こっくり。という効果音が似合いそうな体勢でバーカウンターに突っ伏して眠る彼女の髪をゆっくりと撫でた。こんな風に捺が酔って眠ってしまうのはそう多いことではないのを知っている。……やっぱり、今日は割と無理していたんだろうな、と考えながら空になったグラスを端に寄せた。そんな僕の動作を見ていた七海はゆっくりと口を開く。




「それで?」
「ん?」
「まだ、あるんですよね」




彼の問いかけに口角が持ち上がるのを感じる。本当にコイツは良く出来た後輩だと実感し、自分の目に狂いが無かったことを称えた。「閑夜さんのことですか」と続けた七海は勘がいい。よく分かったね、と労う僕に彼は嫌でも分かりますよと眉を顰めて深いため息を吐き出した。苦労してるなぁ、とクツクツ喉を鳴らしながら僕はもう一つの"本題"を話し始めた。





「僕がいない間に捺のことも見ていてあげて欲しいんだよね」
「……驚いた、貴方がそんなことを言うなんて」
「どういう意味?」
「てっきりどんな人にも彼女を任せたくないのかと」





渋い表情でそんな事を言う七海は何だかおかしく思えた。なんだよ、それ、と笑う僕を軽く睨む彼の言葉は確かに間違ってはいない。僕は彼女を誰にも渡すつもりはないし、僕だけのものにしたいと思っている。出来るならば彼女を側で守るのは自分でありたい、そう願っている。でもそれが現実的に可能であるかは別の話だ。……勿論、やろうと思えば出来る。形振り構わないのであれば彼女を僕の隣に常に置き、安全な場所に幽閉する事も可能であろう。でも、それを捺は望まない。分かりきった事実だ。こうして眠る彼女の穏やかさは人畜無害に感じるけれど、実際はそうではない。昔から捺はこう見えて頑固な女だった。例え僕がどんな言葉で罵り、彼女を前線に出さないようにしても、気付けばそこに立っている。そんな人間なのだ。彼女は自分に自信がない割には、行かなくてはならない、しなければならない、そんな直感を信じるのが上手かった。だからこそ馬鹿みたいに怪我をして俺たちに怒られていたんだけど、それは彼女の良いところでもあり、悪いところでもある。

捺は、そんな性格だからこそ、他人に自分の弱さを見せるのがあまり得意ではなかった。もう少し詳しく言うのであれば"弱さ"を見せるのはいいとしても、その奥にある本人の意思や想いを表出するのが特に苦手だったと、僕は解釈している。事実、僕が彼女の本心に触れた機会は決して多くない。





「……暫く、僕1人の任務が続く予定なんだよね。本当は捺も連れて行きたかったけど悠仁のこともあるし、それに……」
「それに?」
「上が、捺にまで何かしようとしてる」





僕の声にそれは、と七海は息を飲んだ。我ながら冷ややかな声色だったと思う。彼女が今日、少し思い悩んで見えたのはこの事も一つの原因なのだろう。今回の任務に捺と同行すること自体は一応、どうにかなった。若干渋られたようだがこうして申請は通っている。上もきっと僕が彼女とだとやる気を出す事を理解しているんだろう、そこはウィンウィンだ。だが、今のクソ野郎達は僕と自分達の"力関係"を見誤ろうとしているらしい。有能な後輩その2の伊地知によると今回の変更にあたり捺には任務の情報が一切与えられていなかった。それは向こうが意図的に制限を掛けているということになる。今までも何回も彼女の任務は変更させて貰ったけれど、これは初めてのケースだ。

この不和は見逃していいものではない。いつか彼奴らは彼女を僕を使うための餌にしようとするだろう。そういう連中だ。僕は僕自身の責任のもと、それを全力で阻止する必要がある。彼女をそんなくだらないゲームの駒になんか、させてやるつもりはない。それに……





「以前僕が戦った未登録の特級……あれは人間と同じレベルの会話や思考が出来ていた」
「……ええ、報告を確認させて頂きました」
「あの呪霊たちは僕を殺すという明確な目的を持って現れたんだ。そして、そこには知能がある」
「それは……つまり、閑夜さんがいつか囮にされるかもしれない、と?」
「話が早くて助かるよ」





