首輪





「猪野くんって可愛いよね」






くるり、とティースプーンを回しながら自分より数年先輩に当たる術師は呟いた。幼い少女のように艶のある、それでいてガラス玉みたいに透き通った瞳を彼女はカップの中に落としている。伏目がちな瞼と長く下向きに流れた睫毛が小さく揺れて、夕陽に近い色をした液体に角砂糖を浮かべてただただ混ぜ続ける仕草がどうにも心地悪い。……そうですか、と端的に返事をした私に閑夜さんは喉の奥の方をクツクツと鳴らして、そうだよ、と笑った。






「あの七海くんに素直な感じとか犬みたいだよね」
「……否定はしませんが、それは貴女にもでしょう」
「そう?」





口角に浮かんだ微笑みをそのままに小首を傾げて見せる彼女のタチの悪さは折り紙付きだ。海外でも飛び回り続け、何処かを定位置としない閑夜さんは確かにオトナの女性、というものを体現したような容姿をしているが、実際はそんなに簡単な人ではない。それを知っているのは当時から付き合いのある人間くらいかもしれないが、今の彼女に弄ばれる後輩を見るのは正直言って楽しいものではなかった。別に自分が気にすることではないと理解しつつも思わず眉を顰め、口を挟みたくなるのはある種の情に近いかもしれない。閑夜さん、猪野くんは……と、そこまで言ったところでバン!と勢いよく扉が押し開かれた。一体何だと思わず顔を上げた私は、そこに立つ渦中の人物の姿に肩を落とす。……あぁ、最悪だ。






「七海サン!……と、閑夜さん!?」
「……猪野くん、ドアはもう少し静かに開けて下さい」





あ、すみません!そう言いつつ慌てた様子で閉めた扉がそれなりに大きな音を立てるのに深く息を吐く。……閉める時もですよ、とぼやいた言葉は彼の耳には届いていないようだ。パタパタとまさに彼女が言うように忠犬の如く閑夜さんに近づいた猪野くんはいらっしゃったんですね!とブンブン尻尾を振り回しているように見える。七海くんとお茶してたんだよ、そう言いつつカップの端持ち上げて唇に縁をつけるその仕草は悪態を吐きたくなるくらい優雅だ。それをぼんやりと惚けたように真っ直ぐ見つめた猪野くんはゴクリ、とあまりにも分かりやすく喉仏を動かして唾を飲み込んでいるが私としては彼の為にもどうにかして阻止したい。猪野くん、その人はやめておきなさい。他にも素敵な女性はきっと沢山いますよ。





「ん?」
「ッあ、いや……っていうか閑夜サン!こっち来る時は俺が案内するって言いましたよね!?」
「……あぁ、そんな話してたね」





酷いっすよ〜!と嘆きながら隣の席に腰掛けた猪野くんに閑夜さんはゆるりと細くした目を向けている。猪野くん、前に貴女があんなに熱望していたことが"そんな話"で片付けられている現実を見てください。この人は楽しんでいるだけですよ、と彼に憐れみの目を向けつつ自分の前に置いているコーヒーを一口含んで喉を潤す。ツンとした苦味と柔らかな香りが鼻孔をくすぐり、この光景への心労が少し和らいだ気がした。冷静ではなかった自身を律しながら改めて2人の関係を見つめ直す。男を騙しては手玉に取り操ることを楽しみとしている閑夜さんと、そんな彼女に騙されかけている哀れな野良犬の猪野くん。健気に懐き忠誠を誓う彼はこのままでは過去の数多き男の1人になるに違いない。





