探しに来た……っ硝子、大丈夫?」
大丈夫か、という問いかけにどう答えて良いのか分からなかった。別に私は大したことは無い。怪我も無ければ、実際に何か苦しいことが起こったわけでも無い。別にこれくらいほんのちょっとしたストライキくらいの感覚で捉えられると思ったのに、どうやら違ったようだ。捺は隣いい?と尋ねつつも引くつもりは無いらしく、既に殆ど腰を落ち着けている。今日の彼女は少し強引だ。でも、それ以上何かを聞くつもりは無いらしい。ほっとしたような穏やかな表情で「ここ、風気持ちいいね」と彼女は微笑んでいるだけだ。あんなにも走ってきたんだからそりゃあ気持ち良くも感じるだろうよ、とぼやいた私に捺は、そうだね、と気恥ずかしそうに頷いた。そんな様子を見ている間になんとなく、殆ど無意識に私の口は動いていた。
「……今日、夢見たんだ」
「ゆめ?」
「そ。あの馬鹿2人だけがノコノコ帰ってきて……アンタだけが帰ってこなかった夢」
「……!!それは、」
目を見開いて驚いた彼女の様子に喉の奥がクツクツ、と揺れた。捺は眉を顰めて硝子、と私の名前を呼ぶばかりで、彼女もどうやって声を掛ければいいのか分からないらしい。そりゃあそうだ、こんなことを突然言われても相手は困るだけだろう。私がこの夢を見た時に1番に感じたのは死の理不尽性でもなく、死にたがりの彼女への心配でもなく、シンプルかつ、切実な、私の願いだった。
「なんで私が……そこに居なかったんだろうなって思った。ただの夢なのにね」
助けられたかもしれないのに、と続けた言葉に捺は黙ったままだった。……そう。彼女は私のいない所で勝手に死んでいた。私が助けられる範囲では無い場所で、死んでいた。私が感じたのは圧倒的な"無力感"他の3人とは違うどころか他の術師に守られる始末。私と同じフィールドに彼らが立てないように、私も彼らと同じフィールドに立つことは許されていない。例えどんなことがあっても、勝手に動くことがタブーな私の不自由な立ち位置は時に楽で、時に息苦しい。入学した当時はこんな事考えなかったのに、日が経つにつれてどうしようもない感情が湧き上がる時がある。……今日がたまたま、その日だった。それだけ。
「……ないよ、」
「……何?」
「死なないよ、私」
ぎゅ、と彼女は私の手を包み込むようにして強く握った。驚いて目を開き、咄嗟に腕を引っ込めようとした私だったけれど、じわじわと彼女の持つ体温が自分の中に広がって、雪が溶けていくのを感じて次第に力が抜けていく。彼女の手は私と殆ど大きさが変わらない小さな物だった。それは、根拠も無ければ説得力が微塵も感じられない言葉だ。誰より無理する女が何を言うんだ、と突っ込んでやろうかと思ったけれど、本人があまりに真剣な顔をしていたので何だか可笑しくなってしまい、ぷ、と遂に吹き出してしまった。今度は捺がその瞳を大きくする番で、困惑したその顔に追撃されてしまい、無理でしょ、と腹を抱えて大口を開けて私は笑った。
「や、アンタ、絶対死ぬもん!」
「えぇ!?な、なんで?そんなに信用ないかな……」
「ないに決まってんでしょ」
煙草を咥えるのも忘れてカラカラと高笑いを続けた。というか、続けてしまった。笑える冗談だ、ホント、誰よりも信用出来ない"死なない"を使う女が彼女の他にいるのだろうか。や、多分いないな。ウン、少なくともこんなにも私を笑わせられる才能はないだろう。しばらく呆気に取られていた彼女も徐々に順応を始めて、一緒になって笑い出した。一頻りそうしてから捺はゆっくりと私を見つめ直した。
「硝子の才能は、硝子にしかない物だよ。私が前に切った怪我もこうやって綺麗に治ってる」
「……まぁ、そういう術式だしね」
「……私はもう十分助けられてるよ、後は私が頑張るだけ」
私の手を握る彼女の手は綺麗だ。術式の関係上彼女はよく掌を怪我することが多いけれど、そんな物を感じさせないくらいには傷一つなく、美しい。……どうやら、私にも、ちゃんと出来ていることがあるみたいだ。よいしょ、と年寄りみたいな声を出して立ち上がった捺はそのまま私を引き上げて「先生待ってるし教室戻ろうか」と後腐れなさそうな笑みを浮かべる。仕方ないなぁ、と蕩けながら私も彼女の手を握り返して応え、引かれるがままに着いていく。火を付けかけた煙草をポケットに戻して軽く呼吸した。悪い夢は、これで終わりだ。