囮と言えば聞こえはいい。彼女が生きて囚われるだけなら助ける方法はいくらでも存在する。だが、敵は人ではなく呪いだ。残忍残虐な手段を取らない訳がない。僕を逆上させるために彼女を簡単ではない方法で苦しめて殺すかもしれない。全ては可能性の話だが、考えるに越したことはない。七海は難しい顔をしながら「私にどうしろと?」と聞き返して来た。こういうところがお人好しというべきか、七海建人という人物をよくよく表していると感じる。彼もまた、何かを捨てることができる人間では無いのだ。





「特別何かをして欲しい訳じゃない。ただ……見ていてやって欲しいんだ。何か可笑しいと感じたら僕に連絡してくれればいい」
「……なぜ私が?彼女自身に伝えるのは、」
「無理だよ、捺は俺を頼らないから」
「…………そう、ですか」
「ま、本当の緊急事態なら頼むだろうけど……他人が関わらない、自分に関することだけならきっと、抱え込むだろうから」






だからお前に頼んだ、と、爽やかに笑いかけた僕に七海はまだ納得しきっていないらしい。疑問なら答えるよと促してやれば彼は家入さんでは駄目な理由は?と投げ掛けてきた。確かにその問いは最もだ。硝子と捺は仲もいいし、今でもよく飯を食べに行っているらしい。でも、根本的に彼女と捺には性格上の違いがある。それは硝子本人もよく心配していた。彼女の痛みに気付くのは私では難しい、と。





「七海と捺は似た者同士だからね」
「……嫌味ですか?」
「いやいや、そんなつもりはないって。2人とも一度は呪術師から離れたけど、お互い今の道で上手くやっているよ」
「はぁ」
「今日の任務だってそうさ。……七海、お前も自分で分かってるだろ?」





七海は僕の言葉に一瞬口を閉ざした。でも、様子を見る限り僕の見解は間違っていなかったようだ。深く深く息を吐き出した彼は「……善処します」と答えた。それは殆どイエスに近しい事を僕は理解している。捺も七海も感受性が高く、情に厚い。それ故に自分のことを追い詰めやすい。今日の任務での母親への態度でそれは確信に変わった。やっぱり彼女を頼むにはコイツしか居ない、と。よろしくね、と勝ち誇った僕の態度にムカついているのを隠さないあたり素直な奴だと思う。




「オリンピックにアプリコット・フィズ……ね」
「何?文句ある?」
「いえ、貴方らしいと思いまして」
「褒めてる?」
「そういう訳ではないです」
「何それ」




生意気だなぁ、と溢した僕に七海はじっと空のグラスを見つめていたが、不意に顔を上げて此方を見た。変わったゴーグルの奥の細い目が僕を捉えて、何か言いたそうなら色を見せている。……なに?と尋ねた僕に七海は少しだけはっきりとした口調で質問してきた。




「五条さんは、何故閑夜さんのことを好きになったのですか」
「え?何、恋バナしたいの?」
「……貴方の"個人的な依頼"に応える私の疑問の一つも解決しないつもりですか」
「悪かったって……でもそんな気になる?」
「私が知る限り、昔の貴方は彼女にそんな風では無かった筈です。寧ろ、」
「厳しかった?」
「……自覚があるみたいで何よりです」





僕とは違い、今度は明らかな嫌味を吐き出した七海にキツイなぁと口角を持ち上げる。彼は直属の後輩だ。当然学生時代の俺たちをよく見てきたはずだ。今も昔も高専の生徒は決して多く無い。だから学年を跨いだ訓練や任務は日常茶飯事だったが、そりゃあ確かに疑問にも思うだろうと頷いた。かと言って此方もどう話していいか難しい。ぼんやりと記憶を辿って、俺の彼女への考えや感情が大きく動いたあの日へと引き寄せて行く。まだまだ青くて、どうしようもなくて、それでも確実に、俺の運命が変わったであろう"あの瞬間"に。

















