「ありがとうございました、是非またウチのタクシーを宜しくお願い致します」
妙に恭しいタクシー運転手の挨拶に曖昧な笑顔を返した。でも、その気持ちはよく分かる。五条くんが伝えた住所に聳え立つのは信じられないくらい立派で豪華なマンションだ。東京の一等地に堂々と根を下ろしているその建物を見上げると思わず目眩がして、彼を支える腕の力が抜けそうになるのをどうにか堪えつつゆっくりと深呼吸した。五条くんが私なんかと違う世界に住んでいることなんて分かりきっていた筈だ。いたはず、だけど、流石にこれは尻込みせざるを得ない、というか……マンションというよりホテルみたいだなぁ、と庶民的な感想ばかり浮かんでくる。正直今からでもここに入るのをやめたいくらいの気持ちだけど、彼をここで放置するわけにもいかない。タクシーの運転手さんにあんなに丁寧な対応されたのなんて初めてだよ、と内心愚痴りながら気分を持ち上げ、エントランスへと向かった。
素敵な笑顔を見せてくれたコンシェルジュさんにおどおどと挨拶をしながら逃げるように爛々としたエレベーターへと乗り込んだ。まさかマンションにコンシェルジュさんが居るなんて……常駐の方なのだろうか。やっぱり高級マンションは凄まじい……と肩を落としている間にチン、と品のある落ち着いたベルが鳴る。あれ、私ボタンを押したっけ?と戸惑いつつ開いた扉の先には誰もいない。どうすればいいだろう、そもそも何階が五条くんの部屋なんだろう、と一歩踏み出せずに居たけれど、ぐ、と前に掛かった体重と隣に伸びた長い脚に引き摺られるように私の足も前へと進む。思わず顔を上げると、五条くんは相変わらず肩に顔を埋めていて表情は窺えなかった。けれど、その足取りには迷いがない。大丈夫そうかな……?と見守りながら一緒に歩いて数秒。クリーム色の照明に照らされた壁が続く中、一つの扉の前で立ち止まった彼はだらんと垂らしていた腕を自身のジャケットのポケットに押し込んでカードキーを取り出すとドアの側に押し当て、その後も何やら幾つかの私が見たことがない操作を慣れた手つきでこなし、ドアのノブに手を掛けた。開いた奥からひやりとした空気が廊下へと流れてくるのを感じて外で感じた蒸し暑さが剥がれ落ちていくのを感じる。お邪魔します……と誰にというわけもなく呟きながら靴を脱いでおずおずと上がったフローリングはとても歩き心地が良かった。
ゆっくりと灯っていくフロアランプに照らされていくリビングはまるでモデルルームのように整理されている。ダークウッドで作られた家具や見るだけでも座り心地が良さそうなソファ、信じられないくらい大きく薄型なテレビ……とブラックやブラウンで統一された、とてもモダンで落ち着いた雰囲気の"広々"とした空間に思わず呆然と立ち尽くしてしまった。一人で暮らすには広過ぎる、マンションの一室とは思えないほどゆとりのあるスペースに予想はしていたけれどやっぱり圧倒される。清潔そうなキッチンにはカウンターテーブル付属しており、明らかに高額そうなワインボトルが幾つも並んでいた。流石五条くん……と一人納得し頷きながら、まずは手を洗おう、と洗面所を求めて彷徨ったけれど、それを見付けるのも苦労するくらいに広く、大変時間がかかってしまった。その洗面所も信じられないくらい綺麗でリッチな作りになっていたし、ちらりと見えた浴室にはジャグジーだとか色々なスイッチが付いているのが分かった。下手に触って何か壊してしまったら……と考えるだけでも怖くなって、もう早く彼を寝かせて帰ろう、と誓いながら更に彷徨い、やっと見つけた寝室には一人で寝るには大きなサイズのベッドがどっしりと横たわっている。
