緩やかに回された腕、すぅすぅと聞こえる静かな寝息、少し火照って赤くなった頬。そのどれもに惹かれて止まなくて、一人深く息を吐き出した。色々と失敗した気がしなくもないけれど、結果こうして腕の中に彼女が居るのは幸せだから、まぁ、アリかもしれない。







彼女の得た情報と自分が得た情報を組み合わねて考えつつも、僕はいつもより速い心拍を自覚していた。目の前に横たわる彼女が如何に神妙そうに目を伏せても、難しそうに眉を寄せても、そのどれもが"可愛い"に収束していく。前にこうして彼女と寝床を共有したのはもう2ヶ月以上も前の事だ。あの日はでも、恥ずかしがった捺は僕に背中を向けていたし、こうして話す事も無く眠りについていた。勿論華奢な背中と寝顔を眺めるのも楽しかったけれど、こうして動いて、呼吸し、声を発する彼女が隣に寝転がっている姿なんて高専時代の妄想でしか経験したことが無かった。……正直、自分でも笑ってしまうくらいに緊張している。ドクドク、と脈打つその音が耳の中に響いている気がした。女の子とこうやって寝たことならある。なんならこんな雰囲気のまま抱いたことも、多分ある。なのに、こんなにも初心な反応をしてしまうとは……本当に捺は凄い。せめて、そんな格好の悪いところは見せないようにと振る舞った。幸い彼女も僕と同じ、もしくはそれ以上に緊張している様子だったから多分バレはしないと思う。ていうか、流石にバレてたら恥ずかしい。



この沖縄での任務は僕にとっては任務というより殆どデートみたいなものだと思っていたし、今も大してその認識は変わっていないのだけれども、相手が捺を狙うのなら話は大きく変わってくる。やけに彼女に目を付けてくる"赤嶺キョウダ"という男の存在はどうにも気がかりだった。捺が他の女性客とは違い、彼方此方へと赴いているのも理由の一つだとは思う。だが、ここに足を踏み入れてすぐにあんなに絡んできては"彼氏"である僕に酷く挑発的な目を向けてきたのは記憶に新しいどころか、ムカついて頭から離れない。ついさっきだってそうだ。捺を探しにきた俺に向ける笑顔は明らかに俺への牽制に近しいものだった。彼女は気付いていないようだが、この旅館において女性客が重宝されるのは確定だとして、その中でも捺を何らかの理由で狙っているのはまず間違い無いだろう。



……少しヒートアップしそうになった思考を落ち着けて、改めて彼女に意識して貰えるように警告しようと口を開いた。その時、事件は起こった。僕の背後の壁の奥から微かに人間の声がしたのだ。消灯し、月明かりのみがほんの少し差し込むだけの時間帯に隣の部屋にまで聞こえるような声を発するのは不自然な気がして、じっ、と見つめて意識を集中させる。その気配が捺にも伝わったらしく、彼女も少し体を起こして対応ができる体勢を整えているようだが、すぐに違和感に気付いた。それは呪霊特有の不快感のあるノイズでは無い、というか寧ろ、と思い当たったそれに無駄に入っていた肩の力が抜けたような気がする。別にこういうのを咎めるつもりはないけど、僕なら絶対に防音性と盗撮盗聴が無いかを確認してからそういうことをするけどね。そりゃそうだ、好きな人の甘くて可愛い自分しか知らない声なんて他の誰にも聞かせてやるわけがない。つーか聞こえてたら殺す。若くてまだまだ詰めが甘いなぁと思いながらも、男として彼氏の気持ちは理解できる。温泉旅館なんて最高の"そういう"シチュエーションだよな、分かるぞ少年。浴衣で脱がせやすくて最高に無防備な彼女を敷布団の上で押さえる喜びも、綺麗な月に照らされて、繋がったいやらしい影を畳に落とすのも何かと絶品過ぎる。



そんな事を考えながら彼女に向き直ろうと体の向きを戻して目に飛び込んできたのは、今にも立ち上がり隣に乗り込みそうな勢いがある捺の姿。どうすべきかと思考するより早く、ほぼ咄嗟にそれを引き寄せて阻止して、驚き、声を上げそうな彼女の口を慌てて塞ぎ込んだ。何が何だか分かっていない様子の捺に、若干気は引けつつもよく聞くようにと伝えれば、下げられていた眉が徐々に上へと持ち上がり、そして、パチン、とインクが破裂したみたいに彼女の顔は真っ赤に染まった。まぁ、こうなるか。そりゃもう可愛いといえば可愛い反応だけど、これはどうも気の毒な気もして少しでも紛れるようにと赤嶺キョウダの話をしてみたけれど、全くと言っていいほど捺に響いている様子はない。





