「おはよう、捺」





教室の扉を開けてすぐ、綺麗な声で呼ばれた自分の名前にパチパチと瞬きをした。窓際の奥の席に優雅に腰掛ける彼は緩やかに手を振りながら私を近くに招いている。彼のちょうど後ろに見える眩しいくらいの桜に少し目を細めつつ、おはよう、夏油くん。と改めて私も挨拶した。にっこりと笑って隣の椅子を軽く引いてくれた紳士な彼に感謝しつつ「珍しいね」と素直な感想を口にすると、今日はなんとなく目が覚めたんだよ、とシンプルな答えが返ってきた。彼の机には幾つかの駄菓子がお店で陳列するみたいに規則的に並べられている。





「食べる?」
「いいの?」
「勿論。……2人には内緒だよ」





その視線に気付いた夏油くんはくすり、と上品に笑ってから私の方にそっと指先で押すようにして駄菓子を寄せてくれた。それからシーっ、と指先を唇に当てる仕草をしてみせた彼はとてもお茶目だ。いつも真面目で優しいのに、こうして抜けた悪戯っぽいところがある夏油くんは普通の高校だと女の子が放って置かないだろうなぁとしみじみしてしまう。まあ、それはきっと五条くんや……もしかしたら硝子もそうかもしれないけれど。


そんなことをぼんやり考えながらもう一度礼を伝え、私はお返しにポケットからレモン味の飴玉を取り出して彼に手渡した。夏油くんも穏やかにありがとう、と私に述べてから包み紙を開いて、ころり、と口の中に薄黄色の球体を含み始める。まだ明け切らない朝の青白い空気に包まれながら私たちは今日も密会を行っていた。





いつからこうして彼と会うようになったのか、キッカケはあまり覚えていないけれど、1年生の頃、似たような朝に彼と遭遇したことが始まりだった気がする。大抵の場合、出席する順番は私が1番初めで、次に夏油くん。残り2人はまちまちに、硝子は最早平気で寝坊する日も多々ある……といったルーズなものだ。五条くんはなんやかんやギリギリには教室のドアを跨ぐことが多いけれど、硝子はその辺気にしないからなぁ。



……この時、まだロクに2人きりで話した事すら無かった彼との話題作りの為、鞄にたまたま入っていたチョコレートを渡すと、律儀な彼は次の日に同じ時間に教室を訪れ、お返しと称して私にソーダ味のラムネをくれたんだ。シュワっと溶けていく爽やかな味が朝に効いて凄く美味しくて、思わず騒いでしまった私の反応を見てそれはもう、酷く面白そうに腹を抱えて夏油くんは笑っていた。あんまりにも彼が楽しそうにするものだから理由を尋ねると「ラムネ一つでそんなに喜ぶ人、初めて見た」なんて言われて、少し恥ずかしかった覚えがある。あの日から彼の事は優しくて根が真面目だけど、楽しそうな気配には敏感な人だという認識に変わった。五条くんと仲が良いのだから当たり前なのかもしれないけれど、夏油くんは夏油くんで彼とはまた違ったベクトルで面白い事柄に目が無いタイプだった。





「もうすぐ次の1年生が入ってくる頃だね」
「あぁ……そうだね。私達ほど生意気じゃないといいけど」
「それ、自分で言うの?」





くすり、と笑いながら言った私の言葉に心外だな、と彼は眉を上げる。その言葉とは裏腹に夏油くんの口角は持ち上がっており、それが本心ではない事がすぐに分かった。私たちが4人だったのだから、次の1年生も大体同じくらいなのだろうか?呪術師は基本的に人手不足らしいし、突然一般的な学校くらいの人数が入ってくる事はないだろう。それにしても私達が先輩になるなんて……なんだか不思議な感覚だ。出来るだけ後輩には優しくしてあげたい、と願いつつ自分にそんな余裕があるのかは分からない。それこそ夏油くんあたりは年下の面倒を見るのは得意そうな気がする。そんな意味を込めた視線を彼に向けていると、ん?と夏油くんは軽く首を傾げた。垂れ下がった前髪が一緒に揺れて、何処か色っぽくも見える彼になんでもないよ、と頭を横に振った。そう?と瞼を瞬かせた彼だったが、深く追及する気は無いらしい。まだ溶け切っていない飴を舐めながら窓の外の景色に目を向けていた。……私が入学した時も桜が咲いていたな、と懐かしい気持ちになりながら私も彼に倣って外を見た。山奥にある高専は森に囲まれていて不便な事も多いけれど、四季の移り変わりはとても綺麗だ。