「なんでアイツが"最優秀"なんだよ」
「……捺のことか?」







別に、その称号が欲しかった訳ではない。ただ俺は、そこに至る理由を求めていた。俺の訴えに眉を顰めた夜蛾先生は煮え切らない表情をしている。肩から吊り下げた固定器具は数日前の任務で思い切り折った左腕を支えていて、そろそろ腕だけじゃなくて肩が凝りそうで仕方がない。とは言え、これだけの怪我で済んだのは不幸中の幸いとでも言おうか。アイツを含めて硝子、傑、そして俺の4人で派遣されたのはとっくに廃れた今は稼働していない工場だった。年の瀬が近づいて馬鹿みてぇに寒いのに、と文句を言いながら早く終わらせて帰ろう、と誓い合ったのが始まりだったと思う。踏み入れた瞬間に感じた明らかな嫌な気配に一瞬全員が身を固くした。これは舐めてかかれない案件だ、と察するのは早かった。元の任務自体は「廃工場に現れた二級呪霊の排除」だったが、これは二級相当では無いと気付くのに時間は掛からなかった。傑は確かもうこの時点で既に呪霊操術を発動していたと思う。


ほんの少し、地面に流れた雨水で出来た水溜りが揺れた。水面の波形は広がり、次の瞬間には物凄い衝撃と共に鉄骨に叩き付けられる。迫り上がってくる嘔吐感に吐き出した口からは鮮血しか出てこなくて、つい、鼻で笑った。こりゃあ骨が折れる。つーか、今折れたわアバラ。


考えるよりも速く呪力を体全体に流し込み、少しでも修復を試みる。俺がぶっ飛ばされたことに酷く驚いた顔の3人はすぐに戦闘態勢へと入った。傑と閑夜が応戦している間に隙を見て走ってきた硝子が「生きてる?」と不吉な呼び掛けをしてきたのに一応、と返しつつゆっくりと体を持ち上げる。硝子の術式で身体が修復されていくのを感じながらありゃ二級じゃねぇな、と呟いた言葉に彼女は頷いた。相変わらず気持ちが悪い容姿の呪いに舌を出しながら一気にギアを上げ呪力で体を流していく。一発が重いタイプなら喰らわないに越したことはない。傑も同じ考えなのか呪霊を盾のようにしながらなんとか一定の距離を保っているのが見えた。閑夜は術式の仕様上、影の多いこの建物では動きやすいのか、避けることにはさして苦労はないようだ。ただ、攻撃を仕掛ける隙がなかなか見当たらず、歯痒そうにしているのが分かる。とりあえず順転で回してその辺のモノ持ってくるか?そこから弾いて……



「悟!!!」
「は、ッ!?」



傑の呼びかけに振り向き、気付いた時には目の前に呪霊の脚のようなものが迫っていた。反射的に理解する。無下限は、間に合わない。呪霊の癖に脚なんか生やすなよ!なんてコンマで悪態を吐き腕を体の前で交差させた、その途端に思い切り足が"地面の中"へと引き摺られる。視界が黒に包まれ、数秒しないうちに深い水から顔を上げるような感覚に襲われた。ごほ、と咳き込んだ俺の上には微妙な重さの物体が覆い被さる。目を開けたそこに見えたのはゆっくり揺れる一つに纏めた髪の束。




「……っ、ごじょうくん、怪我は!?」
「ない、けど、」




良かった、ほんの少しだけ緩められた表情。でもすぐにそれは引き締められ、彼女は立ち上がると隅にできた柱の影の中へと迷いなく飛び込んだ。……閑夜捺。影を使役する術式を持つ、おどおどした女。俺と話す時は目すら合わない、めんどくさいヤツ。それが今はなんの物怖じもせずに影に飛び込み、辺りの幾つかの影を使役しては呪霊に巻き付かせたり、単純な壁として傑や硝子に呪霊の攻撃が当たるのを防いでいた。その癖わざわざ自ら飛び込み、さっきの俺にしたみたいにあいつらの下から這い出てきては咄嗟に場所を移動させるのがよく見える。真っ先に俺が感じたのはその効率の悪さだったが今はそんなことを考えている場合では無い。あァクソ、と舌打ちをして走り込んでいく。もう油断はできない。無下限を纏いながら忌々しい呪霊の元へと飛び込んだ。ニヤリと口裂け女なんかよりよっぽど裂けた口で笑った呪いが俺の元に来るのが分かる。その瞬間、そいつの予定よりも"俺の元へ"引き寄せてやった。そして、人間みてぇな驚いたようにも見える表情を浮かべた化け物を思い切り殴り付ける。最初の俺みたいに工場の機械に思い切り叩きつけられたソイツに、清々しいくらいの笑顔を浮かべてやった。こっからだぞ、クソ呪いめ。