「やっぱり気になる?」
「だ、だってこんなの……!」





いつにも増して高い声で僕に訴えかける彼女は切実そうだ。何でそんなに平気なのかと問われたけれど割り切っているのが6割、残りは自分より圧倒的に焦り倒している彼女が隣にいるからだろうなと思う。捺曰く、今隣で彼氏に啼かされている女の子とは温泉で知り合いになったとか。それは確かに顔を知っている分には気まずさは増すかな、と考えつつ、何を話したのかと一先ず当たり障りのない問いかけをしたつもりだったのだが、どうやら失敗らしい。完全に途中で言葉を止めてしまった彼女と自分の間には居心地が悪すぎる沈黙が流れた。このままでは捺とはまともに話す事も出来ないだろうし、何なら彼女が眠れなくなる、という事も考えられる。どうしたものかな、と視線を巡らせて、そういえば彼女を止めはしたけれど布団の中には招き入れていなかったことに気付いた。



一瞬の迷いと葛藤。それを"彼女のため"という枠組みに押し付けて、我に帰った時には腕の中に捺が居た。僕より何周分も小さくて、簡単に収まってしまうそれがどうしようもなく胸を苦しくさせる。はやい……と呟かれた言葉に居心地の悪さを感じたけれど、それを知られるよりもずっと、この温もりを手放す方が嫌だった。素直に「好きなヤツとこうしてて、緊張しない訳ないだろ」 と自分の気持ちを声に乗せ、その難しさとむず痒さをひしひしと実感した。昔からずっと思ってはいたけれど、それを本人に伝えるのは中々ハードルが高い。でも、これが全てなのだ。彼女に恋をして、彼女と話し、触れるだけで何もかもが満たされていくのは紛れもない事実なのだから。……そして、落ち着きのない彼女のため、なんて、馬鹿げた理由を立派に掲げて抱きしめたからにはその責任を取る必要がある。力が抜けて、ちゃんと僕の言葉を聞き、それに返せるようになっていた彼女はもうすっかり元の落ち着きを取り戻していたと言えるだろう。理由を付けてそうしたのであれば、問題が解消したならもう、僕が彼女を抱きしめてもいい建前は無くなった事になる。でも、



……名残惜しい。離したくない。もっとこうしていたい。そんな想いがどんどんと湧き上がってくる。分かっていた、彼女を抱き締めれば抱き締めるほどに離れ難くなることくらい、分かっていた。わかっていたのに、そうした。ゆっくり、少しずつ自らが課していた彼女への拘束を外していく。彼女との間に距離が生まれるほどに、彼女の表情がよく見えた。少し驚いたようにまつ毛を揺らして僕を見る捺は今何を思うのか、僕には分からなかった。そう思った次の瞬間、僕はまたその柔らかさに包まれていた。一瞬何が起きたのか分からなくて、ただ反射的にそれを受け入れた。逃がそうとしたはずなのに、そこに彼女がいる。腕の中にある確かな温もりにとく、とく、と心臓が動いた。





「……いいの?」
「いいよ」





我ながら自信のない問いかけだった。赦しを乞うような僕の声を確かにはっきりと受け入れた捺に、もう、僕は止められそうになかった。キツく、しっかりと彼女に腕を回して抱きこんで思い切り顔を埋めた。肺いっぱいにふんわりとした優しくて甘い香りが入り込んでくるのを感じる。それがたまらなく愛おしくて深く深く呼吸した僕に、彼女はクスクスと笑った。気恥ずかしいのにやめたくなくて、笑うなよ、なんて大して思ってもないことを口にしてもそれすら受け入れて髪に指を通し始める。……もう幸せ過ぎて可笑しくなりそうだ。彼女もまた少しリラックス出来ているらしく、隣の女の子と話した内容が主に僕のことだと教えてくれた。別に何を話そうが構いはしないし、僕にどんな感情を向けても気にはならないけれど、それを聞いて捺がどう感じるのかには興味がある。肩口に顔を埋めて、お前はどう思っているのかと尋ねると、少し考えてから彼女は何処までも素直な言葉を口にする。…………嬉しい。言われ慣れているどんな言葉も捺の声で、捺の口から発せられたらここまで愛おしく感じるのか、と思えば思うほどに自身の彼女への想いを痛感する。苦しいくらいに、そして、何処までも、俺は捺のことがすきだ。






「……ごじょうくんの匂い、すき」





だから、そんなことを言われたらたまらなくなる。半ば感情が声に溢れた。ギュン、と心臓を鷲掴みにされて、それと同時に腰の奥深くにどうしようも無い熱を感じる。俺の様子に彼女もしまった、と思ったのだろう。必死に逃れようとしていたけれど、それを許せるくらい大人じゃない。渦巻く想いをそのまま放出するように彼女に体重を掛けていけば慌てて捺は俺を呼ぶけれど、そんなの聞いてやんねぇ。もっと彼女は俺に好かれている自覚を持つべきだ。男が単純な生き物だって、知るべきだ。小さな体は何の抵抗もできずに俺に倒されていく。いくら彼女も呪術師だとはいえ、こうすればただの女だ。男の俺に何も出来ない、弱い存在だ。