「……今度、花見でもしようか。悟と硝子と……タイミングが合えば後輩も誘って」
「それ凄くいいね……!お団子とか桜餅とかも買って……」
「レジャーシートとかも敷いて、ね?」





我ながら良い案だ、と切長な目を細めた彼はもう一度窓の外を見つめる。その整った横顔には期待が浮かんでいて、なんだか少し子供っぽく見えた。夏油くんはいつも落ち着いている時が多いからこんな表情は少し新鮮で、胸の中に温かい気持ちが広がる。心地よい沈黙に揺られながら、ふふ、と零した息に彼はゆっくりと此方に視線を向ける。私の笑いの原因が自分だと分かっていない彼は「どうして笑ってるんだい?」と首を傾げたけれど、敢えてそれを伝えないように、ううん、と笑い掛けた。気になるなぁ、とぼやきつつ、窓からこちらへと向き直り、机に肘をついた彼は、不意にじっ、と私を見つめた。観察するような、何かを探るような視線が慣れなくて、そわそわと足を擦り合わせるように動かした。な、なに?と耐え切れなくなり話しかけた私に、夏油くんは微笑んだ。





「捺はさ、」
「うん……?」
「悟のこと、好き?」





……え?と突拍子も無い彼の質問に、短く間の抜けた声がこぼれ落ちた。私達2人しかいない広々とした教室の中によく響いたそれに、彼は薄笑いを見せる。どうかな、と私の答えを待つかのように夏油くんは私を見ていた。外からは朝一番の小鳥の声がちゅんちゅんと聞こえる。……私が、五条くんのこと?



彼が意図する好きの意味は正直、分からない。でもきっと恋愛の"すき"では無いはずだ。私がそんな気持ちを彼に向けて考えたことが無いなんて、夏油くんも流石に理解していると思う。だって、あんなに綺麗でカッコいい男の子と私なんて全く釣り合いが取れていないどころか、隣に並ぶのすらも烏滸がましく感じる。ここに来た時に初めて出会った五条くんは今日よりも少し肌寒い春の日に、桜の花びらに攫われてしまいそうだと思ったくらいには美しかった。浮世離れした白髪と、忘れられない深く吸い込まれそうな青。すらりと伸びる長身を捻って私に振り向いた彼を見たあの瞬間の衝撃は、多分今後一生忘れる事はないのだろう。それ程までに五条悟という男性は私に強烈な印象を与えていた。……尤も、その綺麗な顔を迷惑そうなのを少しも隠さずに歪めていた五条くんは、容姿とは裏腹にすごく人間らしく感じたし、1年間彼と過ごした事で、五条くんがどんな人なのかは大体自分なりに分かったつもりではある。



彼は言動こそ厳しかったり、キツいことが多いけれど、その本質は素直で優しい人物だと思う。裏表無く、ハッキリと私の駄目なところを示してくれる彼にはとても助けられている。分かり辛い時もあるけれど、五条くんが優しいことは知っていた。……この前の任務だってそうだ。お父さんの話を思い出して無意識に気持ちが引き摺られていた私を叱責し、私が父親に囚われていることを真っ向から指摘してくれる彼のような友人は珍しい存在だと思う。誤解はされやすいタイプかもしれないけれど、私にさえも正面から向き合おうとしてくれるし、手を抜かない五条くんだから。だからこそ、私は……






