海の見える共同墓地で手を合わせる。
 あの日から一か月が経過していた。線香の香りが吹きつける風に乗って、菖蒲の鼻をつつく。干し草のような甘い匂いの香は嗅ぎたくなるもので、共同墓地の代り映えのない墓石の下に眠る家族に祈る最中にくんくんと嗅ぎ分けていると、背後から革靴を踏み下ろす音が聴こえ閉じていた目を開けた。未剣家之墓と彫られた墓石を眺め乍ら、斜め後ろで止まった足音にもう一度そっと伏し目がちに祈りを捧げる。乳白色が目立つこの場で祈りを捧げ、佇む黒衣の人間は大層目立つだろう。喪服と思われるのが是であるが、実際はこの街の闇と影を仕切る組織に近しい存在だ。
 ……菖蒲の中で大きな分岐点となった未剣家での一件は、結果から云うと収穫は少ないながらも発見できた。微量に残された襲撃者の血が水面下で先代派である男の部下のものと合致し、森が信頼の置ける部下に処分を命じたのは昨晩のこと。尋問も取り調べもこれからであるため、これは菖蒲の推察だが。先代が死に、未剣家の管理権が次代の首領に自動で移行したことによる、力の分散を恐れた犯行だろうと。襲ってきた男は立場の上の存在に命じられ、しかも何らかの違法薬物を投与された末、狂気に満ちた顔つきで襲撃してきたのだ。
 そして、未剣家がこなしてきた暗殺の記録書も、菖蒲の手に渡ることになった。森曰く依頼や任務に赴いた父母か兄達が律儀にデータに記していたようで、手書きのものは一か月おきに焼却し、元データは一つのUSBにまとめられている。何時何処で、誰の依頼で誰を殺したのか、その家族関係、交友すらも記された記録書は今となっては確かめる術を持たないが家族の良心のように思えた。細やかなファイルに分別され、其々それぞれに数分で切り替わる暗証番号パスを掻い潜らなければ開くのさえ困難な仕様となっており、電子には疎い菖蒲が閲覧できたのも偏にパソコンに明るい部下を寄越してくれた森と其処まで取りなしてくれた太宰のおかげだ。
 幸せだった者、これから幸せになるはずだった者の未来を奪い断絶させた経歴を持つ菖蒲の家族が死んだことは、本当は喜ぶのが当然なのかもしれない。記録書を閲覧したのだって、心の何処かで罪を形として背負いたかったのかもしれない。 光射す場所で学生を演じようとも、菖蒲の立つその場所は血と悲鳴と怒号と銃声が蔓延る真っ黒な世界。償う、なんてことも烏滸がましい。ならば自分にできることは、できるのは、家族が葬った人達のことを刻み、遠くない未来に引き返せない地へ歩む自分が、意義を見つけること。何故菖蒲だけ逃がされたのか。完成されていた箱庭を飛び出し、世界を見て識って。意義、と云えど肝心な何かは未だ掴めず、けれど今はこれでも佳いと思える。
 静かに立ち上がり振り返れば、風に外套の裾を靡かせる太宰が無言で問うてきた。
 祈りは終わったのか、と。口角を上げる。太宰はそれで十分だったのか衣嚢から何かを取り出し、菖蒲へ手渡した。

「機械に強い人の手でも三段階認証を抜けられなかったらしい。最初は未剣さんの指紋、二つ目は声帯、其処は君の協力が有るから如何にかなった。けど最後の壁は不可侵のシステムでも付いているのか、おまけに数回失策っただけで凡てのデータが自動的に破棄されるプログラムが組まれていてね…下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる精神ではいかないから、とりあえず君に返すよ」

