彼を優しくないと言葉のままに感じたことはあまり無い。……かと言って、誰もに分かりやすく優しい人、という訳ではなかったし、正直、今でもあまり今の彼と昔の彼が結びつかないことがたくさんある。それがほんの少しだけ変化したのはやっぱり、昨日と今日の出来事が大きい。私がこうして、彼を手放しに優しいと感じたのは多分、初めてだった。







最初は、騙されたと思った。私は彼を素直に心配していたからその分拍子抜けしてしまったし、呆れなかったかと言われると嘘になる。でも彼が私に対して何かしらの"想い"を抱えることは痛いくらいに伝わった。真剣に、少しだけ悲しそうに私を見下ろすその視線が鮮明に思い出せる。どんな暗い夜でも輝きを失わない青に私の考えは奪われてしまった。彼は私に、消化しきれない何かを抱いている。それはあの一瞬で全てを察するには莫大過ぎるものだと感じた。そっと差し出された手と切ない表情。どうしても私に手を取って欲しいと願うような瞳。そして、それを叶えたいと思う私。ほとんど衝動的に重ねた掌に、自分から出したのにとても驚いた顔をした彼も、それからひどく嬉しそうに笑った彼も、そのどちらもが新鮮だった。

ニコニコと機嫌よく部屋を説明する姿も、私に快く服を貸してくれる姿も、それを着た私に可愛いとしみじみ呟く姿も、私は知らない。こんな顔をするんだなぁ、とぼんやり俯瞰しながら五条くんに背中を向けて程よい硬さのベッドに転がった時でさえも、彼の視線から伝わってくる感情はひどく柔らかいものだった。





目を覚ました時、隣に五条くんはいなかった。それになんとなく、少しだけ寂しさを感じつつ、そっと扉を開けると居なかった彼が丁度テーブルにお皿を置こうとする所だった。少し開いたカーテンから見える、街を一望できる景色と、普段より近い空から注がれる太陽の光に色素の薄い彼が溶けそうなくらい綺麗で、私はすぐに声が掛けられなかった。ふ、と顔を持ち上げた彼が「あ、」と目元を緩める。何か考えるみたいな真面目な顔がふわりと破顔して、おはよう、と穏やかな声で挨拶してきた彼にぎこちなく同じ言葉を返した。とく、とく、と少しだけ早くなる鼓動を感じつつ、紳士的に椅子を引いてくれた彼に甘えるように座り心地の良いそこに腰掛けた。隣に立つ五条くんが持ち上げた銀のカバーの中から現れたのは、ついさっきの彼みたいに真っ白で可愛らしく見栄えのいいパンケーキだった。手作りした、と答える彼に思い出すのは起きた時に一人分空いていた隣のスペース。わざわざ早く起きてまでこんなに豪華なものを作るなんて、と、驚いたけれど、お店で見るようなキラキラ輝いたそれに感動してはしゃいでしまった。広がる甘さを噛み締めつつ、いつの間にか私の正面に腰掛けていた彼に不意に目を向ける。五条くんはテーブルに肘をつきながら、このパンケーキと同じくらいか、それより甘く蕩けた目で私を見ていた。それがどうにも擽ったくて、すぐに視線をまたケーキに落としてしまったのは記憶に新しい。






……それだけなら、私は多分、そこで思考することをやめていたと思う。私がこの時、特に印象的だったのはその後すぐの出来事だ。作って貰うばかりでは悪いと感じ、せめて洗い物でもしようと立ち上がった時、フライパンの隣に置かれたお皿とそこに乗った家庭的なパンケーキにあれ?と零すと、途中まで穏やかにしていた彼が突然物凄い勢いで目の前に現れたのだ。思わず瞬きした私に、非常に焦った様子の五条くんは何かを誤魔化したいのか凄く歯切れが悪くて、流石に私も気になった。

さっき見えたのはこんがり焼けたパンケーキ……のようなもの。彼はその途端に私の所まで走ってきた。まるで何かを"隠す"みたいに。それは何か悪い事をした時、母親の目を盗んで隠蔽しようとする子供みたいにも見え、そこまで考えてふ、と一つの可能性に思い当たる。まさか、と思いながら「さっきので何枚目?」と確信めいた質問をすれば五条くんはもっと、ぎくり、とした表情を浮かべた。分かりやすいくらいのその顔に私は全てを悟る。彼が"わざわざ"早起きした理由はこれだったんだ。もう誤魔化し切れない、と、白状した彼の酷くバツ悪そうなそれにとは裏腹に、私の胸にはどんどん温かいものが広がっていく。五条くんにも、こんな風に失敗して、試行錯誤する事があるなんて、と思い、そこで気付いた。彼は、昔からそうだったではないか。





