伊地知くんに電話を終えてから一息ついてゆっくりと駅のトイレから歩き出した。久しぶりにこんなに血を流したな、と考えている内にマナーモードにしていた携帯が震えたのを感じて、少し怠い腕を持ち上げて「はい、」と名前も見ずに応答した。普段はこんな事しないのだが、いかんせん少し頭が回り辛い。やっぱり時間外労働なんてするもんじゃない、と思う私の耳に飛び込んできたのは焦りに満ちた見知った女性の声だった。





「……もしもし、」
「七海くん……!良かった、今何処!?」
「川崎駅の近くですが……何故そんな、」
「分かった!そこで動かず待っててね、約束!」





何故か、を尋ねたのにそれを聞く耳すら持たない彼女は早々と電話を切ってしまった。タイヤが道の段差を越える時のあの特有の音が常に聞こえていたのを考えるにおそらく運転中、というのは分かったので大抵の想像は付いたが……にしても、あまりに唐突だ。そんな私の疑問に答えるように伊地知くんから送られてきた緑のSNSには閑夜さんが迎えに行きます、とだけ書かれている。にしてもあんなに急ぐ必要はないのだが……伊地知くんは彼女になんて伝えたのだろうか。まさか酷い大怪我とでも思われているのではないか、と若干不安に感じつつ、一先ず近くにあった石造りのベンチに腰を下ろした。



ジ、ジ、と嫌な音を立てて頭上の蛍光灯が点滅する。先ほど会敵した呪霊は子供だ。否、子供と呼ぶにも若い、赤子のようなものだ。どんなものでも吸収していく、世界と触れるのを楽しむ、そんな時期に当たる"アレ"は間違いなく今後私達呪術師を脅かす存在になる。改造人間なんて趣味の悪い物を至極愉快そうに道具として扱い、容赦なく切り捨てるその能力は、悪い意味で呪霊らしい姿であると言えるだろう。私と同程度の語彙を使い話すことが出来るのも実に厄介だ。相手の考えや思考が理解できる、というのは時に厄介な物である。アレはそんな使い方をするつもりはないらしいが、情に訴えかけてくる呪霊などが今後現れないとは限らない。子供や大人関係なく、惑わされるような事態も起こりかねない。


だから、そんな知恵をつけるより先に、見つけた私が祓わなければいけない。それは私が呪術師である責務のような物だ。……目を閉じて浮かぶのは任務を共にしている虎杖くんの姿。五条さんや閑夜さんが言う通り、彼は普通の少年だった。普通、という言葉からかけ離れているはずの境遇でありながらも、彼は実に少年らしかった。……彼にあの呪霊と戦わせるのは、酷だ。彼は宿儺の器でありながらも、とても人間らしく、善人だった。そしてまた彼もあの呪霊と同じように呪術師としてはまだ未熟であり、だからこそ他人の助言を湾曲せずに受け入れ、自らの力にしている。虎杖悠仁は今まさに、"喰らっている"段階なのだろう。それを脅威と見るか、心強いと感じるか、それは私が決めるところでは無い。





「七海くん!」
「……閑夜さん、すみませんこんな時間に」
「そんな事いいから……!早く高専戻ろう、硝子にも待機してもらってるから!」





突然呼ばれた自分の名前に顔を上げると、勢いよく運転席から飛び出してきた彼女が見えた。すぐに後ろのドアを開けて私を誘導する姿を見ると此方は此方で五条さんの言う通り、というかなんというか……取り敢えず言われるがままに彼女に従い車のシートへと乗り込めばそれを確認した閑夜さんはそれなりのスピードでアクセルを踏み込んだ。夜も遅いとは言え完全な安全運転とは言えないそれに目を細め、すぐ死ぬような怪我に見えますか、と呟いた私に「でも痛いでしょ」とバッサリと切り捨てるのは彼女らしくない、というか、寧ろこれが本来の彼女なのだろうか。自分にとって先輩に当たる閑夜さんのこんな一面はあまり見たことが無かったが……あの人達にとってはもしかするとこれが普通だったり……はしないだろうな、と、途中で自分の考えを否定した。多分そういうことではないんだろうけど、緊急の時はこうなるのかもしれない。窓から過ぎ去る景色が何時もより格段に速いことに法定速度は、と尋ねたがギリギリ守ってる!と何とも微妙な返事をされてしまい思わず口籠った。彼女は焦っているようで案外冷静らしい。家入さんを既に待機させていたり、決してスピード違反をしているわけではなかったり、中々不思議な人だ。だからこそ五条さんは彼女から目を離せないのかもしれない。冷静に判断しつつも自分を顧みようとしない選択をしたり、決意したことには意外と頑固な一面があること……その結果無茶をしやすい、といった所だろうか。




