世界の引金

 なんとなく、勘づいていた。

 空閑有吾は豪胆だったけれども子供の域を出ない15歳という自分の息子を、たった一人だけで見知らぬ土地に放り出すような人間ではなかったから。人に軽々しく話せないような事情が、あまり当たってほしくない理由があるのだろうと感じていた。そうでなければ、厄介の種でしかない捨て子の私を“義娘”として説明した有吾さんは一体誰なのかという話になってしまう。
 遊真くんと初めて顔を合わせた時から可能性のひとつとして頭の隅に置いていたそれが、こんなにも呆気なく現実のものとなり形作られたことに迅くんと黙って話を聞いていた私は、どうしてだか妙に納得してしまった。義理人情とまではいかないけど、一際家族には甘かった人だったからかもしれない。

 空閑有吾は、その命をもってして息子の遊真くんを助け、塵となった。

 純粋に悲しいと思う。でも、涙は流れなかった。
 悲しいよ、だって、父親代わりだった。でも胸が痛くなっても眦は熱くならなくて、頬に何かが伝う気配もない。薄情、という表現は正しくなかった。ただなんというか説明しがたい感情が月が浮かぶ夜空のもと、私に襲いかかっている。
 遊真くんは言った。親父の故郷だけど、おれのいるところじゃないと。子供のままでいて許されるべき年齢なのに、重い経験ばかりを背負ったまだ小さな少年が言うには相応しくない言葉に、私はぐっと押し黙った。人の醜さも嘘も、数え切れないほど見つめ続けてきたルビー色の綺麗な眼差しが、楽しげに細められて、それから。
―――― ……自己嫌悪が、凄まじい」
「そうか? おまえがそんな顔する必要はないと思うけどな」
 ぼりぼり。ぼりぼり。
 もういい時間だというのに隣で躊躇いもなくぼんち揚を咀嚼する音を聴きながら、今は使われていない廊下で座り込む私はため息をついた。寂しげだとか、悲しいとか、そんなんじゃない。何者にも踏み込ませないあの無邪気な笑みを浮かべた遊真くんに、一言も返せなかったことがこんなにも恨めしい。
 私だって知っている。私がどん底にまで落ちたって何も別に変わらないこと。過ぎたことを悔やむのは、未来への遮蔽になってしまう。
「遊真くん、これからどうするつもりなのかなあ……」
 むこうの世界、つまり近界に帰ると告げた遊真くんの言葉に疑いはなかった。度重なる侵攻に辟易した人達が近界民に向ける感情はどす黒く、激情だ。ここにいるべきじゃないと感じてしまうのも無理はなかった。三雲くんたちと知り合って、何日かは楽しかったと言っていたから、拒絶だけを投げられたわけじゃないんだろうけども。
 あ〜あ……いつからこんなになっちゃったんだろう。
 ぐるぐる思考がループしている私を見て苦笑した迅くんが、ゆっくり頭を撫でてきた。よくしてくる子供扱いのそれではなく、不器用に、ぎこちなく動く手に張り詰めていた心が一瞬だけほぐれる。
「心配せずとも、遊真はここにいるよ」
 その言葉にハッと迅くんの顔を見上げれば、困ったように眉尻が下がった。続けて「こういうの、あんまよくないんだけどな」と前置きを述べてから。
「メガネくんたちと入隊の意思を固めて、玉狛支部に所属する」
「……それ、分岐点は……三雲くんかな」
「ご明察」
 三雲くんが説得できなければ破綻する話だが、たぶんそれはない。
「でもそっか。……そっか、遊真くんが後輩になるのか」
 私にとって弟にも等しい存在が後輩になることに抵抗はなかった。逆に自分の持つ知識や経験をここぞとばかりに教えたくて仕方がない。
 むにむに。我ながらひっどい顔をどうにかすべく頬を手で押しつつ、そっと頭上の手をとった。これは予想外だったのかただ単純に視えてなかったのか、薄縹色の目が小さく見開かれて、なんだかちょっとおかしい。
「ありがとう迅くん。少し、元気出た」
「……そ? ならよかった。もうそろそろレプリカ先生が合流するし、突っ込まれても答えられないんなら意地でも普通になるしかないだろ」
 レプリカ先生? 話が見えず廊下の先を見ている迅くんの視線を辿れば、黒いフォルムの特徴的なボディが映り立ち上がる。あぶない。空気の読める方だけれど、さっきまでの表情はあまり人に見せていいものじゃなかったから。
『ジン、カサネ。お待たせした』
「いやいや、来てくれるだけで十分だって。ご足労どうもー」
 迅くんがお馴染みのポーズをとり、「かさねもちゃんとついてくるんだぞ。というか、かさねメインだしな」とリビングに戻る気満々だったのに、お声がかかってしまった。というか、私がメインとは?
 そして先導されて入室したのはひとつの訓練室。予め栞ちゃんにルームの設定をしてもらっていたのか、中はだだっ広い河川敷に風景が様変わりしている。エンジニアたちが実際の景色データをコンピュータに組み込んだ世界は、本物に限りなく近い風景を作り出していていつも感心してしまう。前にいた迅くんが振り返った。「さて、と」らしい飄々とした顔つきではない、言うなれば真面目な表情にドキッとする。
