空気でいっぱいに膨らんだ風船が針の先端で突かれたように一瞬で開けた空。パンダくんと私はほとんど同じタイミングで見上げ、そこにある呪力を強く感じ取る。禍々しいものではない。広大で、それでいて美しさすら感じるそれは、私がよく見知った感覚だった。




浮かぶようにして宙に立つ長身と見えた太陽に照らされて透き通る白髪。それを目に入れた瞬間に私は一つ頷いて前を向く。今のうちに行くよパンダくん!と声をかけて「お!?……分かった!」と続く声と足跡を聞きながら硝子への道を駆けていく。グッと歯の奥を噛み締めて、込み上げる言い表せない悔しさと、安心感に張り詰めていた糸が緩んだ。反抗してまで飛び出したのにあの特級を見て私は思ってしまった。"あれに私が勝てるのか"と。それは呪術師として、生徒を守る大人としてきっと、考えてはいけない事だった。時に実力差のある相手と相対するのは珍しいことではない。今までも何度かそんな現場に立ち会ったことがある。それでも、私達呪術師は勝たなければいけない。自分が負ければ呪いの勢いは増し、被害は更に大きくなり、最終的には自分の大切な人まで傷付けてしまう。そういう世界だった。戦うからには負けられない、負けてはならない。"私"が今ここで絶対に食い止める、そんな気概が必要なのだ。どれだけクレバーで冷静な闘いを好む人でも、最終的に立っているのは自分だけだと思い込み、絶対に勝つという気持ちが根底に無いと、ここで生きていくのは難しい。







「お前、いつか死ぬぞ」

「死に急ぐのと、死んでも勝つのは違ぇよ」

「思考だけはご立派。でもお前が言うのはただの他人任せだろ」

「だからもっと、」







だからこそ、一瞬迷ってしまった自分に嫌気が差す。わかっていたのに。昔、彼に教えられたのに。私は真っ先に負けを想像した。負けた時の痛み、苦しみ、残される彼等……五条くんならきっと、そんなことしない。彼の強さは自信と大きく関係していることを知っている。そしてその揺るぎない自信のために、彼が努力してきたことも、理解している。彼がよく私に言った「他人任せ」という言葉が頭の奥に過った。今の私も見方を変えれば他人任せだ。でも、やっぱり私にとって"五条悟"という存在は揺るぎない勝利と強さの象徴で、それは未だに覆ることが無い。眩しい光はその分影を作るとも言うが、私には彼は昔から影を落とす場所すらないくらいに輝いて見えていた。





「パンダくん!あともう少しだから頑張ろうね……!」
「あぁ!つか俺は大丈夫だけど……捺は本当に悟のこと信頼してるんだな」
「……こういう時において五条くん以上に信頼出来る人は殆どいないかな」
「ま、俺もバーサス呪霊ならそうだけどさ」





パンダくんに言われたことをぼんやりと思案しながら足を進める。正確には私が心から信じられるのは彼以外にも居る。勿論硝子もその1人だ。でも、何かと考えた時に色々な面で"信じよう"と思えるのは恐らく彼が一番なのだろう。……五条くんが来たのなら、大丈夫。そうして自分の不甲斐なさを感じつつも確かに安心してしまう私がいる。私は私自身より、彼を信じているのかもしれない。

そうしているうちにどうにか階段のところまでパンダくんと戻ってきたが、途端、物凄い衝撃波に襲われ咄嗟に揃って石畳へとしゃがみ込む。次に顔上げ、視界の中に飛び込んできた光景には言葉を失った。木々が抉れるどころか、ぽっかりと口を開けて谷のようになった地面が直線上に延々と何処までも続く理解し難いそれに、……こりゃ信用せざるを得ないな、と半ば呆れた声で呟いた彼に私も笑うことしか出来なかった。五条くんは尚、最強としてそこに君臨しているとマジマジと感じさせられる圧倒的なパワーには誰かが口を挟む必要なんて、もはや無かった。









「打ち上げた!」
「西宮まだ走るな!!」
「え!?なんで!?」








ガキン、と気持ちの良いくらいの金属音と共に高く上がるボールが太陽に重なる。私たちは今、野球場に来ていた。





交流会での呪霊襲撃事件の後、パンダくん共に硝子の元へ伏黒くんと真希ちゃんを送り届けた私は夜蛾学長に声を掛けられた。お前も当事者だと通された部屋には楽巖寺学長、冥冥先輩、歌姫先輩、五条くん……そして、伊地知くんが既に待っていた。頭を軽く下げながらおずおずと畳へと足を踏み入れ、何処に座るべきかキョロキョロと首を回すと歌姫先輩が手招きしてくれた。相変わらず優しいなぁと感謝しながら其処へ向かおうとしたのも束の間、突然手首が掴まれて、有無を言わさず下へと体が引っ張られる。思わずその場に崩れるように座り込み、振り向いた先には壁に体を預けながら座る五条くんが居て、すぐさま顔を逸らした。正直彼とはさっきのこともあって顔を合わせ辛いのだけれども……五条くんは私を解放する気はさらさら無いらしく、こうして会議が始まっても尚、掴まれた腕はそのままだ。