「それ、どのくらい前の怪我?」
「一時間ほど。出血自体は止まっています」
「……そっか」



私の答えに幾分か安心したらしい彼女はそっと息を吐き出した。どうやら少しは落ち着いたように見える。高専までの道のりを静かに走りながら2人きりのドライブは続いた。七海くんがそんなに怪我するなんて、とミラーから見える閑夜さんはショックを受けたような表情を浮かべている。一瞬どうすべきか、と迷ったが素直に今回出会った呪霊について彼女にも伝えると興味深そうに頷きながら聞いていた。たまに険しい顔をする閑夜さんは五条くんの会った未登録の特級と繋がりがあるかもしれない、と不安を口にする。……ここ暫く、明らかに強い呪霊が多発している。何かを勘繰ってしまうのは避けられない事だろう。もしかすると近いうちに大きな事が起こるような気がしてならないのだ。彼女も似たようなことを考えているのか普段以上に私達の間に会話は無かった。……彼女の送迎をこんなにも居心地悪いと感じた事は今までない。





「……虎杖くんは、」
「!うん、」
「かなりのポテンシャルを秘めていますね。五条さんの特訓の成果ですか」
「元々運動とか反射神経は良いみたい、戦闘の方法は五条くん直伝かな」





羨ましいな、と呟いた彼女の口調は先ほどより大分柔らかな物だった。そこには嫌味や妬みなどを一切含まない、純粋な尊敬が乗せられている。貴女もよく彼と訓練していましたよね、と記憶の中を辿って浮かんだビジョンそのままに彼女に言うと少し驚いたような顔をしてから閑夜さんは眉を下げて笑う。あれは私がどうしようもなかったからだよ、と独り言のように呟く姿はどこか寂しげにも見えた。彼女はずっと、勘違いしている。少なくとも私が知る限り五条さんは彼女をどうしようもない、なんて感じている様子はなかった。それは今に限らず彼女の言う"当時"も、だ。あの夜彼が話していたきっかけを思い出しながら私の方が歯痒い想いを抱えているのが少し腹立たしい、というか面倒だ。でもどういう訳か私の口は気付けば意思に反して動いていた。





「……五条さんは、そんなつもりで貴女と組み手をしていたのではないと思いますが」
「え?」
「当時何度か……閑夜さんの学年と合同で訓練することもあった。ですが、貴女の言うような雰囲気には到底見えませんでした」





思い出すのは白い彼に地に伏せられる彼女の姿。五条さんに浮かぶ表情は決して彼女を馬鹿にしたようなものではなく、苦々しいものだったのをよく覚えている。そのやりとりを見ていた同級生が「なんで五条さんはあんなに厳しいんですか?」と遠巻きに見ていた先輩に向けて素直に問いかけると、少し考えるように2人を見つめてゆっくりと「……長生きして欲しいから、かなぁ」と応えていたのがひどく印象的だ。これは彼らをよく知る人物の客観的な回答であり、本人たちの意見ではない。でも、それには不思議と説得力があった。呪術師に長生きという言葉があまり似合わないことは皆分かっている。それでも、大切な存在に生きていて欲しいと願うのは自由だ。五条さんにそんな感情があるのは正直驚いたが、確かにあれは、悪意や嫌悪ではない。あれは……





「……うん」
「それに今のあの人は閑夜さんを凄く気にしています」
「……五条くんが、私を凄く気に掛けてくれてるのは分かってるよ」
「……では何故、」
「なんでだろうね、」