やっぱり五条くんほどのイケメンにもなるとベッドは大きい方がいいのかな、なんて少し下世話な想像をしつつも、堂々と真ん中に置かれた一つの枕に少し笑う。こういうところはなんだか彼らしい。広くて大きな海外サイズのベッドだけども、あの身長ならこれくらいの方がいいのかな、なんて思いつつ「ベッド着いたよ」とそっと耳元に声をかける。ぴく、と少し体を揺らして、ゆっくりと顔を持ち上げた彼はそのままふらふらとベッドに近付き、柔らかそうなマットレスに倒れ込んだ。……私の左手首をしっかりと握り締めながら。
「な、」
一言。言葉にならない声を上げて倒れていく体をなんとかしようと動かした右腕は虚しく空を切る。スプリングが効いたベッドがほんの少しだけ軋んで、ぼよん、と跳ねた体はすぐに引き寄せられてガッチリと強く固定された。理解が追いつかない中、鼻腔を擽る自分以外の人間の香りにどんどん筋肉が固まっていくのが分かった。黒でいっぱいになった視界から、はっ、と反射的に顔を上げて見えたのは備え付けられたランプのせいで影になっているのに、それでも確かに輝いて見えるそらみたいな青い瞳。
「だめだよ、男をこんな簡単に信用しちゃ」
にやりと歪められた形の良い唇に呼吸が止まりそうだった。彼は、起きていた。さっきまでの眠そうに閉じられた目蓋も蕩けそうな声もそこに全く存在しない。しっかりと私を捕らえて離さない視線と背中に回された腕に体の自由が奪われてしまったかのような錯覚に陥る。ごじょう、くん、と呼んだ名前が震えた。怯えからか、驚きからか、自分でも定かではない。ただ事実として、私の心臓はさっきから飛び出そうなくらいのスピードで鼓動し、涼しくて寒いくらいの冷房が効いている部屋なのにドッと嫌な汗が噴き出していた。彼の体から香るのは部屋全体に漂う彼自身の匂いと品のある香水だけで、アルコール特有のツンとした刺激臭はなかった。どうして気付かなかったのだろう、そんな私の表情を見た五条くんは「悠仁と二人の予定だったのに買っていかないでしょ?」と口先だけでふふ、と笑った。
「……さっきカウンターにあったのは?」
「今日持って行ったのと同じ葡萄ジュース。濃厚で美味しいんだよね」
今度捺にも飲ませてあげるよ、と楽しそうな彼は全く悪びれる様子なく私の反応を楽しんでいる。……違和感はあったけれど、やっぱり彼は未成年の彼の前でお酒を飲むような人では無く、ただ私を揶揄いたかっただけらしい。最近よく仕事終わり五条くんに誘われてご飯を食べに行くことが多いけれど、その時も彼は滅多にお酒を飲まなかった。強くない、と自称していたし、大体、私のを奪う形でほんの少しだけしか飲まなくても彼は「愛してる」とか「好き」を私に何度も何度も機嫌良く伝えてくる。受け流しても折れずに続けるその行為は最初は恥ずかしかったけれど次第とこちらも慣れ始めていた。だから今日もそんな振る舞いをしているのを見て、自然と、またいつものだ、と勘違いしていた。確かに普段よりスキンシップも酷かったし、こんなに下戸なんて知らなかったとは思ってたけど……思い返せば可笑しな所は沢山あった。確かに五条くんほどの体格差のある相手を私が一人でここまで運ぶのは無理がある。ホテルについてからのロックの解除やエレベーターでの行動、コンシェルジュさんへの態度など妙に冷静な行動も多かった。私がこんなマンションの勝手を知らないことは彼だって分かっていたんだろう。そこは上手くフォローして遊んでいた、という事なのだろうか。……なんにせよ、私はすっかり騙されてしまった。あぁ、びっくりした……昔からそうだけど、五条くんはホントこういう事には手を抜かないというか……悪戯にしては手が込みすぎている。
「……五条くん、こういうところ変わんないね」
「……そう?寧ろ変わったトコだと僕は思ってたけど」
「悪戯好きっていうか、意地悪っていうか……ほら、もう十分びっくりしたから、ね?」
「え?」
「へ?」
