後ろに用心






異国の地で一人ぼっち。唯一持って来た財布も何処かに行ってしまったし、あぁ、もうほんといやになる。自分探しと銘打って飛び出してしまったけれど大したプランも無ければしたいことも無い私にとって、海外旅行はハードルが高すぎた。ただ現実が嫌になって、何もかもからから逃げたくて、日本から出れば何か掴めると思っていたのに、そういうのは全部幻だったみたいだ。もしくは、元々才能ある人がやっと開花した自伝が世に広まっただけかもしれない。

深いため息。お金も無くてどうやってここから帰るべきかも分からない。街を練り歩く気力さえも湧かない体の怠さと足取りの重さが余計にマイナスな思考を助長する。もういっそここで生涯を閉じてしまうべきなのだろうか、なんて、見晴らしのいい小高い丘へと進むうちに何故だか体の力が抜けていくのを感じる。不思議なものだ。さっきまであんなに苦しかったのに、死に近づくにつれて胸につかえていたものが取り除かれたような開放感に襲われた。これが正解なのかもしれない。もう、全てを投げ出してしまうのが私にとって一番"楽"になれる方法なのかもしれない。







土地勘なんて無いし、地図だって読めない癖に、たどり着いたその場所はポッカリと大きな穴を地面に開けていた。まるで何かに導かれているかの如く、一応張られていた筈の黄色と黒の危険を示すロープは真ん中のあたりで断ち切られていた。ほんの少しだけ背伸びをすれば穴の中を覗き込むことができたが、真っ暗で底が見えない。こんなに雄大で恐ろしい地割れなんだ、何かの文化遺産かもしれないけれど学もない私にとっては都合の良い場所でしか無かった。恐怖はない。私はただ、底に行くだけなのだから。

一歩。確かに踏み出した。もうこの時には怠さなんて消えていた。二歩。ロープを超えて両足を揃える。寧ろ高揚感すら覚える。三歩。ついに崖からつま先が飛び出た。今強い風が吹けば私はこのまま落ちていく。 四歩。あぁあと少し、あと少しで私もあなたと一つに……、





「タチが悪いな」





不意に聞こえたその声は、私の頭の奥にひどく鮮明に届いた。ぐ、と掴まれた腕を辿るように視線を向けると、そこには黒髪の青年……いや、少年が立っていた。大人と呼ぶには早く、子供と呼ぶには達観しているようなその空気感に一目で心が震える。中央で分かれた前髪は風揺られて柔らかく靡き、真っ黒で玉のような瞳が私を離そうとしない。黒が印象的な彼だが、服は白く清純そうなイメージを与える。そのアンバランスな様子がまた一風変わった雰囲気を漂わせていた。ただ呆然と彼を見つめることしかできない私にそのまま鋭い目を向けた少年は、突然、ふ、と崩れた笑みを浮かべる。無邪気であどけないその笑顔と共に伝えられた「大丈夫ですよ」という言葉が身体中に染み渡っていくのを感じて、途端にがくん、と膝の力が抜けた。何が起きたのかはさっぱり分からないが、彼の大丈夫、と、言う声はなんだか信頼出来るような気がした。彼とは今初めて出会ったし、なぜ信頼出来るのか、そこに理由はない。けれども、私の人間的な直感がそう告げている。彼は、安心できる人だ。




少し触りますね、と丁寧な声かけの後に彼の手が私の背中へと伸びる。上から下に、何かを流すような動きで彼の腕が往復するたびに不思議と凝って重かった肩が軽くなっていくのを感じた。満足そうに頷いた彼はもう動いてもいいですよ、と私の体動を許可したが、こちらとしては流れるように起こった事象の全てが不思議で仕方がない。腕を何度か回しても骨すら鳴らない健康体になった自分が信じられなかった。ほんの数分前までは歩くのさえ億劫だったのに、本当に一体何が起こったのだろう。暫く黙り込んで掌を開いたり閉じたりするのを繰り返したけれど、どうしても気になって、彼を見上げるように顔を持ち上げた。