「遊真がボスの部屋に来るまでの間、そんな時間はないがレプリカ先生、かさねのトリオン能力を測定してくんないかな?」
「私の?」
『心得た』
 突然の申し出に小首を傾げる。測定も何も、ボーダーに入隊した直後に測っているし、何だったら定期的に本部での検査もしている。重ねて測定をする必要も無いんじゃないか。そう目で訴えても、迅くんはまあまあと背を押してきて断ることも出来ず、いつの間にかにゅるんと伸びていた測定策というらしき、レプリカ先生の……舌? 舌でいいのかなこれ。まあいいや、測定策に指を伸ばして緩く握った。
『少々時間がかかる。ゆっくりしていてくれ』
「うん」
 通常の測定でも似た感じの方法であるため、特に不安に思うこともなく待ち続けた。その間、気取られぬよう迅くんを見遣ると、やっぱりどことなく不安げな面持ちに見えてしまって、心がざわつく。大抵それは、ひとりで抱えて飲み下してしまう顔だと私は既に知ってしまっている。
「こっちの測定器は数値だけを表示するからな……視覚化してもらって、自分のトリオン能力を客観的に見るのもいいと思って。直近の数値は?」
「30……は越してたかな」
「相変わらずえげつない量してるんだよな〜。次はおれも測ってもらおう」
 しかし、本人が何も語らないのなら、と私は探りというか踏み込むのをやめてしまう。敢えて踏み込んで、相手を深く傷つけてしまうのが怖かった。私は私のやり方でサイドエフェクトでとやかく言われる迅くんを守ってきたけど、それが実際どれだけ迅くんの助けになったのかなんて、知る由もない。
 自己満足だとしても、迅くんの支えになるのならと続けてきていた。幸いにも嫌がられたり直接的にやんわりとやめろとは言われていないので、それだけは良かった。
 と、測ってくれているレプリカ先生が動く。『計測、完了だ』光が遮られた。ふと上を見て、唖然とする。
「わ、ぁ……!」
「おおー!」
『これほどまでのトリオン能力は類を見ない。チカと同位か、それより僅かに少ないか……』
 レプリカ先生が何事かを呟いているが、正直それどころじゃない。基本的なトリオン量は5〜7であることは知っていて、多いと言われる出水くんやニノくんよりも凌駕する数値も理解していた。だが、認識を改めなければならない。理解していたつもりでいたのだ。
 緩慢に回転する淡く輝いている立方体を見上げ、ほう、と声が漏れる。
「これが、私の……」
 曙光を背負い、ただそこに在る立方体。
 “みんな”を守るための力で、己の身には持て余してしまう前提条件。
 確かに分かってはいた。能力が際立って高いのも、自分のトリガーから飛び出る威力がとんでもないのも。それでもである。私は本当に、このトリオンを上手に使いこなせているのかは分からなかった。
 私の体より一回りも、二回りも大きな立方体。みんなを守るためにこれからも。
「ぶぇ!?」
「まーた変な顔してる」
「ひはひ、ひはひお……」
 気配なしに両頬を引っ張り始める迅くんに抗うも、段々と楽しくなってきたのか「伸びるなー! おもちみたいってか?」と伸ばしてくるもんだから、咄嗟に迅くんの手を掴んで払う。
「もう! 痛いよ!」
「ごめんって。しょげてる美人さんは放っておけないタイプでしてね」
「うさんくさ〜。さっき変な顔って言ったもん」
 ひどいなおまえ! とか言いながら傷ついた様子を見せないまま、踵を返していく。どうやら訓練室をオフにしてくるらしい。
 残されたレプリカ先生が私に近づいてくる。
『カサネ』
「あ、レプリカ先生ありがとうね」
『問題ない。ジンとカサネは昔からの間柄なのか』
「? そうだよ、幼馴染みたいなずーっと一緒ってわけじゃないけど、何が嫌で、何が好きなのか、手に取るようにわかるぐらいには、一緒にいた仲間」
 蜃気楼のごとく消えていく河川敷を眺めながら、砂利の中で大きめの小石を蹴りあげる。宙を舞い、辛うじて表現されている川面へ水飛沫をあげ落下するのをぼんやり見て、呼び戻される前に訓練室から退出した。
 迅くんの話だと支部所属になるのだから、支部長の承認を受けなくてはならない。ボスの執務室に行こう。
「……と、その前に」
 律儀にも壁に寄りかかって待ってくれている迅くんの前に立って、頭の片隅にあった可能性の話をしようと口を開いた。
 遊真くんが隊員となって可愛い可愛い後輩になるのはぜんぜんいい。大歓迎だ。だけど、一筋縄ではいかないのが現実というもので。思い浮かべられる近界民ぜったい許さないぞ派の面々の顔を反芻させて、合理的に導き出した可能性。
 現在ボーダーが所有する黒トリガーはふたつ。本部にひとつ、支部にひとつ。そのうちの支部の方は基本的に個人の判断で使用されており、ぎりぎりパワーバランスは保たれている状況だ。……今までは、だが。
「城戸さんのことだから、絶対仕掛けてくるよね。遊真くんの黒トリガーと迅くんの黒トリガー、それに加えて近界民と来た。確実に何かが起こる」
 無言を貫く迅くんを無視して、尚も続ける。