次に俺が目覚めたのは高専の自室のベッドの上だった。朧げな記憶と妙に痛む腕に首だけを動かしたが、見事に固定された左腕に深く息を吐き出す。そうだった。あの後変態した呪霊にへし折られたんだった。一年だけで行く任務じゃねぇぞ、と真っ当なことを考えつつ、あー……気分悪、と1人の部屋で呟いてそのまま二度寝したら次は無駄に煩いノックに起こされた。怠い体を持ち上げれば、そこに立っていたのは俺と反対の腕をぶち折られている傑だった。思わずダセェと言ったがお前もなと平然と返されてしまった。傑は額のあたりにも包帯を巻いていて、まあ、それなりに怪我をしているらしい。めちゃくちゃ寝てたわ、とか他愛もない会話をしながら入った教室には既に硝子が座っていたけれど、こっちは腕は無事だが足首のあたりがぐるぐる巻きになっている。他は?と問いかけた傑に腹、と答える姿は妙に雄々しい。まあ、それくらいじゃねぇとこんなもんやっていけねぇわ。


そのまま暫く座っていたが、待てども一つ空いた席を埋める人物は現れない。微妙な焦燥感に教室が駆られていくのが分かる。俺も、2人も、最後どうやって高専にまで帰ったかが全く思い出せなかった。変態して更に馬鹿みてぇな火力になったアイツと殴り合って左を思い切り折られたのは覚えている。その頃には硝子はもう呪力を使い切って倒れていて、その隣には肩のあたりから血を流していたアイツがいた。ギリギリまだ立ち上がっていた傑も限界だった筈だ。老朽化している工場も所々から屋根が落ち、今にも崩れそうになっていて……つーか、俺が最後に右でぶん殴った時に支柱も折れて、傑がアレを取り込んで、そしたら……と、そこまで考えて開いた扉に同時に目を向ける。立っていたのは夜蛾先生と見える範囲に少しの外傷もない閑夜だった。先生は俺たちに危険な任務となったことを謝ってから一人一人に労いを口にする。妙に今回の事情をよく知っていた先生に違和感を覚えたのは俺だけじゃなかったらしい。「何故そんなに?」と問いかけた傑に「捺から全て聞いた」と答えた彼はその後、彼女が今回の功労者だと讃えた。閑夜はそれに喜ぶわけでもなく俯いて、ありがとうございます、と消え入りそうな声で一言だけ礼を言った。それが俺は、どうにも、引っかかる。





「アイツは俺らと比べても軽傷だし、直接呪霊を叩いてねぇし、つーか最後に祓ったの俺だし」
「それで納得いかないと?」
「全然喜んでもない、寧ろ死んだみたいな顔……なんかあったろ、アレ」





俺の指摘に夜蛾先生はゆっくりと目を閉じる。……本人には?と聞かれて素直にまだ。と首を横に振ると何処か安心したように息を吐きながら、彼は俺の知らない"あったこと"を話し始めた。





「……捺はお前らが呪霊を祓ったのを見届けている。悟が押し切り、それを傑が取り入れたのも、全部……その後、揃ってお前らはぶっ倒れたんだとよ。……血も相当で、2人とも綺麗に骨まで折ってた」
「で?」
「戦いの影響で崩れていく工場から、捺はお前ら全員を帳の外まで運び出した。……もう既にその時、アイツは殆ど呪力を使い果たしていたんだ」
「……は?じゃあ、何、俺ら全員を……大した術式も使わず"普通に"運んだってこと?」





俺の言葉を肯定するように夜蛾先生は頷いた。その後、彼女の連絡により迎えが来てそのまま病院に直行。唯一話せる状態だった閑夜は補助監督と先生に状況説明を行ったようだ。被害状況から戦闘時の様子まで事細かい報告がなされて、連絡が遅れたことを謝ってきたらしい。正直、意味が分からなかった。俺と傑は女1人で楽に持ち上げられるような体格じゃない。しかも重症の怪我人。雑に運ぶ事も許されず、崩壊が続く工場から3人を、1人ずつ、運び出した。……想像も付かない。





