赤子を抱いた母親と、その母親に必死に呼ぶ5、6歳程度の少年。そこに色濃く見える呪いの印。私たち三人が見ているのはあの家族……もっと正確に言えば、母親が抱いている"それ"だ。分かりやすく隠す気がないであろう気配、かと言って並の呪詛師が簡単に作れる代物ではないことは伝わって来る。息子と母親の喧嘩は徐々にヒートアップし始めた。母親が公共の場で騒ぐ子供に苛立つのは珍しいことではない、だが、あの子供もまた何も考えなしというわけではないのが分かった。癇癪ではない、癇癪では済ませられない何かを、あの少年は感じているのだろう。遂に母親は激昂し、平手を挙げた。とっさに動こうとした私の体を止めたのは五条くんで、代わりに、隣を素早く駆け抜けて、彼女の腕を止めたのは、七海くんだった。


動揺した母親が声を上げる。それでも七海くんは彼女の手首を掴んだまま離さない。明らかな狼狽は私達の勘を確信へと変える。今の私たちは親子の日常に現れた非日常に過ぎないはずだ。それでも、隣に立つ少年がただじっと涙を堪えて私達を見ているだけなのは、助けを求めているからなのかもしれない。五条くんは母親に詰め寄ると抱えられていた赤子らしきものに目を向けた。彼にほとんど連れられる形で私も見たその顔は絵に描いたような赤ん坊の姿だ。……そう、本当に、絵に描いたような、貼り付けた様なものに過ぎなかったのだ。そこに生気はなく、ただそうなるように決められた人形からは紛れもない邪気が漂っていた。それでも必死に自らの子供を護ろうとする彼女に、七海くんは言った。





「購入したのでしょう?」





母親はその言葉に途端に動きを止める。ただでさえ良いとは言えない顔色が青紫色にまで落ち込んで、絶望に染まった顔を私たちに向けた。あぁ、彼女はきっと、何かに縋りたかったんだ。痛々しいほど伝わって来る想いに胸の奥がギシギシと音を立てる。大方の、背景は想像がつく。だからこそ私はどうしても顔を歪めざるを得なかった。それは、女性の本能に近いのかもしれない。無意識に、繋がった彼の手に力を込めて握った。五条くんは一瞬私を見てからすぐにぎゅ、と応えるように握り返してくれた。それにどうしようもなく安心してしまう私は、やっぱり、弱い。





「蘇らせたい赤子の死骸を要求されたんだろ。……赤子に限定するわけだよ成人の死体は持ち運べないだろうからね」





ハッキリとした五条くんの言葉は母親の隣に立つ私にも同じくらいの衝撃として伝わった。彼が母親を責めるわけでも、その行いを責めるわけでも無いことが分かっている私でも、だ。咎めるように彼の名前を呼んだ七海くんは難しい表情をしている。確かに彼の言葉は厳しいものだった。それを自らの赤子と信じ、歪であっても愛そうとする母親にとって、現実は辛く、悲しいものだった。……彼女が手にしているのは"呪骸"の一種だ。死骸を素材とした生命を、生きとし生けるものを冒涜した、目に見える悪夢。悪夢は時に人を惑わせる甘美なものとなる。その本質を知らない彼女にはきっと、私たちは悪でしかないのだろう。そんな母親を動かせるのは他人の私たちではなく家族だ。七海くん達もきっと同じことを考えたんだと思う。





「真実の形は人それぞれです。貴女にとって選びたい真実が"子供を1人も喪わなかった今"ならば、別にとやかく言う筋合いはありませんが、」

「"貴女を心配する子供が生きている今"から目を背けていることは、事実でしょう」






七海くんの言葉は重く、厳しく、そして、優しい。苦しそうな表情で抱えた"我が子"を見る母親からは大粒の涙が溢れていた。自分の行った行為が誤りだと彼女は気付いていた。気付いていても、譲れない思いがあった。それが痛いほど伝わって来る。一年間身篭った子供が世に生まれて数えるほどで命を落とす、その苦しみは計り知れない。