「……分からないけど、」
「うん」
「嫌いじゃ、ないよ」






今の私の、思うがままの答えを口にする。夏油くんは一瞬の沈黙の後「そっか」と一言だけ言って、頬杖をつきながら満足そうに目を細めた。興味深そうに綻んだ口元は好奇心に溢れている。悟が喜ぶよ、と伝えられたそれはあまり信じられなくて、ほんとに?なんて聞き返してしまったけれど、夏油くんは頷いて本当だよと肯定してみせる。あの五条くんが私なんかの答えひとつで喜ぶ気はしないけれど……やっぱり夏油くんに揶揄われてしまっただけなのかもしれない。



実際、私は彼のことがほんとうに嫌いではなかった。寧ろ、好きな部類の男の人だ。呪術界に足を踏み入れて学ぶほどにこの業界に生きる女性が厳しい仕打ちを強いられることが多いことを知った。両親の話を聞く限り、家系や血筋を重んじる人が多い事は分かっていたけれど、それだけでは無く、更に女性であるという事だけで虐げられる事も記録としてはかなり残っていて、今も尚それは色濃い。そんな風習に触れれば触れるほど、夏油くんの優しさや、五条くんの自分の感性に従って生きる姿勢には尊敬の念すら抱いている。本人に言えば気持ち悪いだとか嫌そうな顔をされてしまう気がするけれど、結構本気で、私はそう思っていた。……だからと言って、私なんかが五条くんを好きだと言うのはなんだか気が引けたし、彼がそれを望むとも思えない。そして何より…………恥ずかしかった。



今まで同級生の男の子に対して、例え、そういう意味を含まないとしても「好きだ」なんて言ったことが無いし、言う機会もない。一応去年までは以前同じ学校だった男の子に告白されて“形式上"お付き合いもしていたが、高専での日々が忙しく、リズムも合わなくて別れてしまった。それを別としても恋人らしいことなんてしたことが無かったし、呪いと接している私を介して彼に被害が及ぶのも避けたかったので後悔はしていない。知らない方がいい事なんて、世の中にはきっと沢山あるのだから。




「捺は悟の……どういうところが"嫌い"じゃないんだい?」
「どう、って言われると難しいけど……私を含めて、ちゃんとみんなのことを考えた上で色々行動してくれる、っていうか」
「うんうん」
「……それに、五条くんは私に無いものを沢山持ってて……憧れ、に近いのかな」




憧れ。私にとって彼を表す言葉を一つ決めるとするならば、多分これになる。強くて、カッコよくて、自分を持って堂々と生きる眩しい人。常に上を向いているようで、たまに首を下に傾けてくれる人。私は彼を羨ましいと思えるほどの努力も才能も持ち合わせていない。だからこそ、私は彼に手の届かない高嶺の花にも近しい感情を抱いている。五条くんは屈んで誰かと目を合わせるような人でも無ければ、優しく手を差し伸べてくれるようなタイプでも無い。……でも、自分の居るところにまで"引っ張り上げようとしてくれる"そんな人だと、思っている。



そんな考えをつらつらと並べた私に夏油くんは優しく相槌を打つ。そして、最後まで聞き終わってから捺には見る目があるよ、と大袈裟に讃えてくれた。それを言えば彼と親友の夏油くんこそ見る目があるのでは無いか、と思うのだけれども、そういう意味では無いのだろうか。そうだなぁ、と私が話し終えた区切りで彼は少し天井を見つめて、何かを考えながらゆっくりと口を開いた。





「悟はたまに……いや、結構意地が悪い時もあるけどさ、アイツも捺の事嫌いじゃないから」
「……嘘だぁ」
「本当だって。もし悟が信じられないのなら、私の事を信じてくれればいい」