「……全ての確認が終わってから俺が一応診てもらえと病院に回したら、肋骨が3本折れてた」
「な、」
「尋常じゃない、だろ?」





尋常じゃないどころか、狂ってるだろ……と思わず口に出た言葉を先生は否定しなかった。説明された最優秀の理由にグ、と唇を噛んだ俺は制止されるのも聞かずに廊下を走り出した。身体中めちゃくちゃ痛い。でも、止まる気にもなれない。初めて彼女の部屋のドアを叩いたが返事は返ってこなくてクソ、と悪態が漏れる。閑夜は!?と勢いよく開けた教室にも彼女は居なかった。驚いた顔の硝子と傑は「今ちょうど階段を降りて行ったけど」と戸惑った口調だったが、それを聞いてすぐにまた俺は強く床を蹴った。分からない。何を言うつもりなのかも、何がしたいのかも、自分でもハッキリしない。でも、どうしても今、彼女に会いたいと思った。しばらく校舎の周りを歩いて、やっと見つけた閑夜は膝を抱えて小さく、蹲るようにして非常階段に座っていた。


信じられないくらいに小さい背中だった。これが俺を運んだなんて言われても尚、真実とは思えない。それ程までに彼女はただの、女子だった。声を掛けようとした。だがどうやって?俺はそれこそ今まで彼女とまともに話したことがない。妙に遠巻きに見られていたのもそうだけど、俺も閑夜の事を漠然と"何も知らない"からこそ、得体が知れないと感じていた。付き合ったことなんてない、そんな相手に今更、なんて声を掛ける?




「……五条、くん?」




ぽつり、と呼ばれた名前に肩が震えた。いつの間にか彼女は俺の方を振り返っていた。その目元は赤く染まり、どれだけ鈍い奴が見ても泣いていたことが一目で分かるほど潤んでいた。それに俺は更に何を言っていいのか分からなくて自分からここに来たくせに口を一文字に噤んだ。必死に目頭から目尻までを擦った閑夜はバツ悪そうな笑顔を俺に向けて「ごめんね、変なところ見せて……」と謝った。いや、まぁ、変だけど、なんて、クソみたいな返事をしつつ人1人分ほど空けた位置に俺もゆっくりと腰掛ける。空気は重かった。そりゃそうだ、多分向こうもビビってる。愛想無い同級生の男に急に話しかけられるなんて、それこそ気持ち悪い。




「……怪我は、」
「え?……あ、……その、肋骨くらい、かな」
「3本だろ、痛くねぇの」
「痛い、けど……みんなに比べたらどうって事ないよ…」




夕陽を受ける彼女は酷く悲しそうな顔をしていた。当たり前だが、俺は彼女のこんな顔も、それこそ泣き顔も、初めて見た。いつも曖昧に笑うだけのつまんねぇ女だと思ってた。それが、こんな表情を浮かべるなんて、知らなかった。ごめんね、と彼女はまた謝った。何に対しての謝罪なのか少しも分からなかった。……何がだよ、と投げやりに尋ねる俺に閑夜は言う。「何もできなくて」と。




「……はぁ?」
「傷付いてる皆のこと、見てるだけしか出来なかった。何も、できなくて……」
「……」
「だからみんなと比べて怪我も大した事ないし痛いとこもなくて、」





悔しい。ぽつ、と落とされたのは意外な単語だった。それに驚くのも束の間、ポロポロと止めどなく溢れ始めた涙に俺の目は奪われる。頬から喉元を伝って落ちていく水滴は、俺の心を乱すのに十分過ぎた。不甲斐無い、そう言って彼女はじっと、夕日を見ていた。ただ静かに、そこに溶けるように、閑夜はそこに佇んでいた。……言葉が出なかった。だが、固まって動けない俺と裏腹に彼女は立ち上がる。コツ、コツ、と鈍い音を響かせてから階段を下り切り、此方に向き直った。