そうぼやいた彼女は薄い笑みを浮かべていた。一つの感情に表すのが難しいそれは、私からは測り知ることが出来ない。徐々に木が増えて行く山道を走りながら閑夜さんはそれを表現するのに適切な言葉を探している。「最近の五条くんは凄く優しいよ」と事実確認するように言われた言葉にそう見えます、と肯定する。彼女は何度か唇を動かしてからぼんやりとした目で前を向きながら口を開く。





「それに私が喜ぶと、昔の彼のことを本当に嫌いだったみたいでしょ?……そうじゃないのに」
「……難しい考え方ですね」
「……自分でもそう思う。でも、そんなの、都合がいいかなって」
「どれだけ都合が良くても、それを相手が否定的に受け止めなければ問題ないと思いますよ」





そうかな、と彼女が言った時、すでに車は高専の目の前に着いていた。……つまり閑夜さんは恐らく、今の彼に対してマイナスな感情は持ち合わせていないらしい。というか寧ろかなりプラスに近しいものなのだろう。でもそれは彼女が知る彼の"本質"とはある種遠いものなのかもしれない。捉えている本質が本当に正しいのならさておいて、昔と今のギャップとそこに生まれる感情の差に戸惑っているのかもしれない。これは急に態度を変えた彼のせいでもあるかもしれないが……"今の彼が好き"という感情は、果たして本当に"彼"に対するものなのだろうか、と言ったところだろうか。私は別に人の色恋沙汰に特別興味があるわけでは無いが、両者のある程度の今の想いを知ってしまっている分非常に気分が晴れない、きっと五条さんは閑夜さんに好かれさえすれば別になんだって構わないはずだ。たとえ彼女が惹かれたのが今の自分であっても、彼にとってそれは贖罪であり、美しいゴール地点なのだろう。でも、彼女は違う。


五条さんは大きな勘違いしている。閑夜さんは昔の貴方のことを嫌っていたわけでは無い。それどころか寧ろ敬愛に近い感情を抱いていた筈だ。それは今も変わらない。だからこそ……悩んでいるのだ。腹立たしい事に五条さんの作戦は見事に成功している。閑夜さんは自覚があるのかは分からないが、今、あの人のことを全くの"ただの"同級生だとは思っていないのだろう。だが、それから目を逸らそうとしている。これは自分の知る五条悟ではないはずだ、自分の知る彼はこんなことしないはずだ、と。……五条さんは閑夜さんに格好をつけ過ぎている





「七海くん、早く硝子のとこ行こうか。ちゃんと診てもらわないと……」
「……閑夜さん。質問してもいいですか?」
「……なに?」
「貴女は、五条さんの事をどんな人だと思っていますか?」





明かりの少ない森の中に建てられた高専の前で佇む彼女はゆっくりと瞬きする。長考するかと思った。さっきのように、険しい顔で彼を見つめ直すのかと思った。……でも、違った。彼女は一瞬だけ自分の真上の空に目を向けて、それから、驚く程に綺麗に笑ったのだ。






「五条くんは、カッコよくて、強くて、何でも出来て……その為の努力も怠らなくて、」
「……」
「私なんか、手も届かないようなところにいる人だよ。昔も、今もね」






何と言っていいか分からなかった。彼女は確かに彼を想っている。深く彼を理解している、理解しようと、している。それなのにどうしてこんな結論を付けてしまうのだろうか。……でも、彼女の言いたいことは少しだけ分かる気がしてしまう。自分より圧倒的に優れた生き物を見た時に感じる、私の小ささ。それは私も、まさに彼に対して感じたことがある。





「……閑夜さん、すみません。最後にもう一つだけ、聞きたいことができました」
「ん?」
「あなたは五条さんのこと、好きなんですか」





妙に清々しい表情で私の言葉を受け入れた彼女は一言、簡潔に言い放った。それから直ぐに私の背中を押すようにして家入さんのところへと誘導して行く。反動で頭が向いた空は今の私の気分とは裏腹に澄み切っており、煌々とした星と月が見下ろしている。……あぁ、どうしてこうも彼も……貴女も、面倒なんですか。そう言ってやりたい気持ちをグッと押さえながら成り行きに身を任せる。彼女との会話で痛みもとうに引いた気がしていたが、こうして思い出した途端にズキズキと鈍い感覚に襲われて息を吐き出したが、せめてこれだけは忘れていたかった。




「そうだよ」



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