ごほん、と咳払いをした伊地知くんが今回の被害について報告を始める。今回呪霊に奪われたのは特級呪物である両面宿儺の指が6本、そして同じく特級呪物である受胎九相図の1から3番。物的被害も相当なものだが、人的被害として挙げられる数字は決して少ないものでは無く、思わず眉を顰めてしまう。七海くんの会敵した人間を改造できる呪霊の仕業ということだが……改めて、ここ最近の呪霊もまた規格外が多いことを感じさせる。今回学生達が戦った木のような特級呪霊はフェイク……囮に近いもので、向こうの本命は呪物だったのだろうか。それにしても少し疑問が残る気もするがうまく言語化出来る気はしない。高専に態々潜入するという大胆な行為をする割には器である虎杖くんに対して特別なアクションを仕掛けてもいないし、どこか腑に落ちない。もっと何か大きな目的があり、それを私たちが感知していないところで達成したのか、はたまた達成の為の布石なのか、結局は分からず終いだ。




「……とりあえず今は学生の無事を喜びましょう」
「そう、ですね。怪我はしていますが命に別状はないと硝子からも報告がありました」
「だが交流会は言わずもがな中止ですね……」
「ちょっと、それは僕達が決めることじゃないでしょ」




煮詰まり重い空気が流れ始めたのを切り替えるように歌姫先輩は言う。それに賛同するように硝子から聞いた学生の容態を口添えした私に学長2人は頷いた。しかしやはりここまでの事件になると個人戦はできそうにないだろうな、と息を吐き出したのを見た五条くんは突然そうやって声を上げた。彼はすぐさま立ち上がり私の腕を引きながら部屋を出ていくと長い廊下をスタスタと歩き始める。戸惑う私は何度も後ろを振り返ったけれど、残された彼等が着いてくる様子は、まだ無い。





「っごじょ、」
「怪我は、」
「……え?」
「……怪我はしてない?危ない目には?」





足を動かしながら問いかけられた言葉を理解するのに少し、時間が掛かった。でも、分かってから直ぐに首を縦に振りながら、大丈夫、と伝えると手首に込められた力が少しだけ緩まった。良かった、と一言だけ呟いてからはそれ以上五条くんは何も言わなかったけれど、彼に少なからず心配をかけていた事だけはヒシヒシと伝わってくる。……私も本当は分かっていた。彼の言葉は私を認めていないのでは無く、心配していたんだということ。そして、例えそうだとしても、私は、私もやれるんだと、彼に知って欲しかった。五条くんは私の憧れだったから。少しでも、ほんの少しでも、彼に近付きたかった。









勢いよく振り抜いたバットから気持ちの良いくらい美しい放物線を描いて白いボールが飛んで行く。みんなの歓声を受けながらマウンドを回る虎杖くんを見て満足そうに笑った五条くんは鼻歌でも歌いそうな足取りで私の隣に腰掛ける。「おめでとう」「ありがと」と簡単な会話を交わしながら囲まれている虎杖くんに目を向ける。真希ちゃんと野薔薇ちゃんに褒められ、からりと笑う姿は何度見てもただの男子高校生に過ぎない。青春だなぁ、なんて当たり障りのない言葉だけれども、そう感じるのにぴったりの景色だ。五条くんの我儘から始まった野球勝負だったけれど、案外皆楽しんでいたし、悪くなかったのかもしれない。




「折角なら捺にチアでもしてもらえば良かったなぁ」
「……それはちょっと、その、困るけど……」
「えー?絶対可愛いのに」




いやでもアイツらに見せるのは妬けるなぁ、だとかブツブツと呟いている五条くんの冗談は相変わらずタチが悪い。私も彼と同じ28歳なのに流石にこの歳でそんな格好をする勇気はない。せめて10代の頃だったならなぁ、と考えて少し目を細めた。……私も、私達も、こんな風にただ、野球をしてみたかったなぁ。五条くんはきっとホームランバッターになるし、夏油くんはピッチャーで……あぁ、でも、2人はバッテリーなんかも似合うのかな。私は大して得意な気もしないけれど、硝子は硝子でこういうの嫌いそう。もっと低燃費なスポーツの方が気乗りしてくれるかなぁ