忘れていた。彼の強さが当たり前になった今、彼と過ごした日々を私は忘れてしまっていた。彼は確かに昔から強かったけれど、その強さの為には研究を惜しまない人でもあった。……私が彼に冷たく当たられても彼を嫌いだと思えなかった一番の理由。彼の強さは決して理不尽ではない。確かに元々の生まれ持ったセンスは誰しも存在する。でも、それを活かすか殺すかは自分次第なのだ。五条くんは、五条悟は、その為の努力を怠らない人だったではないか。無下限呪術だってそうだ。あそこまで正確なコントロールが出来るようになったのはまぐれでも奇跡でもない。確かに彼が練習し、試行錯誤して手に入れたものだ。私は彼の、そういうところを尊敬していた。そういうところが、好きだった。……五条くんもまた、人間だ。そんな当たり前のことを、どうして失念していたのだろうか。私は知っているじゃないか、彼の親友が居なくなってから、彼が一層術式と呪力を洗練させる為に学び、訓練していたことを。たとえ一人でも、強さを諦めなかった事を。その力を、善いことに使おうとしていた事を。彼が、その時救えるものを簡単に見捨てられるような人ではない事を、知っていた。


五条くんは昔から意地悪だったし、キツく当られたこともある。それで私が傷付いたり、苦しく思ったことも、ある。彼の歯に絹着せない物言いには中々慣れなかったし、ほんの少しだけ、怖く感じたこともあった。……それでも、彼はずっと曲がらなかった。彼が強さを奮うのは自分の為だけではない。守るべきものを守る為に、強くなれる人だったじゃないか。彼は優しくはなかったけれど、かと言って私を蔑ろにしていた訳ではない。多分、3人の中で誰よりも、私の"強くなりたい想い"を大切にしてくれていた。少しも手を抜かない叩きのめすような訓練が私の為だと分かっていた。……ただ、それを素直に伝えてくれるような人ではなかったけれど。


彼と再会してからずっとぼやけていた輪郭が、少しだけ鮮明になった気がする。合わなかったピントの焦点が少しだけ真ん中へと収束した、そんな感覚。





「カッコ悪く、ない?」





ぽつり、と彼が独り言みたいに呟いた。眉を少し下げた迷子みたいな表情の五条くんを見つめてから、ゆっくり目を閉じる。思い返すのは彼との思い出。そのどれもで、彼は眩しいくらいの輝きで満ちていた。私は彼と出会ってから今日この日まで、彼にずっと憧れていた。少し不器用なところもあるけれど、間違っても、一度も"カッコ悪い"なんて思った事はない。




「かっこいいよ」




私の素直な気持ちを出来るだけそのまま伝えると、五条くんはただでさえぱっちりと大きな目を更に大きくさせて、……そっか、と小さな声を咀嚼するように落としてから、顔を手で覆いそのまま「……なんでもねーよ」と上を向いてしまった。呼び掛けても返事がない彼から、もう一度、曰く、失敗作らしいパンケーキの方へと目を向ける。口に入れたときの味は確かに最初に食べたものとは随分違っていたけれど、柔らかく込められるみたいな甘さが、彼の本来の優しさを表しているみたいで……やっぱり私は、こっちの味も嫌いじゃなかった。








「あれ?五条先生と……捺さん?」






その後、二人で残りのパンケーキをどうにか平らげて、彼と一緒に高専に向かった。流石にお腹に溜まりすぎて少し苦しいけれど残すのはどうにも気が引けたし、何より五条くんはかなりの甘党だったので生クリームをたっぷり付けながらペロリと食べ切っていたので助かった。もう一度美味しかった、と伝えると彼はうん、頷いて笑う。その顔が大分穏やかなのに私も安心した息を吐き出す。……良かった、ちゃんと伝わったらしい。