「……魔法使いなんですか?」
「へ?」




私の言葉を聞き、明らかにきょとん、とした表情と気の抜けた声を発した彼にすぐに悟る。あ、多分これ違うな、そう思ったのも束の間、ぷ、と思わず吹き出した彼は口元に手を当てながらくすくすと上品に笑った。少年は未だ溢れている笑顔を隠そうとしないまま「確かに似てるけど、違います」と私の疑問に真摯に答えてくれたけど、いや、恥ずかしい。普通に。何をファンタジーなことを言ってしまったんだろう、私。ていうか似てるんだ……と、微妙な感情に苛まれている間に目の前に伸びた彼の男の子らしい手を見つめる。どうぞ、と一言の促しと共に柔らかく微笑むその姿はなんだか眩しくて、照れ臭い気持ちを抱えながら素直に引き上げられつつ目を逸らしながら感謝の言葉を口にした。


構わないですよ、と笑った彼は先程までとはオーラが違う気がする。なんというかもう少し刺々しいというか、大きいというか……そういう雰囲気を漂わせていたはずなのに、今はどう見ても私より年下の男の子にしか見えないのだから驚きだ。彼は乙骨憂太くん、と言って、この国には修行に来ているらしい。なんの?と聞きたい気持ちもあったけれど、なんだかあまり深く触れてはいけないような気がしたので黙っておいた。見た目通り彼もまた日本人らしく、私のここまでの経緯を話すと酷く同情されてしまった。どうにかしようと悩んでくれる彼は本当に本当に、私が会いたかった日本人の姿であり情けなく涙が出そうになった。そしたらそれはそれで慌ててハンカチを差し出してくれたあたり乙骨くんは本当に優しい。修行を付けてくれている人に話してみるよ、とまで言ってくれた彼に何度も断ろうとしたけれど、オニキスみたいな瞳に見つめられると、どうにも弱くて結局は甘えてしまうことになった。




「…………めちゃくちゃ深いねここ……」
「そうですね、落ちたら間違いなく死んでしまいそうだ」
「なんで、ここに来ちゃったんだろう」




申し訳なさから逸らした視線が捉えたそこはやっぱり底が見えないくらいに真っ暗だ。今ではこうして見るだけでも体が動かなくなるくらい恐ろしいと感じるのに、どうしてさっきまでは何も感じなかったんだろうか。乙骨くんはそんな私をじっと見つめてから小さく笑みを作るとぎゅ、と私の手を握る。驚いたけれど、そうされてやっと自分の手が細かく震えていたことに気付いた私はほぼ無意識に彼を見つめた。相変わらず乙骨くんは名状し難い不思議なオーラを纏いながら静かにこちらを見据え、それでいて穏やかな声で言った。






「悪いものにでも憑かれてたんですよ、きっと」






その非現実的な言葉には説得力があった。何の根拠もない筈なのに、彼が言うとそうなのかもしれないと思わせる力がある。乙骨くんはやっぱり不思議で変わった男の子だ。そっか、と呟いた私に頷いた彼は、ハッ、と我に帰ると慌てて私の手を離して頬を染め「すみません……」と申し訳なさそうな照れまじりの笑顔で笑う。あ、可愛い、と自然とトクン、と動いた胸を咄嗟に押さえる。あれ、これはもしかして?じわじわと上がっていく熱と心拍、忘れていた感情。年下の男の子にこんな気持ちにさせられるなんて芯まであつくて、そして…………異様に冷たく、首元に何かが固いものが絡み、巻きつくような、感触。




思わず振り返ったが、そこには何も居ない。閑夜さん?と乙骨くんが私の名前を呼んだけれど、急な胸騒ぎに襲われてすぐに反応出来なかった。遠くの方で木々のざわめきが聞こえる。……あぁ、気のせいか。ごめん、なに?と聞き返した私の直感が外れていなかったと彼本人から知らされるのは約1週間後の話なのだけれども、この時の私には知る由も無かった。







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