「……ごめん、五条くん、やっぱ変なこと言っちゃって」
「いや、俺は、」
「五条くんは私なんかと違って、強くて、凄くて、……カッコ良かったよ」




その響きが音として俺に伝わった時、いつの間にか俺は彼女の手を掴んでいた。片腕が骨折しているのも、全身打撲だらけなのも全部忘れて、そのまま消えてしまいそうな彼女を捕まえた。驚き振り向いたその顔は先ほど浮かべた笑顔なんかじゃない。また、泣きそうな情けない表情だ。それが堪らなく俺を苛立たせる。ムカムカとした感情が、妙に早い心臓が、酷く居心地が悪い。





「お前が、」
「……え?」
「お前が……呪力切れ起こしたのは、俺らを影を通じて運んでる時の無駄遣いのせいだ。アレはもっと上手くやる方法あんだろ、別にお前が一々あそこを通る必要もねぇし」
「……!」
「あんな効率悪い事一々してたらそりゃ持たねぇよ。考えて使わないといつか死ぬぞ」
「ご、ごめん……」
「大体さ……反省すんのはいーけど、まずは出来たこと認めろよ。そんな誰か死んだ後みたいな空気で考え込んでも伸びる訳ねぇし」
「ごめ、」
「そのすぐ謝んのもやめろ、鬱陶しい。今回、お前のおかげで俺らが助かったんだろ、それをまず褒めろよ……捺」





言うだけ言った。そのまま逃げるように踵を返した俺を彼女は追いかけて来なかった。……捺。初めて口にしたその名前がくすぐったくて仕方ない。自己評価が低くて、マイナス思考で、ムカつくぐらい我慢強い同級生。閑夜捺のいつか身を滅ぼしかねない危なっかしさと明らかに無理している笑顔がこびりついて離れない。道端の小石を蹴飛ばして、それが古い電柱に当たったのをぼんやりと眺めてから舌打ちした。何なんだよ、この感じ。なんだよ、これ。煮え切らない感情を抱えてしまった俺は荒い足取りで校舎へと向かう。自分の部屋についてベッドに転がっても尚、浮かんでくるアイツの泣き顔が酷く居心地悪くて、もっと良い顔しろよなんて、馬鹿げた想いが顔を出したのを感じて、俺はそのまま布団を頭まで深く深く被った。











「まぁ、そういう感じ?」
「……つまり、泣き顔が良かったんですか?」
「何でそうなるんだよ、違えよ」




お前ちゃんと聞いてた?とジト目をした俺にすみません、思った以上に長くて。と答えた後輩の脹脛を爪先で軽く蹴った。急に失礼になりやがったなコイツ。冗談ですよ、と地味に痛そうに摩りながら本日何度目か分からない溜息を吐き出した七海は「五条さんも人の子なんですね」なんて冷静になってもやっぱり失礼なことを言い始めた。そりゃそうだろ、と指先をくるくる回して遊ぶ俺に、だからあんなに厳しかったんですか、と独り言みたいに七海は呟く。グラスに注がれた、ただの水を見つめた俺はくるり、と一周それを回してから純粋な感情を打ち明ける。





「死んで欲しくなかったからね」
「……それをあんな形で伝えるのはどうかと思いますが」
「だから僕は反省したんだよ、これでもね」





言いたいことは分かりました。と頷いた七海はカウンターから立ち上がる。いつの間にか置かれていた1人分にしては多すぎる会計に瞬きしたが、「捺さんに免じて」なんてカッコつけて俺たちの分まで払ってしまう後輩は何かとやっぱり損をする性格だと思う。何も知らずに崩れている捺をそっと抱き上げた俺に掛かる重さは少しもその足取りを邪魔するものではない。術式なんて使わなくても簡単に持ち上げられしまう体をしみじみと見つめているのに気付いた七海は、今日は五条さんが運ぶんですね、と揶揄いにも似た台詞を口にしたので生意気だな、と肩をぶつけておく。そんなやり取りの最中でも、自分の腕に抱かれて眠る彼女の顔には穏やかな色が滲んでいて、そっと俺も口元を緩めた。今夜の月明かりに照らされる捺は、とても綺麗に見えた。





彼女を知った日



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