「五条くんは、野球も得意そうだね」
「そう?ま、やるからにはテッペン狙うのは間違いないけど」




ぐ、と体を反らした彼は堂々と言い切る。私はたまに、五条くんのこういう所が酷く羨ましく感じる時があった。そっかぁ、と緩やかな返事をした私に五条くんはふ、と視線を向ける。それにつられるようにして私も彼を見つめた。9月にしては残るじっとりとした暑さを肌に感じながら見るサングラス姿の彼は、私を何だか懐かしい気分にさせた。





「……僕はね捺。お前が呪術師辞めたって聞いた時、結構安心したんだよ」
「安心?」
「暫くは、人伝にお前の訃報を聞くことはないだろうって」
「五条くん……」





人伝の訃報、という言葉はずっしりと私にのし掛かる。彼の気持ちがよく分かってしまった。私にとっては人伝と言うよりは書類伝、の方が多いけれど、あの瞬間のどうしようもない無力感と虚しさは計り知れない物だった。私にとって、大切な2人の同級生。それは少なくとも彼にとっても近しい物らしい。でも、と五条くんは少しだけ顔を俯かせる。黒に阻まれた瞳が何を映しているのか、私には分からない。




「最近は奇妙な特級も多いし、今回だって補助監督だけでも5人も被害が出てる」
「そう、だね」
「そりゃ昔から呪いに関わる以上呪術師だけじゃ無くて補助監督も安全じゃないって、分かってるんだけど、」




やっぱキツいよね、と他人事みたいな口調の彼の表情は晴れない。ちょっとは安心してたのにこれじゃあまた逆戻りだよともう一度私を見てへらりと笑顔を作って見せた彼に胸の奥が痛んだ。五条くんだって人間だ。もしかしたら、なんて思いは今までもこれからもずっと私の中に在り続ける。彼が私に補助監督だから安心していた、と告げたように、私は私で彼のことを"最強だから"そう信じ込んで安心しようとしている。




「正直、5人の中にお前の名前が無くて良かったって思った。……酷いだろ?」
「ううん……酷いなんて、思えないよ」
「……捺、俺は別にお前を弱いだとか、足手纏いだとかそんな風に思ってねぇよ。でも、俺は、」
「知ってる」




大きな青い目がゆっくりと開かれた。上も下も過不足なく長い色素の薄い睫毛が小さく揺れている。……知っていた。分かっていた。彼の気持ちは痛いくらいに理解していた。子供だったのは私の方で、昔から何も変われていないのも、私だった。「ごめんね、変に意地張って」こうして謝罪の言葉を口に出来るのも幸せな事だった。どちらかが居なくなってしまえば、それは永遠に叶わなくなるのだから。五条くんはゆっくりと喉仏を上下させてから小さく息を吐き出した。





「俺も、言い方悪かった……ごめん」
「……これで仲直り?」
「昔に比べりゃ可愛いもんだろ」
「自覚、あったんだ」
「あるよ、めちゃくちゃ」





何だか少し苦そうに言う五条くんに思わず少し吹き出してしまった。くすくすと笑って大人になったんだね、と笑みが引く前に言えば、これでもね、と肩を竦める。これもある意味、青春なのかもねと抜けるような青空に向かってぼやけば、五条くんはかもな、とそれを肯定し、そして、ベンチに置いた私の手の上に自身の掌を重ねると「青春ならこれも許される?」と何だか少し可愛らしくそう尋ねてきた。今度は私が数回瞬きをして、少し考えてから……青春ならね。と答えると五条くんはラッキー、とこの日一番の笑顔で笑ってみせる。綺麗で勿体無くなるくらいのその顔が私は昔から好きだった。





「本当はこのままメチャクチャ抱きしめてやりたいけど」
「……それは流石に恥ずかしいかなぁ」
「……恥ずかしいだけ?」
「五条くん?」
「ハイハイ、分かってます分かってます」






彼の手から伝わってくる熱はあつくて、この気候にはあまり適した物では無かったけれど、それを拒もうとは思わなかった。数分ぐらい2人で静かにそうしていると、不意にマウンドの真ん中から、五条せんせーい!と叫ぶ声が聞こえてきた。それに機嫌良く口角を持ち上げた彼は私の手諸共持ち上げてブンブンと振って応えたけれど、それを見た野薔薇ちゃんが「あー!!?」と思い切り指を指してきた事で何だか途端に恥ずかしくなってきた。その反応を見て更に見せつけるかの如く指を絡めてニヤニヤし始めた五条くんの元へと東京校の皆が走ってくる。主に女の子達が「セクハラやめろ!!」と叫んで物凄い形相を浮かべているのにも関わらず、アイツら元気だな〜と呟いている彼はこんな時でもマイペースだった。






本音はマウンドの隅で



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