「……お母さん、今日までよく頑張りましたね」
「っ……!」




嗚咽を零す彼女の背中をそっと摩った。そばに息子もいる手前、満足に人前で涙を零すことが十分に出来なかったのかもしれない。ただ震える背中は1人の女性だった。俯く彼女からちらり、と2人に目を向けた。2人は私の意図に気付いてる……と言うよりは、彼らもまたそのつもりだったのだろう。ゆっくり首を縦に振った。私達が彼女から呪骸を取り上げるのは容易い。でもそれでは根本的な解決にはならず、彼女が自ら決断する必要がある。……自分が、前に進むためにも。




「貴女の子供は、神様に魅入られ、好かれてしまったんですね。きっとすごく愛らしかったから。あなたの愛が篭っていたから」
「……あい、が?」
「ええ。……でもきっと、夏輝くんはまた、命が循環し、巡り巡って貴女のところに帰ってくる。貴女のことを愛しているから」
「夏輝……」
「その時、自分の居るべき場所に違うものが居れば、困るでしょう」





迷子になってしまう、と零した私にハッと彼女は顔を上げてこちらを見た。……信仰とは不思議なものだ。たとえ普段信じていなくても、人間は何か大きな障害にぶつかった時、神を信じたくなる。彼女も例外ではなかった。震える手で母親は私にゆっくりと自分にとって赤子同然であったソレを抱き渡した。ずっしりとした重さは3000gの命と近しいものだと本能的に感じとる。悪趣味だ、と内心舌を打ちたい気持ちを堪えて頭を下げた。ありがとうございました、と伝えた言葉に「……私こそ、ありがとう」と泣きながら言った彼女は確かに生きている息子の手を強く握ってから地下街を離れていく。その足取りは自然と残穢とは反対の方へと向かっている。きっとあの家族はもう、大丈夫だ。




「……閑夜さん」
「……ん?」
「大丈夫ですか」





七海くんは案外分かりやすい人だと思う。高専時代から彼の本質は変わらない。真面目で、優しく、責任感が強い。今も多分私に任せてしまった、とでも感じているんだろうな、と考えつつ大丈夫だよ、と言葉にして伝えた。明らかに信じていない雰囲気で顔を顰めた七海くんは腕を差し出して「私が持ちます」と有無を言わさない様子だったので素直にソレを渡した。そのリアルな重さに七海くんはもっと厳しい顔をしながら提げていた鞄の中に出来るだけ丁寧に入れていく。彼もコレが趣味の悪い人形でしかないと分かっている。伝わってくる悍しい呪いの気配を感じている。それでも、乱暴に扱うことができない七海くんはやっぱり、呪術師にしては感受性が高いんだと思う。隣でそれを観ていた五条くんが露骨に嫌そうな顔をしているのもその証拠だ。彼はコレをただの"呪骸"としか見ていない。母親への同情とこの物質への想いは彼にとってはイコールではないし、寧ろそれがこの業界で上手くやっていくのに適した考え方なのだろう。……七海くんは、優し過ぎる。


いつか、彼に呪術師を辞めると伝えられたことがあった。私はそれに反対も肯定も出来なくて、ただ、お疲れ様。とだけ答えた。私も彼の気持ちが痛いほど分かった。何度も辞めようと思い、実際に、やめた。だからこそ彼は先輩にあたる私に当時そうして教えてくれたんだと思う。私は勝手に、彼にシンパシーのようなものを感じていた。それでもこうしてこの世界に戻ってきてしまうあたり、彼は本当に難儀な生き方を選んでいる。対する私は、未だ動けていないのを思うと、彼は、立派過ぎる。





「……先ほどの交渉は私達より同性の閑夜さんが適任でした。でも、これを女性である貴女に持たせられない」
「……とか言いつつ僕に渡すのやめてくんない?やだよそんなん持つの」





文句を言う五条くんにあなたは何もしていないでしょう、とほぼ無理やり押し付けた七海くんは彼の扱いに慣れている。渋々五条くんも諦めてはいたが捺と手を繋ぐつもりだったのに、とぶすくれていた。繋がれても私はどうしていいか分からないんだけどな、と苦笑しつつ、天窓へと目を向ける。見える空は既にオレンジ色に染まり夜が近づいて来ていた。……急ぎましょう、と呟いた七海くんにそっと頷いた。態々向こうが得意な活動時間に私達が合わせてやる義理はないのだから。