きょとん、とした顔の五条くんが数回瞬きする。つられて私もパチパチと目蓋を瞬かせて抜けた声を漏らす。彼は相変わらず不思議そうな表情を浮かべていたけれど、一瞬、何かに気付いたように口を少しだけ開き目を丸くして、徐々に眉を眉間に寄せ始める。あんなに楽しそうだったのは何処へやら、明らかに不機嫌そうな顔で五条くんは「……お前、分かってないの?」と私に問いかけた。"分かってないの?"その言葉が頭の中で反復してぐるりと回る。それに対する私の返事は「な、何が?」と非常に情けないもので、更に彼は険しい顔をした。
「俺が本気で、お前のこと……ただの同級生だと思ってる、って?」
私と向かい合っていた五条くんは一度自身を起き上がらせてから、彼のベッドになす術なく転がされたままの私に覆い被さり、そう言った。ベッドサイドの電気が彼の大きな体に遮られて何も見えなくなり、五条くんでいっぱいになる。白い髪が背後からの明かりに輝いて、いつの間にか外れていた目隠しの下から現れた瞳が真っ直ぐに私を見ている。ぞわりと背中に"なにか"が駆け巡った。分からない、彼の真意も何もかも。……もしくは、解りたくなかったのかもしれない。彼の名前を呼ぼうとして動かした腕がすぐに一まとめにされて枕に縫い付けられた。五条くんの、男の人の力で押さえられた私は少しも動けなくて、本能が逃げろと警笛を鳴らしているのに、それに従う自由さえも奪われてしまっていた。彼の体が檻のように私の体拘束し、ぐ、と整った顔が近付いていく。熱い息が首元に掛かって無意識に肩を震わせて思わず、少し首を横に向けながらキツく目を閉じた。わからない、こわい、いまの貴方を、わたしはなにも、しらない。
「…………なぁんて、な!」
ぱ、っと両手を開いた彼はその言葉と共に私の全てを解放し、大きく身を引いた。今にも全てが触れてしまうのではないかという距離にあった彼の体は急速に私から離れていき、妙に真剣だったその表情は一瞬で柔和な笑みに変わる。つい、え……?と戸惑うような声を発した私に五条くんは「お前を怖がらせたい訳じゃねーし」とその綺麗な髪をとても雑にかき毟ってしまう。重苦しい空気に包まれていた寝室は彼のたった一言に換気されていくようで、ふ、と胸の上に乗っていた重りが無くなったような錯覚を覚えた。
「でも、僕がこう思ってること、覚えとけよ」
ぐ、と圧が上からかけられるような強い口調にまた私は体を硬くする。バクバク、と煩い鼓動に気付いているのかどうなのか、五条くんはすぐにニコニコと私に笑い掛け、お詫びに改めて部屋案内するから、と掌を差し出した。思わず少し警戒しながらじっと見つめても、それはただの大きな手だった。これではきっと、つい数秒みたいに私の手首を掴むのは簡単なことだったんだろうな、と何処か俯瞰した気分になったが「捺、」と不意に名前を呼んだ彼に、ほぼ反射的に目を向けて、軽く息を呑む。
五条くんは、なんで、そんなに辛そうな顔をしているんだろう。ゆらりと左右に揺れた不安定な瞳で悲しそうに見つめてくる彼に、いつの間にか私は自分の手を重ねていた。それに目を大きく開いてからすぐに、でもそっと、まるでお姫様の手を取ったみたいに私の手を丁寧に握ると、ありがとう、と彼は絹のように柔らかな声で呟いた。さあ行こうか!なんて、くるり、とすぐに明るい調子で宣言する彼はやっぱり分からない。さっきのもしかしたら演技だったのかもしれない。でも、一瞬見せた切なそうな、懇願するような顔が……それを受け入れたときの嬉しそうな顔が、どうにも嘘には見えない、と思ってしまうのは、甘すぎる考えなのだろうか。未だ覚めきらない頭と体全体の火照りが、効きすぎているくらいの彼の家のクーラーで少しずつ冷たくなっていくのを感じながら私は、ここに来た時とは正反対に、五条くんが私の腕をワイワイと引いていくのに自然と身を委ねていた。