「ごめんね猪野くん、これで許してくれる?」
「え、なんっスかこれ?」





キョトン、とした彼が手にしたのは小さな箱。見ているだけの私すら嫌な予感がするそれを机に肘をついた彼女は開けてみて、と猪野くんに促す。言われるがままにそっと箱を開けた彼の手元から覗いたのはレザー素材で出来たチョーカー……だろうか。両端にはシルバーの金具が付いていて此処から外せるようだが何でこんなものを?困惑する私の視線を知ってか知らずか。閑夜さんはチラリと此方を見てからすぐに猪野くんの持つ箱からチョーカーを取り出すと「じっとしててね」そう言いながら彼の首元に腕を回した。正面からまるで、恋人に抱き付くような甘い抱擁にも似たそれは、明らかな手慣れ具合を見ても彼女の手口なのだろう。別に背中を向けて貰えばすぐに留められるはずなのに、彼女は敢えてこうする道を選んでいる。







「っ、ちょ、閑夜さん……!!」
「じっとしてて、って言ったでしょ?」






動いちゃダメ。もう一度、繰り返すように猪野くんの耳元で伝えられたその言葉に彼は燃えるように顔全体を赤く染める。今度こそ石のように固まってしまった彼に閑夜さんは酷く楽しそうに頬を緩めている。数秒の沈黙の後、出来たよと体を離した彼女の声に慌ててスマートフォンを開いて内カメラで自分の首元を確認した猪野くんは「これ、俺に?」と彼女に詰め寄り、閑夜さんは君によく似合うと思って、と百合の花が開いたみたいに綺麗に笑う。感動で震える猪野くんが私へと振り返り七海サン似合いますか!?と目を輝かせていたのを見て"名実共に犬になりましたね“とは言えず、取り敢えず肯定しておいた。まるで首輪だな、なんて思われてることなんて露知らず。彼は機嫌良さそうに跳ね回っていたが、突然、何か思い立ったように閑夜さんの側に膝をついて屈み込み、先程己の首に回されていた白く小さな手をそっと握った。





「俺マジで嬉しいです……!今から俺もなんか買って来るんでここで七海さんと待ってて貰っていいですか!?」
「え?」
「閑夜さん、首とか肩すっごい綺麗なんで絶対似合います!」
「ちょ、待って、猪野く……!!」
「いや、て言うかもう待ってて下さい!行ってきます!!」





七海さん閑夜さんをお願いします!そう叫びながらドアを思い切り開けて嵐のように去っていく彼は私の返事なんて気にも留めない。同じく残された彼女に視線を動かすと、彼女は珍しくポカンとした顔をして彼が去った方を見つめていた。そして、猪野くんに握られていた手に目線を下げると、何度かグー、パー、と握り直しては深く、そして熱っぽい息を吐き出している。彼女の耳は、赤い。……まさか、と一つの可能性が思い当たり閑夜さん?と恐る恐る声を掛けると、彼女は小説なんかでよく表現される絵に描いたような恋する乙女、といったじんわりと赤く潤んだ目で私に目を向ける。そこには私の知る現金な彼女は居ない。妖艶さのカケラも無ければ、学生みたいな初々しさを残す1人の女性がそこに座っていた。





「貴女が度々私のところに押しかけて来るのはそういう事ですか」
「……気づいちゃった?」
「ダシにするのはやめて下さい。というか、彼ならきっと素直に伝えれば何時でも会いに来てくれると思いますが」
「……だって、恥ずかしいもん」





絶句。今まで散々弄んでいた貴女がそれを言いますか、と恐怖すら感じる私に気付かない彼女は窓の外に顔を向けてじっと彼の帰りを待っている。人当たりのいい後輩の今後が心配で胃が痛むが、彼も彼で首が綺麗だなんだと走り去っていく辺り案外相性は悪くないのかもしれない。彼女が彼に首輪を贈ったように、あの調子だと猪野くんが買って来る物も首に付ける物なのだろう。お互いに縛り合うとでも言いたいのか、とそこまで考えてから何だか全てが面倒になってナプキンで口を軽く拭った。





「……目の前に本人が居るのに買いに行くのもどうかと思いますがね」
「可愛いでしょ?」
「どうせなら2人で行けばいいでしょう」
「そこも可愛いの!」
「……はぁ」








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