産声をあげる天満

「…………」

 大地に足をつけている感じ。
 きゅ、と瞼を閉ざしたまま、深く息を吸って吐くを繰り返す。耳に入る波のざわめきは以前来た時と何ら変わっていない。

 目を開けずとも理解してしまう。

 たぶん、目を開けて飛び込む風景はさっきまで同じ場所にいた人たちではなくて、どんよりとした曇り空に、神殿を中心としたひとつの都市みたいな場所だ。間違いない、この感覚はずっとずっと、物心ついた時から感じてきたものだから。

「……あれ」

 目を開けた。考えたとおり視界に収まったのは薄暗い世界。でも、何かが圧倒的に違う。いつも見てきた世界じゃ、ない?
 ……ううん。これは。

「うごけ、る?」

 そうだ。体が、動かせる。歩こうと思えば足を踏み出せるし、触れたければ指先を伸ばせば触れられる。視覚と聴覚だけでしか感じられなかった世界が、五感の全てで感じられていた。この場所がなんなのか分からない。だからあまり迂闊に行動は起こせないけれど、奥を探せば私がこんな夢を見続ける理由が見つかるかもしれないと自身を奮起させ、周囲をきょろきょろ見渡した。
 誰もいない。私を襲おうとする軍人や獣もいなかった。

 悲しくなるほど、静寂に包まれた世界。
 人っ子の影なんてなく、わたし以外の生き物がまるで世界から隔絶されたような場所は、いつ見ても寂しい雰囲気が見受けられた。
 が、ぶんぶんとかぶりを振って暗い考えを打ち消す。
 引き寄せられる感覚をそのままに入り込んだ隙間みたいなところだ。まずは情報……といえるものがあるのには些か不安ではあるけど、動かないわけにもいかない。せっかく、手足の自由が利くのだから。

 ええっと、じゃあ、状況の整理をしよう。

 ……わたしは、確か下界のファルシと戦ってて。それで、眩しい光で目を閉じちゃって、……、……いつもの夢とは違う? なにが? ―――― なにもかも、が。
 慎重に、かつ、見落とさないためにゆっくり歩みを進めながらそっと壁に手を触れる。ひんやりと、冷たい。
 ひとつの都市を構成しているのか、機能こそしていないが最奥に座する神殿を中心に広がっている街並みはコクーンのそれと変わりない。

 すぅ、と息を吸い。そして。

「も、もしもーーし……」

 しん。…………無言だけが虚しく戻ってきた。

「……まあ、返事があったらひっくり返るけど」

 少しだけ声を張り上げて、誰もいないのかを確認する。思ったとおり返る声などない。あったら怖い。

 さく、さく、と不思議な足音が立つ地面を歩いて歩いて。
 歩いて、歩いて、──歩いたその先に。遠くから見ているだけだったそれが間近に迫る。

「わっ、はぁ……近くで見るとより大きいなあ」

 眼前に聳え立つ、人の気配がない神殿。複雑な構造なのが一目見てわかる程、曲がりくねったデザインの中に見え隠れする祈りを讃え、守護する意匠。やがてそっと視線を上に向ける。
 ……もっともっと上の方、そこには灰色の空を貫くみたいに設置された大きい鐘がある。何度も見つめてきた、わたしよりも二回り大きいそれ。だれもいないのに、だれがあれを鳴らすのだろう。風すらも、微弱なのに。

 でも。

 どうしてだろう。わたしは、あの鐘が響かせる音色を知っている気がした。
 厳かで、重い、何かが込められた音を。わたしは知っている。その意味は分からないし、……そもそも。
 なんで、わたしはそう思ったのかすら分からないんだ。わたしという肉体に宿る意思や心なんて、わたししかいないはずなのに。無意識ながらに、輪郭すらも掴めない警鐘を探してしまっている。触れて理解したくて手を伸ばしてもするりと鮮やかに抜け出していく、拒んでいるのは、ここという空間か、それとも……わたしの方か。