食べ終わった後は時計を気にしながら昨日着ていたスーツに着替えて、仕事に向かう準備をした。いつのまにか綺麗にアイロンされたシャツを見て彼に何度目かわからない感謝をして、慌てて玄関へと走る。本当は私が先に出てバスに乗ろうかとも思ったんだけど、ひょこりとキッチンから顔を出した五条くんが「タクシー相乗りしよ?」と凄く魅力的な提案をしてくれたのでつい、それに甘えてしまった。昨日ここに来たときとは違い、山奥にまで連れてこられて不満そうな運転手の業務的な言葉に心の中で謝罪しつつ、高専の門を潜った。今日は一応送迎の予定は無く、高専での事務作業が中心であった為、彼と廊下を並んで歩いていると、奥から野薔薇ちゃんがこちらに向かってくるのが分かった。おはよう、と挨拶すると戸惑いつつも同じように返してくれた彼女は不審そうな……何かを探るような目で私達を見つめている。明らかに"そういうこと"を勘ぐるような視線に苦笑いしつつ、五条くんを見上げて「ありがとう、お仕事頑張ってね」と伝えると目元を覆っている彼はニンマリ、と口角を持ち上げて勿論、と頷いた。





「……あ、そうだ捺」
「ん?」
「昨日貸した僕の服、返すのいつでもいいから」
「あ、うん!ありがとう……私もそろそろ行くね」
「いーえ?捺も頑張ってね」






ひらひら、と手首を返した彼に私も小さく手を振って早足で事務室へと向かう。伊地知くんが前の担当だから多少遅れても怒られはしないだろうけど、遅刻するのはやっぱり申し訳ない。今急げば間に合うはずだ、と始業時間に迫られながら途中で立ち止まったままの野薔薇ちゃんにも頑張って、を伝えてから私はその場を後にした。……そうしてすれ違った野薔薇ちゃんがものすごい顔で私を見ていたことに、仕事で頭がいっぱいだった私は気付きもしなかった。














「昨日貸した僕の服、返すのいつでもいいから」






五条先生と捺さんが教室の前の廊下を歩いているのは結構珍しいな、なんて思っていたのも束の間、先生が口にした言葉に目を見開いた。いや、服って、え??混乱する私とは反対に捺さんはごく自然とお礼を言ってから爽やかにその場を立ち去って行ったけど、いや、おかしいでしょ。なんで先生の服を借りるようなことが……?そんな思いが顔に出ていたのか「どうしたの野薔薇そんな顔して」とニヤニヤと嫌らしい顔で笑うコイツに何だか無性に腹が立った。つーかその顔にあの台詞……まさか、と思い当たるのは一つしかない。一緒に高専まで来たのもやっぱ"そういうこと"なのか!?暫く悶々と考えたけれど、このままだと授業どころではない、と先生に詰め寄って、私は思い切り小指を突きつけた。





「……先生!先生と捺さんって、コレなの!?」
「…………ご名答〜!!!」
「やっぱり!?」
「って言いたいけど違うよ」
「違うんかい!!」





はぁ、はぁ、と洗い息が溢れた。めちゃくちゃな勢いで突っ込んじゃったんだけど……ジトリ、と恨みを込めた目を向けると先生はケラケラと喉を鳴らして笑う。違う違う、と顔の前で手を振ってオーバーな手振りで否定するのもなんか腹立つ!紛らわしいこと言わないでよ、と愚痴る私に「ついね」と答えたのを見る限り確信犯らしい。あぁ捺さんはこんな面倒な人に付き纏われてホント可哀想っていうか……伏黒があんな顔するのも頷ける。授業前から無駄に疲れたわ……と、トボトボ扉を開けると、不意に五条先生が私の名前を呼んだ。はぁ?と振り返った私に、さっきまでと大して変わらないニヤケ面で先生は体を屈めて私と目線を合わせると、






「でも、いつかそうするつもり」





……なんて、ハートマークでも語尾に付けたような口調で言ってのけたので思わず絶句した。やっぱりこの人色々規格外すぎるっていうか……捺さん、間違ってもこんなヤツ選ぶなよ……と寧ろ彼女の身を案じたけれど、ならばさっきの服のやり取りは何だ?とそこまで気付いて考えるのをやめた。嫌だ。もしかしたらもう手遅れかもしれないなんて……朝から最悪だな、なんて思いながら、渋々と古臭い木製の椅子にどかりと腰掛ける。既に教室に居た伏黒が私の態度に訝しそうな視線を向けてきたので、腹いせに軽く彼の座っている机を爪先で蹴ったら、普通に何やってんだって怒られた。ウザイ。でも、それ見てめちゃくちゃ楽しそうにしてる先生はもっとウザかった。……あーあ、聞くんじゃなかった。








そうだった



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