アホヅラ




すっかり軽くなった財布の重さをポケットに感じながらこじんまりとしたアパートの階段を登る。前は建て付けが死ぬほど悪くて一段ごとに女の叫び声みたいな音が鳴っていたが、今はリフォームされたのかペンキも塗り直され、ただアルミ特有の足音が響くだけだった。廊下の突き当たりまで歩を進め、インターフォンを押そうと腕を上げたが、ふ、と、思い立ったように外壁の外へ体を乗り出す。物干し竿が掛けられたベランダには何枚かのシンプルな茶色と白のタオルだけが干されており、衣類に当たるものは一つも存在しない。アイツ、ちゃんと言い付け守ってるじゃねぇか。と若干上がった気分のまま、今度こそ迷いなくボタンを押した。




「はい、」
「俺だ」
「…………甚爾、くん?」




モニター越しに彼女の分かりやすく驚いたような声がして、すぐに切れた通信と部屋の中から微かに聞こえる物音を感じながらも目を閉じて彼女を待つ。前に来た時は夏の暑さが残るようなジメジメした季節だったっけ。今ではすっかり肌に感じるのは冷たい風ばかりになり、街にはクリスマスを思わせるイルミネーションが飾られ始めている。随分久しぶりだな、と記憶の中の彼女の顔を思い浮かべて、ほぼ同じタイミングで開いた扉の前に立つ捺本人とを見比べた。はぁ、はぁ、と少しだけ荒い呼吸をしながらも目を丸くして俺を見ている彼女の髪はあの時よりも随分さっぱりしていた。こんなに短くしているのは中学とかそこら以来な気がする。まぁ、詳しくは覚えてないんだが。

間抜けな顔で俺を見上げる彼女にぐい、と顔を寄せながら部屋の中に押し入るように身体を傾ける。すぐに後ろ手に扉と鍵を閉めて適当に靴を脱ぎながら「今日、泊まるからな」と告げれば捺は少しため息を吐きながらも甚爾くんが来るのはそういう用事しかないもん、と呟く。流石に良く分かっているな、とクツクツ喉を鳴らすと彼女は部屋に引っ込んでタンスを漁り出した。服どこに置いたかなぁ、と俺に向けた背中は小さく華奢であまりに無防備で、どうにも不思議な気分にさせられる。

別に、こいつも俺もいい歳だし幼馴染と言っても知らないことの方が多い。当たり前だ。漫画とかドラマで見るみたいな運命共同体の関係なんて、現実ではありはしない。俺たちも例外ではなかった。彼女は別に由緒ある家系というわけでもない、本当にただ家が近かった同い年の、女。俺に呪力があれば付き合いなんて家に抹消されているであろう存在。皮肉なものだ、俺が禪院に認められなかったからこそ捺との関係が続いているんだから。……別に、だからどうって訳じゃないが。




「またお金スッちゃったの?」
「たまたまツキが無かったんだよ」
「それ前も言ってた」




くす、と笑いながら俺の分と自分の分、二つのカップを並べた彼女は変わらず律儀な性格である。そもそも俺みたいなのを簡単に家に入れる時点で些か不安にさせられるが、考え過ぎだろうか。コイツのぼんやりした危機感の無さにはいつも驚かされる。今日も結局上がり込めてるし。バカなやつだな、と思いつつ、それでも、捺が淹れるコーヒーはいつ飲んでも格別だから下手なことは言えない。これが飲めないんじゃ話にならねぇし。鼻に抜ける心地良いコーヒー豆の匂いに身を委ねながらじっくりと部屋の中に視線を巡らせる。相変わらずスッキリした内装だこと、と文句にも満たない感情で皿の数やカップの個数、立て掛けている写真立て……そして、前に家に行った時に"部屋に干すように"と指摘した洗濯物。何もかも以前と変わらないその姿は妙な安心感がある。そもそも平然と下着を干しているのを見るに、男が来る予定なんて無いことがハッキリと伝わってきた。