「医者の不養生、って言葉あるよね」




五条くんの声をぼんやりと聞きながら私たちはムードのあるバーカウンターに3人で腰掛けていた。……結局、元凶の処理はすぐに終わった。一級術師と特級術師が参加する任務なのだから元より心配はしていなかったけれど、呆気ないほどに一瞬だった。今回の一件は呪詛師の仕業ではなく、自己増殖を繰り返す呪骸に呪われた人間の行為だったのだ。その呪骸も元を辿れば人形という呪具により生成されたものだが……あまり見ていて気持ちの良いものではなかった。愚かな人間に違いなかったが、同情は出来る姿だった。それを最後の一瞬だけでも人間に還してもらえただけ、彼は七海くんという呪術師に当たったことを幸せに思うべきだ、と感じた。彼らの仕事が済んでから私は現場の写真撮影と記録を行い、範囲の狭い帳を下ろす。今の私1人ではその場を片付けるのは難しかったので応援を仰ぐ連絡を入れつつ、そこ彼処に広がる闇に対して"影踏"を行い、影を使役してある程度の掃除を行うように命じた。それを見ていた五条くんは器用に口笛を吹いてから「捺の術式、久しぶりに見た」と楽しげに笑っていた。




「……人形師のことを言っているんですか?」
「呪術師全体のことだよ、呪いへの対処ってのはつまるところ人の負の感情への対処だ。気の晴れない仕事も多くなる」
「自分自身が呪いを溜め込む危険性、ですか」
「慣れはしても気持ちよくはないよね」




酔いたくもなる、とグラスを回した彼が飲んでいるのはオレンジジュースをベースとしたノンアルコールカクテルだ。七海くんは呆れ顔でそれを突いたが、彼は僕は何もしてないからとくつくつ喉を鳴らすだけで悪びれる様子はない。私の目の前に置かれているのは五条くんの"奢り"のアプリコット・フィズ。あんずの甘いお酒を注文するあたり彼らしい。私から見て奥に座る透明なギムレットを飲み干した七海くんは今日は少し酔いたい気分だったのかも、しれない。


今日の五条くんの話はほんの少しだけ周りくどかった。でも、それが七海くんをからかいたい訳じゃないのは何となく伝わって来る。彼が私をこの北海道に連れてきた理由、そして彼がこの任務に来たかった理由は多分、この瞬間にあることは容易に想像出来た。五条くんは七海くんを情に厚い、と評価した。それは私も違いないと同意できる。ふ、と一度、彼は私に目を向けて「お前もな」とぽす、と大きな手を頭に乗せてきた。え?と聞き返した私に何故か七海くんも納得したように頷いていて、何か話を聞き逃してしまったのかと不安になったが、どうやらそうではないらしい。……私も、彼にとっては"情の厚い人"なのだろうか。少しもそんな自覚が無く、彼からそんな風に思われているなんて考えたことも無かったので何となく煮え切らない思いを抱えながらもとりあえず、五条くんの本当の目的に耳を傾けた。




「一度ね、オマエに預けてみたい子がいるんだよ」
「伏黒君……ではないでしょう?」
「虎杖悠仁。知ってるだろ」




虎杖悠仁。その名前に私は小さく息を吐き出した。……なるほど、彼は今日、七海くんという信頼できる"大人"を共犯に引き入れるためにここに訪れたんだ。バーテンダーは三つのグラスを私たちの前に並べ、沈む夕陽のようなグラデーションの鮮やかなオレンジを注いだ。ロマンチックなその名前を裏切らず、甘い、甘い、ノンアルコールのカクテル。恐らく辛口が好みであろう七海くんは目を細めながら、虎杖悠仁への見解を述べたが、五条くんはそれを受け流しながら指先でグラスの縁を撫でた。その顔はバーが似合う大人の男性というよりは、子を案じる父親のような表情に見える。五条くんはもう、すっかり教師だった。担当している子供たちの成長を何の打算も無しに願う"良い大人"に変わりない。七海くんにもそれは伝わったらしい。普段から少し適当なところや強引な時も多い彼の真面目な頼み事。五条悟は最強ではあったが、だからといって全てを1人で片付けようと思うほど、驕ってはいない。