 って森さんが云ってた、ごめんね。
 そう云って眉を下げる太宰に菖蒲は力なく首を振る。記録を解析して見せてくれるだけでも感謝しているのだ。
 彼の云う三段階認証は、分別されたファイルで隠されていたが判る人には判る場所に存在していた、データとは違う何かが収納されているロック付きファイルのこと。同じく暗証番号が必要だろうと踏んでおり、請求された際は怯まなかったけれど同時に表示された「親愛なる娘へ」というメッセージと、「何度か弾かれると消去されます」との警告文によって阻まれた。娘は菖蒲であることは容易く察せれるが、紐づけられる認証は今のところなく、その解除も森の部下に頼んでいた。

「いいえ、とんでもない。尽力してくださったこと、感謝しています」
「何か心当たりとかは?」
「……特には。USBがあったこと自体知らなかったので、まあ、宛先がわたしになってるのでわたしに関するデータだとは思うのですが」

 厳重なセキュリティを設けてまで、閲覧者を限定した思惑は判らずも、無駄を嫌い何事も慎重な父が設定したものだ。無意味な情報では、ないだろう。
 こうして太宰が墓地までやってきたのは菖蒲の日々の診察の時間が迫っているからだ。供えた百合の花が揺れ、仄かに甘い薫りを運んでくる。塗装された砂利道を歩み乍ら、整えられた小さな花畑を見遣る。なんとも思わない自身の情緒は、矢張り自分が普通ではないのだと感じた。

「そうだ、森さんに聞いたんだけど。異能力の制御をしたいんだって?」

 話題を振ったのは、まるで今日の夕飯の献立を教えるような声。
 森に乞うたのは数時間前。森の庇護下に居るとはいえ、何時抗争に巻き込まれるかも知れない我が身は自分で守れるようになりたいと次げたのは確かだが、どうやら主治医は情報の断片だけで最適解を出し、自然と太宰が知れるよう手を回していたらしい。侮れない、と思った。

「はい。十中八九マフィアに参入しますし、それまでには何とか出し入れ程度はできるようになりたいと……」
「もし調整に失敗し暴走しても、僕がいるからねぇ。全く、森さんは僕を召使いみたいに扱ってくれちゃってさ」
「それは……つまり?」
「僕が見てあげなよって云われたの。腹立つくらい笑顔でね。はあ、とっとと死にたいのに」

 こうは云っているが、太宰は意外と面倒見がいい。
 階段を降りた先に、黒い車が見えた。運転席に白い影がちらついていて、それを認めた太宰はこれ見よがしに溜息をついた。それはそれは、相手へわざと見せつけるように。

「自殺の種類レパートリー増えましたもんね……入水に首吊り、ああ、あと爆弾も解除してましたよね、森さんが」
「あーあ…尽く阻止する森さんは悪魔だよ、そうに違いない。じゃなきゃ今頃は三途の川渡れてるはずなのになぁ」
「流石に肉体が木端微塵になりかけてる人を放っておいたら寝覚めが悪いと思います……」
「本人がそう望んでたとしてもかい?」
「大半は底の見えないトラウマと化しますよ……」

 肉片やら臓物やらが料理の炒めのようにごちゃ混ぜになった状態で飛び散れば、数多の死体を見てきた菖蒲だって頬を引き攣らせて腰を抜かす。真逆際どい会話をするようになるとは夢にも思っておらず、太宰の考えは読めない。自殺を試みて危篤状態に陥ったのは二度や三度ではなく、その度に救命措置を施す森の精神的疲弊には些か同情の念が沸き起こる。
 車内の人間に聞かせるためかやや大きめの声で文句を垂れる姿は、駄々を捏ねる子供のようだった。かと思えば、鳶色の双眸をぐるりと菖蒲に向けてにへら、と笑みを浮かべて。

「それなら未剣さん、心中しては呉れないかい?」

 逢引デートに誘っている感覚でそう云うのだから、本当に太宰が判らない。これの何が怖いのは、心中と逢引を同時に誘っているのだ。太宰の中ではこの二つは同じ意味を持つらしく、読めないタイミングで菖蒲を終末へ誘う。心中の誘いは菖蒲が初だと云うのも、よく判らなかった。
 太宰の自殺癖は悪ふざけでも何でもない。本気で死を渇望し、死ぬなら本気で一人で自殺もいいが菖蒲と心中でもいいと宣っている。