「……お前さ、俺を煽ってる自覚あんの?」





じくじくと燻る熱が脳を支配していく。俺を見る彼女の目が驚きから恐怖に変わり、そして、女になる。少し潤んだ、男を誘うだけのその顔にもっともっと腰が熱くなっていく。……なんだ、ちゃんとそんな顔も出来るんじゃないか。彼女もまた、俺に倒されて、情けなく蕩けた雌になる、その事実に酷く興奮して堪らない。…………抱きたい、捺を、抱きたい。久しく感じた込み上げるような情欲に無意識に腕に力が篭っていく。今まで想像の域を出なかったそれが、今目の前に転がっている。こんな美味しい状況滅多に無いぞと何かが囁いて来る。少し乱れた襟元から白くて柔らかそうな胸が覗くのも、綺麗な首筋も、いつもみたいな真っ直ぐさが無い不安そうに揺れる瞳も、何もかもが俺を誘っているように見える。彼女はどんな味がするのだろうか?いわば捺は、何年も前から大切に大切に残しているデザートのようなものだ。俺は好きなものは最後に取っておく派で、その味を想像するだけでも生きた心地がする。きっと、今まで食べたどんなものより"美味い"んだろうな、と思った。……でも、だからこそ理解もしている。ここまで熟成させたそれを今ここで食べてしまうと、きっと格段に味が落ちてしまうことを。俺が欲しいのは彼女の身体だけではなく、心と身体の両方だということを。それが伴わないと、ただのジャンクフードと変わらない。美味いだけで、深みがない。俺が彼女を抱く時は、どうしようもなく彼女が俺を、俺と同じくらいに愛した時だと決めている。捺が俺のことを、俺の心と身体の全てを欲しがった時だけだと、誓っている。俺は彼女を、確かに愛しているから。







「抱かねぇよ」






この環境で流石に捺も冷静ではなかったんだと思う。俺のその言葉に戸惑ったように丸い瞳が揺れた。そんな反応をされると正直たまらないが、グッと堪えて表明した。でもそれで安心されるのも癪な気がして、本気で俺が彼女を抱く日を想像しながら、少し骨が浮いた背中に焦ったく指を這わせて、明らかに甘美そうな首元に口を寄せる。自然と溢れた吐息にどろん、とした感情が乗っているのが分かる。ここまで来て、おあずけ、なんて、と訴えかけてくる本能を意地と理性で押さえ付けるように更に彼女の体を抱き込んだ。彼女の脚の間にすっかりはだけた自分の脚を滑らせて、ぐ、と逃げられないように固定する。何もする気はないし、手を出すつもりもないけれど、少しは危機感を持ってもらわないと俺としても、困る。……不意に隣から、甲高い声が聞こえた。ああ、アレは、とそれがどんな状況なのか手に取るように分かって、ぽかんと俺と同じように壁に目を向け無防備な耳に「……イッたな」とただの"事実"を教えてやれば、びくん、と捺の体が跳ねるように反応する。真っ赤に染まった耳がそれがどういうことなのかを分かりやすく示していて思わずクツクツと喉を鳴らす。捺は想像した筈だ。隣の部屋の二人のように、畳のある和室で、呆気なく組み敷かれた自分が、大きな手で腰をがっちりと掴まれて奥まで犯され、そして、呆気なく達するその瞬間を。




それを察することが出来ないほどに俺は子供ではなかった。でも、これ以上その事に触れると本当にブレーキが壊れかねない気がして、するり、と彼女の肌を指の腹でなぞる。熱った頬の可愛らしさに口元を緩めて、弾力があり噛み付きたくなる唇に親指をぐ、と乗せる。警告を込めて伝えた俺の言葉は恐らく、正しく伝わったのだろう。すっかり腰が抜けてしまい呆然とした様子の彼女をもう一度抱きしめる。……こっちの抱くは多分、許されるだろ。と願いつつ、それが拒否されないことに少しだけ安心した。しおらしくなる捺をそっと撫でて、もう寝てしまえと促した。暫くは固まっていた彼女だったが、案外人間は順応するものだとしみじみ感じる。30分くらい経った頃には捺はもう、ころり、と寝入ってしまっていた。隣からの営みの声もさっきのを皮切りに聞こえなくなり、部屋は今度こそ静寂に包まれる。




前まではこんな事をしたら拒絶されていただろうに。そう思うと少しは彼女にとって安心できる存在にカウントされている、という事でいいのだろうか。それが嬉しくもあり、ここまで素直に眠られるのには複雑な想いを抱きもするのが男心というやつだ。穏やかで静かな寝顔を覗き込み、艶のある髪を優しく撫でる。捺、と聞こえる筈もないのに名前を呼んで、その響きの愛らしさに目を細めた。目覚める時は、一体どっちが先だろうか。僕が先なら朝日に照らされるキラキラとした彼女を堪能できるし、彼女が先なら僕が目を開けてすぐに彼女に迎えてもらえる。……どっちも良いなぁ、と本音が落ちて一人口元を緩めた。本当に、どちらも捨てがたい。明日が楽しみだ、と、期待に胸を膨らませながらそっと額にキスをして目を閉じる。……次に目を開いた時に見えたのはじっと僕を見つめる捺の姿で「……おはよ」と笑って寝起きに絞り出した僕の声を聞き、彼女はなんとも恥ずかしそうな様子で小さく、おはよう、と挨拶を返した。そのいじらしさにきゅう、と胸が締め付けられてもう一度抱き締めてしまったのは多分、言うまでもない。






誓っている



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