夏油くんの物言いは色々と振り切っているけれど、彼の、ね?と同意を促すような仕草や、穏やかで何かを邪魔しない声色は確信的な雰囲気がある。きっとそう言えば私が食い下がれないことが分かっているんだろう。何か言い返してやりたい気持ちはあるのに上手く言葉にならなくて口をまごつかせてから「……夏油くんそういうところあるよね」と負け惜しみにも似た台詞を吐き出した。彼は何かと狡い時がある。優しくて頼りになる人だけど、こんな言い方をされてしまったら頷かざるを得ない。じっとりとした目を向ける私に彼は褒め言葉だと受け取るよ、と喉を鳴らした。





「おはよ〜」
「……はよ」




ガラガラと引かれた扉の音に夏油くんと共におはよう、と投げかける。少し前までぼんやりしていた外の空気はいつの間にか柔らかな春の陽気へと変化している。早朝から朝に完全に移り変わったこの瞬間……というか、2人の挨拶の声がしたその時に、私たちの秘密の会は終わりを告げる。夏油くんの机の上にはまだいくつかお菓子が置かれていたはずなのに、彼は信じられないくらいスムーズな動作でそれを鞄に仕舞い込んでいた。なんて早技だと感動した視線を向けていると、鈍い音を立てて目の前の椅子が引かれた。びくりと肩を跳ねさせて、音の方へと顔を向けると、非常に機嫌悪そうに形のいい眉を顰めた五条くんの顔が飛び込んできた。白くて艶のある綺麗な肌に皺を寄せ、丸いサングラスの奥から覗く瞳が不満そうに揺れている。





「……傑と朝から何やってたんだよ」
「え、ええと……」





一応"秘密"と銘打っている彼とのお茶会の時間。私だけでは五条くんに伝えていいのか判断が出来なくて助けを求めるように隣の彼を見ると、夏油くんは「悟、」と彼名前を呼んだ。あぁ?とガラの悪い対応をしながらもやっと私から目を離してくれた彼にこっそりと息を吐きだして胸を撫で下ろす。五条くんのあの瞳に見られると、どうしても緊張してしまう。私のことをなんでも分かっているような、そんな気持ちにさせられるのだ。





「ごめんよ、悟。お前の気持ちはよく分かっているんだけど私も彼女との時間は譲れなくてね」
「…………は?」
「えっ!?」





私が予想していたのと180度違う内容を口走り始めた夏油くんにギョッとする。どういうことだよ、と座ったばかりなのを気にせずに立ち上がり、夏油くんの机の足を蹴る彼の低い声からは物凄い圧力を感じてそれを直接向けられていない私ですら胃が捻り上げられたようにキリキリと痛む。それでも、変わらず狐のように目を釣り上げながら笑う夏油くんも本当、大概肝が据わっている。私なんてまだまだだよ、と謙遜し、微笑む時の彼とはまるで別人だ。




「……ツラかせよ傑。表出ろ」
「やれやれ……ちょっと行ってくるよ捺」
「夏油くん!?で、でも……」
「大丈夫大丈夫、すぐ戻るからね」




妙に落ち着いた様子で荒っぽく歩く五条くんの後ろをついて行く夏油くんの背中をこれ以上ないくらい不安な気持ちで見送った。後ろで我関せずな態度を貫く硝子にどうしよう、と相談したけれどアイツなら大丈夫でしょ、と携帯の画面を眺めるだけで取り合ってはくれなさそうだった。五条くんがあんなに怒っている理由は分からないけれど、私も行って説明した方がいいのではないか、すぐに後を追った方が……とグルグル考えを回している間に、また、引き戸がガラガラと木の擦れる音を立てながら開いていく。廊下に向かった時とは逆の順番で戻ってきた彼らは、たった数分でさっき迄の雰囲気を綺麗に消し去ってしまっている。五条くんは私をチラリと見てからすぐに目を逸らして椅子に座り直したし、夏油くんも優雅に足を組みながら元の席へと腰掛ける。一体何があったの?という目を向けた私に、夏油くんはひとつ、パチリとウインクをしてみせるだけだった。




朝のお茶会



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