「……、…おじゃまします」

 答えの出ない思考をいつまでも続けていく余裕はなく、暗い闇底へ落ちていきかけた頭を無理やり掬いあげて、入口すらも曖昧な神殿へ足を踏み入れることにした。相変わらず薄暗くて、松明もない。
 どこへ向かえばいいか、なんて分からない。地図なんてものはあるわけないし、足元が暗くて何度か躓きかけた。
 直感だけで先へ進む。重たい扉も幾度かこじ開け、人が通れる最低限の隙間に身を滑り込ませ、感覚で言ったら上へ上へと登っていく感覚。支柱と支柱の間に差し込む光を頼りに進んでいき、ようやく。

 ───そこに、たどりついた。

 言葉が、世に溢れるありきたりな言語では言い表すなんてできない、美しくて、なにもないのに意思があると思わせるその玉座。吹き抜けの天井から降り注ぐ白く眩い暁光が、羽を輝かせ、鎮座している。
 声を無くしたまま、そこへ近づいて。

 何かの意志を感じる。
 人ではたどり着けぬ極地に漂う感情? 心? 何もかもが分からない。……分からないことだらけで、頭に入り込んでくるぐちゃぐちゃの羅列が吹き荒れて、当て嵌められない意志は無邪気で善意で、それを抱く微笑むその人は、

「───め、?」

 ふらふらとよろめいて。
 脳裏に過ぎる入り乱れるどこかの風景、いや、風景だけじゃない。知らない人の顔、何かの紋章、知らない人、知らない人、知らない人知らない人知らない人知らない人の、顔。

「あ、あ……」

 痛い。痛い。針で刺されたような痛みが頭の全部を蝕み、堪える声が情けなく震える。だれか、だれか、たすけて。息が詰まる。支えが欲しくて伸びた指先が玉座に触れる、そのとき。

「だめ」

 その指先ごと何かに包まれた。

 華奢な手。痛む頭を押さえながら横を見れば、幼い顔立ちの少女が感情を見せない顔つきでわたしを見ている。

「いまはまだ、選択するいまじゃない」
「だ、れ……?」
「………あなたが呼んだの。あなたが、わたしを」
「わたしが?」

 わたしよりも小さい背丈の女の子。異質さに気づいても、何も言えない。
 なんでわたしの夢の中に? どうして? どういうわけ? 聞きたくても聞けなかった。頭痛と知らない風景やら人の顔やら、女の子やらで理解が追いつかないのもあるのに、わたしはやっと、遅すぎるタイミングでそれ、、に気がついた。
 刺青でも、シールでも、絵でもない。

 悪趣味な、気持ちの悪い烙印に。見るのは初めてじゃない、双子の片割れと───同じ烙印。

 紛うことなき、忌み嫌われ偏見と冷めた目つきで睨まれてしまう、全ての現実を破壊し尽くすルシの印。

「……な、え、……」

 指を放された感覚に意識を向けることなく、露出した右上腕部に触れる。
 セラと真逆の位置に現れた烙印は、わたしに絶望よりも驚愕をもたらした。使命とされるヴィジョンを視ていないのだ。咄嗟にすぐそばにいる少女の目を見やる。少女はうつむき加減で抑揚のない声を出した。「あなたは」

「弾かれてしまった。ルシにすることはできても、力の弱い下位の存在は、あなたを縛りたくても縛れない」
「ど、ういう」

 わたしの問いに少女は答えない。
 それどころか、まぶたが重くなってくる。

 まずい。まだ、なにも、きけていない……のに。

「使命は、自分で見つけなくてはいけない」

 誘われるがままに意識を手放しかける際、コクーンで見かけない衣服……民族衣装に近いものを身にまとう少女はずっと固めていた表情を和らげ、何かを言った。

 暗転する世界で、その言葉を、わたしは聞けなかったけれど。








「───運命を変えて、新しい未来を、あなたの未来を、わたしに視せて」
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