「人の痛みが分かる"大人"に預けたいからね、お前みたいに」
「……そんな甘ったるいことを言うために、わざわざ此処まで?」
「僕が甘党なの知ってるだろ?」





笑いながら五条くんは私と七海くんの前に"シンデレラ"を寄せ、そのまま自分のグラスを手に取った。私達は特に示し合わせるわけでもなく、同時にグラスに口をつけ、飲み干した。露骨に顔を顰めて主にネガティブな意味合いで甘い、と言った彼に五条くんは「旨いだろ」と対照的な感想を吐き出す。私はどちらかと言えば五条くんに近しい"甘い"だろうか。この歳で甘いお酒の方がまだ好きなんて、少し子供っぽいかもしれない。でも、その溶けるような甘さに彼らの言う疲れが消えていく気がするのだ。

きっと五条くんの策略はこれで成功した、と言っても過言ではない筈だ。七海くんは優しい人だ。きっと彼の心からの頼みを無碍にしないし、子供を見捨てることもしないだろう。結果はすでに見えていたのかもしれない。……だからこそ私にも協力者を共有したかったのだろうか?七海くんとコンタクトを取りたかったのは分かったけれど、私が北海道にまで連れてこられた意味はまだ霧掛かっている。何か意図があるとは思っているのだけれども、少なくとも、それを教えてくれるのは今日ではなさそうだ。




……分かんないなぁ、と、バーの薄明かりでも綺麗な彼の横顔をじっと見つめた。一際目立つ真っ白な髪とサングラスの奥に隠れた青い瞳。そこに浮かんだ細い三日月みたいな楽しそうな唇はいつもと変わらず緩んでいた。真ん中に座る彼の視線はしばらくは七海くんに向いていたけれど、ふ、とこちらに気付いたのか、体ごと私の方に向けて「ん?」と優しい声でなぁに、と尋ねた。さっき飲んだカクテルみたいに甘くて、溶けるような声に少し背中がそわそわして、なんでもない、と目を逸らす。私のそんな仕草にくすり、と笑いながら「マスター、」とバーテンダーに声をかけた五条くんは何やら二つのお酒を注文した。ことり、と小さな音を立てて私の前に置かれたのはまた、オレンジ色をしたショートカクテルだった。でも、これはシンデレラの沈む日を思わせるもの違い、希望に満ちた昇る朝日のような白んでいく空を想像させる何処か爽やかな色合いだった。もう一つの五条くんが手に取ったグラスには私も知っているコーヒーリキュールで作られた"カルーアミルク"が注がれており、なんとも彼っぽい選出だった。





「俺と捺の出会いに、愛を込めて」
「……もう何年前の事だけどね」





歯の浮くようなキザなセリフについ、口元が綻ぶのを感じつつも一口、縁へと口付けて、流れ込むさっぱりとした飲みやすさとフルーティな味わいにほっ、と息を吐き出す。ジュースのような口当たりはこのままゴクゴクと飲み干せそうな味わいだ。美味しい、と自然と溢れた言葉に良かった、と笑う彼も珍しくアルコールを口にしているがあまり変わりが無いのを見る限り、かなり薄めて作ってもらっているらしい。……彼の家に泊まったあの日、一応聞いたが、本人曰くお酒に弱いのは本当のようだから、あまりに飲みすぎてホテルまで連れて行くのに苦労するのは避けたい。ほどほどにね、と伝えればハイハイと少し雑な返事を返されてしまったけど、実際これ以上飲むつもりは無いらしい。ならいいかな、ともう一口含んだそれはやっぱり爽やかで、夏らしい甘さがとても心地良かった。なんて名前なの?と興味本位に尋ねた私に、五条くんは嬌然と笑って答えた。




「"オリンピック"」
「……レアみたいな?」
「かもね?」




含みのある言葉を残しながら肘をついている彼を説明を求めるように見つめたけれど、ゆるりと青を細めるばかりで少しも教えてくれる気配が無い。調べろ、ということなのだろうか。気になるなぁ、とカウンターの下で足をふらりとばたつかせた私にクツクツと喉を鳴らす五条くんはなんだか機嫌がいい。たまにこういうところがあるもんなぁと唇をアヒルみたいにわざと尖らせた私に「可愛い顔しないの」なんてサラッと口説くみたいなことを言うの、彼はやめた方がいいと思う。






カクテルに込めて



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