「言っておく。仲間はずれは嫌だから」

「……ふはっ」
 ぴしゃりと言い放った言葉に噴き出して、失礼にもツボったらしくお腹を抱えて笑い続けるからぎっと睨みつけてしまう。な、なんで笑うんだ。後輩の道を守りたいと思うのは当然なのに……。
「ははっ、あ〜〜かさねってそういうやつだった」
「視えてるんでしょ?」
「まあね。今のままだといいとこ五分だろう。―――― どうする?」
「私に聞くの? 迅くんが?」
「うん。おまえならどうするかなって」
 何もかも見透かすような双眸が、やたらと近い。
 こういうのに関しては彼が手を抜くはずがないのを知っているため、私もこれまでに教えられた情報を精査し最善の一手を思考する。
 ここで選択をミスしてしまうと、遊真くんに楽しいことどころか血腥い騒動にぼっ発してしまう。なんとしてでも避けねばなるまい。
「三輪隊だけで来ないところを見ると、あっちには他の目的がある……? なにか、…………」
 A級部隊を揃えてけしかけることも可能なのに、それをしない理由。目的。意図。行事やらイベントやらは毎日たくさんあるし、防衛任務の手を休められない? いや違うな。強硬策に出るつもりなら有吾さんにお世話になった忍田さんが黙ってるはずがない。
 …………、…………忍田さん。正確には、本部長派。忍田さん直下の本部所属部隊がいるように、城戸さんにも直属の部隊がいる。
「! 遠征部隊……! そろそろ帰ってくる!」
「その通り。正直、相手するのはご遠慮願いたい面子が勢揃いな連中が、ちょうど三日後、夜に玉狛へ向かってくる」
 黒トリガーに対抗しうる力を持った、ボーダーの中でも指折りのトップチーム。指揮権は当たり前だが城戸さんが握っている。
「だからさっき、いいとこ五分って言ったんだ。……うん、私もあの人たちと相手取るのはちょっと……でも」
「でも?」
 私が何を提案するのか既に把握しているのに、あくまでも私の案として求める迅くんに、珍しく得意げに微笑んで。
「相手が合同部隊を組むなら、玉狛こっちも手を結べばいい」
 偶然か、必然か。この手の頼み事を引き受けてくれる人の目星も立っている。
 詳しいことを話す時間はないものの、迅くんは事前に手を回していた。それならば、と私は携帯を取りだしとある人へ一通のメッセージを送った。たぶん、断られることはない。迅くんに送り主の名前を告げて了承を貰い、頭の中で計算をする。残り三日。三日で糸口を見つけなければ。

「んじゃ、ボスんところに戻るか」



 ―――― 取り巻く環境が時と共に移ろいゆこうとも、私は決して逃げない。私が私であるために、私はみんなを守る。そうしたら、そうしたらいつかきっと。
 何も持たなかった浪速かさねのことが、ほんの少しでも理解出来るかもしれないから。

「………よし、正式な入隊は保護者の書類が揃ってからだが、支部長として、ボーダー玉狛支部への参加を歓迎する」

 待機していた執務室に、三人が並ぶ。

 空閑遊真くん。雨取千佳ちゃん。三雲修くん。
 奇妙な出会いから志を同じくしてチームとなった彼らの行先は、だいじなひとたちが居るであろう近界。

「たった今からお前たちはチームだ。このチームでA級昇格、そして、遠征部隊選抜を目指す!」

 後輩たち三人から視線を外して隣に佇む迅くんを見上げると、彼もまた私を見下ろしていて、私たちは顔を見合わせて同時に笑った。

今宵、月になる




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