「……何度も云ってると思いますが」
「知ってるよ。考えさせてくれ、、、、、、、、だろう?」

 だから君が佳いんじゃあないか。
 心中願いはどうあっても見ず知らずの人間には断られる。市警に突き出されるか、しつこすぎると頬に平手打ちを食らう可能性のある呼びかけだ。
 それに、とあどけなさを残した笑みを貼り付ける太宰を見つめる。

「わたしを誘い乍ら、太宰さんは自殺未遂を続けるじゃないですか……矛盾してませんか」
「うん? 自殺をするのは最早一生作ライフワークだからね、できたら綺麗な美人さんと死にたいじゃないか」
「きっ……」

 呼吸をするかの如く甘い言葉を吐いた太宰に足が後ずさり、真意を探る。
 そんな様子を気にすることなく太宰は口元に手を置き、苦笑を溢して仰々しく両手を広げた。ふわり。外套が終劇を発する幕のように、ふよんふよんと揺れていく。

「拒否ではないということは君自身にも微かな希死念慮が有ると見た。今すぐにでも死ねるよう言いくるめるのは簡単だよ? 実に簡単なことさ。でもそれだと何だか失敗しそうな気がしてねぇ」
「……迫られたら、断れなさそうです」
「うふふ。的確な考察で賢い子は嫌いじゃないよ。……だから君が死にたい、心中したいと思えるようになるまで待ってみようかと」

 傍から見れば気が違えたようにも聴こえるこの会話は、残念なことに数回行われている。菖蒲自身、生に固執しているタイプではない。生きる理由も、それこそ死ぬ理由も不確かな不安定な足場に立ち、外部要因があればすぐに崩れてしまいそうなほど諸刃の剣のような足場には、現在ノックをすると同時に足を入れかけている存在がいる。
 それが太宰だ。
 却説、今回はどう返そうか。
 と、そこまで考えているとにこにこと笑いっぱなしの彼の後ろで動く人影が見え、菖蒲は柳眉を下げ会釈をした。微かな変化に気づいた太宰だったが一歩遅く、人影はずっしり太宰の頭に手を押し付けた。―――待ちくたびれた森だ。

「だめでーす! 心中も自殺も絶対にだめですぅ」
「いい歳した大人が語尾を伸ばさないでくださーい、あと重いよ」
「失礼な。そこら辺の男と比べると些か細い方だと自負しているがね。太宰君、君は私を待たせているという自覚を持ち給え」
「少女に近づく間違いなく三十路越えの男なんて、普通に事案でしょ」
「だーざーいーくーん??」

 容赦のない言葉にぐさぐさと刺さった様子を見せ乍ら、森は片手で菖蒲に車に乗るよう指示を出し、素早い動きで体重をかけられた手から逃れた太宰に滾々こんこんと何かを云っている。
 実年齢よりもはるかに若く見える森とどう見ても少年の太宰が軽く言い争っている光景は、どこか年の離れた兄弟の喧嘩に見えてしまい、堪えきれず噴き出してしまう。しかも笑いを聞きつけた二人が揃って同じ動作で振り向くのだから、とうとう可笑しくなってお腹を抱えて笑ってしまった。

「ごっ、ごめ、ごめんなさい……あはは、で、でも…二人とも、子供みたいに……!」
「だってさ、森さん?」
「いや君も含まれてるからね?」

 他意の含まれない菖蒲の笑い声に気が削がれたのか、大人しく後部座席に乗る太宰の後を追って、疲れたように息を吐く森の運転で、彼らは街を駆ける。


 日はまだまだ長い。黒を呑み込み、白が淘汰されゆくこの街──横浜。こたえを見いだせずにいる少年少女は僅かな光さえ覗かぬ闇を歩き、様々な現実を瞳に焼き付けていくだろう。
 残暑が残る道路を駆ける車外の何処かで、蝉の死ぬ音が聴こえた。



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