甘美な理由があるわけじゃ無い。コイツに男が居たら押しかけるのは面倒なことになりかねないからパスしなきゃならなくなる。ただそれだけ。でも俺にとっちゃ死活問題だし、実際この前の女は彼氏がいるのを黙って堂々と二股決め込んでたし、俺は住めて飯があれば何でもいいが、相手に変に逆上されるのは面倒なことこの上無いのでもう勘弁したい。負けるなんてことはあり得ないが、口止めするのがとにかく怠い。殺してもいいんだろうが、相手は普通の一般人。変に警察に目を付けられても動きづれぇし取り敢えず"穏便"な対応をした。出るとこ出るなら俺も容赦しない、ってホント単純な誓いで黙ってくれるなら助かるからイイだろ、なぁ。


「捺、」
「ん?」
「お前、男いんの?」


分かり切った質問だった。この状態を見るに彼女に今彼氏と呼べる存在がいないことなんて俺には明白だったし、もし居たとしてもこうやって家に置いている時点で今俺に不利益を招く可能性は低い。態々聞く意味もない問いかけ。それでも一応を枕詞に尋ねると彼女は何度か瞬きをしてから笑った。




「いる、」
「………は?」
「って、言っても聞かないんでしょ甚爾くんは」




一瞬の、不和。自分の体温が氷点下に落ちたかと思えば早くなった鼓動が少しずつ正常値へと戻っていく。眉を下げて仕方なさそうに笑う彼女はいつもと何も変わらない。「いる」そのたった2文字に歯車が噛み合わなくなったような感覚を覚えたのは何故なのか。ひどく落ち着かない。無意識に足を揺らしてしまうのは苛立ちのせいだろうか、分からない。そんな俺に気付きもしないで立ち上がり、ご飯作るね、とキッチンに歩いていく捺の背中を見送る自分が、確かにいつもと違うことは明白だ。どうしてこんなに動揺している?別にどうでもいい筈だろ、たとえ男が居ても、なんでも、泊まる場所と飯があればいいんだろう。その筈なのに、どうして?ほぼ無意識に眉間にシワを寄せた俺なんて知らない彼女は黒いエプロンを付けて鍋を混ぜ始める。呑気な後ろ姿に揺れる膝が中々止まらない。あぁ、ムカつくな。



甚爾くん、なんて気の抜けた呼び方するのはお前だけだぞ、分かってんのか。なんであんな言い方したんだよ普段しねぇだろ。大体そんなエプロン知らねぇぞいつ買ったんだよ。様々な角度からの不平不満が湧き上がって止まらない。捺、と勢いのままに名前を呼んだが、振り返った彼女のん?と不思議そうに首を傾げたその仕草と口元についたシチューのクリームに、ふ、と毒気が削がれてしまった。なんでもねぇよ、と吐き捨てた俺が一番ダサい事ぐらい分かってはいたが、それ以外に適当な返答が思い付かなかった。彼女はパチと瞬きしてから……そう?とゆっくりまた鍋に体を向けた。捺が変に突っ込んでくるような性格じゃなくて救われたな、と思いながらも若干納得いかない気もする。ほんの3ヶ月ぐらい会わないことなんてよくあったのに、何がこんなに俺を苛立たせるのか。これ以上考えても答えが出そうになくて面倒になり、毛の長いカーペットに横になった。どうせ飯が出来たら起こされるだろう、と全てを彼女に放り投げて無理やり目を閉じる。微睡む意識の中で捺の「おやすみ」と柔らかい声が聞こえた気がした。




次に目覚めた時に目の前に広がった白くて暖かそうな湯気立つシチューと、その奥でおはよう、と座る彼女の姿にゲンキンにも高揚し、口に入れた瞬間の濃厚なホワイトソースにニヤけた俺も、大概の馬鹿なんだろうが、何処かに捨てたプライドみたいなモノが認めたくはないと煩く主張したので「まぁまぁだな」と可愛く無い感想を零した。捺はそれでも、そっかぁとだらし無く笑ったので露骨に舌打ちをしてやった。素直じゃないなんて、俺が一番分かってる。








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